意識の進化 

 化学の一般理論は事物の(そして体の、あるいは種の)進化について議論する。この理論は、自然が自然淘汰を使うことを、細胞が突然変異する傾向を、そしてさまざまな種の体に改良が生み出されると仮定する。徐々に原始的な種は複雑な生命の形を取り、人間において進化の頂点に達する。生き延びるために適応に失敗した種のグループは、自分たちの遺伝子を広げるのに失敗し、よって死に絶える。

 進化論はしばしば有神論との間に軋轢があると考えられる。ではもう少し詳しく見ていこう。両者が分かち合える考えもいくつかある。しかし有神論者と進化論の無神論者バージョンの間には、どうしても意見の一致しない部分がある。それは宇宙の起源についての理解だ。有神論者は、最初の原因と発展のきっかけを、偶然や宇宙史の思いもよらないできごとでなく、至高の知性に帰すると考える。

 ヴェーダ聖典の見方は進化論の考えを先取りしているところがある。もちろん物質の進化という意味ではなく、意識の進化を論じているのだ。魂が束縛された状態において、意識は物質に閉じ込められるということになる。そして意識はその状態にある自分を自己として認める。原初の身体の中に生きる魂は、基本的な気づきを持っている。つまりそれらは自分と他者、食べ物と非食べ物を区別する。ヴェーダ文献はこれをアンナマーヤー(意識)と呼ぶ。これら初期の種から、魂は人間の形を得るまで上方へ上がっていく。そこでは、体は高次に発展した認識能力を持つ。意識の進化は魂が物質を超えて生来の霊的性質を理解し、十分に霊的生活が解放された状態になったとき、意識は頂点に達する。

 この観点から見ると、身体は単純に魂が物質的な欲望を満たすために使う、あるいは物質的性質の二元性――たとえば「愉悦・苦痛」「熱・冷」など――を体験するために使う乗り物である。ひとつの乗り物がもはや生命を維持できないとき、魂はわたしたちが死と呼ぶもののなかにそれを遺棄し、旅を続けるために新しい乗り物に移動する。霊的な目覚めなしに、欲望とカルマの反作用(リアクション)に従い、種によって、この終わりのない上下運動を続けることになる。しかし魂が自己実現に興味を持った瞬間、生と死を繰り返すこのサイクルの終わりが見えてくる。

 

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