人生の輪、サムサーラ 

 ヨーガや仏教に慣れ親しんでいる者ならサムサーラという言葉、文字通りには「ずっとさまようこと」を聞いたことがあるはずだ。それは誕生、成長、衰弱、死の繰り返されるサイクルのことであり、つねに回転する輪にたとえられる。サムサーラの輪は果てしなく回転し、魂はその執着次第で、輪の上で引っ掛かる。しかし彼らはそこから立ち上がることができる。

 魂はどのように輪廻転生するのか、あるいはこのサイクルでさまようのか。『バガヴァッド・ギーター』によれば、わたしたちの行動は、カルマ口座に預ける預金のように積まれていく。死に際で魂は古い体を脱ぎ捨て、前世に残したもの、またどんなカルマの投資をしたとしても、その欲望、執着、態度に応じて新しい体のほうへ引き寄せられていく。わたしたちは魂が一時的な体の中にあるときでさえ、「転生」するのを見ることがある。体は幼年から子供へ、思春期からおとなへと変わる。それは年老いたおとなになり、最終的に壊れて死亡する。こうした状態の中を通り過ぎていくのはひとつの「我」なのである。

 物質的な体において、わたしたちが通過する変遷は予測可能である。すなわち、生まれる、育つ、維持する、子孫を作る、衰弱する、死ぬ、など。わたしたちの体を作る細胞はつねに死に、入れ替わり、効果的に七年か八年ごとにほぼ新しい体を生み出すのである。もしあなたが最近わたしの友人になったばかりなら、子供時代のわたしの写真を見ても認識できないかもしれない。わたしの体はそのときとは異なっているのだ。しかしわたしはこれらの写真を自分だと認識できる。なぜならこれまでの自分の度重なる変化を目撃してきたからである。その意味で、七十歳の人物は生まれてから今まで、数多く転生してきたのである。

 死に際に、もうひとつの転生がある。魂はひとつの体を離れ、ほかの体に移動する。『バガヴァッド・ギーター』(2.13)は言う。「肉体をまとった魂は 幼年、青壮年を過ごして老年に達し 死後捨身して直ぐ他の体に移る」。わたしたちが死と呼ぶものは、魂が体を離れるときの瞬間のことである。

 わたしたちは二種類の物質的な体を持っている。ひとつは血と肉の体の総体である。そしてもうひとつは心、知性、間違ったエゴの微細な身体である。魂は、もっとも微細な元素であるエゴに包まれる。それは忘れやすく、真の霊的な自己認識すらできない。この状態にあって魂は心、身体、感覚を通して満足を求める。魂はそれぞれの人生でこの追跡に夢中になるので、深くしみ込んだ習慣や考え方に発展していく。死の間際にはこういった習慣はつぎの体をつくるための判断基準となる。『バガヴァッド・ギーター』は、そよ風が花粉を花から花へと運ぶように、わたしたちが育ててきた心の状態がわたしたちをつぎの誕生のほうへと運んでいく。そこでわたしたちは幸福と認識したものを追い求めつづけることができる。また幸福という考えをさえぎるものによって苦しめられている。このようにヴェーダの観点から見ると、さまざまな身体の形とそれぞれの身体の形の内部の多様性は、無秩序な機会から生まれるのでなく、それぞれの魂が過去に選択した結果であることがわかる。

 ヴェーダ経典『パドマ・プラーナ』は、世界には840万の生命の形態があると主張する。これには水生動物、植物、昆虫、爬虫類、鳥、動物、それに人類が含まれる。人類は論理的に思考する特殊な能力を持っている。それによってわたしたちは宇宙におけるわたしたちの場所について質問し、精神的な潜在性を理解する。それゆえ魂が最終的に人間という形を取って生まれるとき、サムサーラの輪を超越する機会がある。

 物質的な執着はつぎの人生までつづくので、霊的な進化もまたつづく。そのような連続する誕生のそれぞれで、わたしたちは(古い体を)脱ぎ捨てる場所を選ぶ。ときどきわたしたちは「古い魂」とみなす誰かと会う。その人が深い智慧と霊的な成熟を持っているという認識を基本としている。そのような特性は生涯の間、蓄積されるのである。モーツァルトのような神童を想像してほしい。彼は八歳のとき最初のシンフォニーをつくった。彼の音楽的素質はどこから来たのだろうか。『バーガヴァタ・プラーナ』は霊的分野における神童について多くの考察を試みている。たとえば子供時代のプララーダ。彼は五歳のときから意識の純粋な状態を見せてきた。彼はのちに偉大な霊的導師となった。

 霊的な舞台では、わたしたちはどんなものであれ、得たものを失うことはない。わたしたちはすべての覚醒と過去生からの霊的恩恵を持ってつぎの生を始めるだろう。この覚醒と恩恵は徐々に適切なときに意識に近づくだろう。もちろんわたしたちはつねに別の方向を選ぶことができる。また霊的進歩をめざすかわりに、それを忘れることもできる。わたしたちの「霊的銀行口座」が休眠状態になっても、口座は価値をなくすこともなければ、残金が失われることもない。『バガヴァッド・ギーター』(2.40)も言う。「この努力には少しの無駄も退歩もなく この道をわずかに進むだけでも もっとも危険な種類の恐怖から 心身を守ることができるのだ

 わたしたちの生を輝かす真実を祝福しよう。魂は永遠である。けっしてそれは死なない。霊的覚醒はけっして失われない。もし道を歩み続けるなら、歩み続けることが許された幸運を評価しながら、心の底からかならず幸せになるだろう。

 

私を意識するようになれば、おまえは私の恩寵により人生の障害をすべて克服することができる。しかしそのような意識で活動せず、偽我意識で行動し、私の言葉を聞かなければ、おまえは道を失うであろう。

   『バガヴァッド・ギーター』(18 58

 

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