時間
眠っている過去は忘れよ
そして未来の夢は忘れるな
あなたとともにある時間の中で行動せよ
そしてあなたは前進しなければならない
バクティヴィノーデー・タークル『サラガヒ・ヴァイシュナヴァ』
あなたの人生の平衡を保つために、諸様式を引き起こす、また創造における影響を持続させる原動力を理解するのは有益である。この力とは、時間だ。
わたしたちは時について測量の用語で語りがちである。すなわち秒、分、時間、日にち、年月など。しかしながら東洋の智慧の経典は、いかに時が測られるかは短く述べるだけで、かわりに自然の力としてそれを語る。それは圧倒的な影響力があり、わたしたちは前に押し出されるだけだ。
時は神秘的である。山を浸食し、海を蒸発させ、植物を根絶させ、太陽を絶滅させ、子宮から墓場まですべての生きものを創造において取り仕切る。何事も、誰も、それを一瞬たりとも変えることができない。征服者、大富豪、チャンピオン、天才、その誰もが最終的には屈し、蓄積したものすべてを譲り渡すことになる。どんな科学的達成も、画期的なテクノロジーも、それを変えることはできない。それは美にそそのかされることはない。賄賂もきかない。頭脳にだまされることもない。軍の武器もそれを止めることができない。しかし時はするりと手から抜けていく。それは見ることも、触ることも、味わうことも、においをかぐことも、聞くこともできない。時計の秒針がチクタクと音を刻むごとに大泥棒のようにそれはわたしたちの生を略奪する。
二千年以上前、賢くて臨機応変の才能があるチャナキャ・パンディットという大臣がいた。彼の実用的なガイドによってチャンドラ・グプタ王子は独力で暴君を打倒し、力強いマウリヤ朝を建てた。チャナキャは洞察力のある言葉で知られていた。たとえばつぎのような語句。「世界の富豪といえども、ほんの一瞬すら買い戻すことはできない」
わたしたちが持っているもののすべては「現在」である。運命をつくるのは「現在」においてである。「未来」は瞬間に下す選択によってつくられる。「現在」は「過去」によって形づくられる。しかし「過去」は永遠にどこかに行ってしまった。今この瞬間に集中するほうがいいだろう。
浜辺の子供たちは一生懸命砂の城を築こうとする。しかし夕暮れが近づき、潮が迫ってくると、必死に城が壊れないように力を尽くすが、それを守り抜くことはできない。海が膨張し、それを飲み込み、城を海に引きずり込むと、あとには城を成していた要素以外何も残らない。おとなの見学者は子供たちの努力を見ても(そして涙)無頓着である。しかし、彼ら自身の努力が子供たちとそんなに変わらないことを考えたりはしないだろう。わたしたちはみな物質的存在の砂で世界の達成の城を築きながら、生と死の渚で人生を過ごしている。しかし人生のたそがれで、高まる時の海は死の運命的な波を送り、すべてを洗い流してしまう。
私は時である。諸世界の偉大なる破壊者である。
バガヴァッド・ギーター 11.32
存在するものすべては、「ここ、いま」であり、「現在」は現れるや、すぐに消える。そして時がたつにつれ、わたしたちの寿命はいつのまにか、しかし確実に減っていく。『バーガヴァタ・プラーナ』(2.3.17)は、わたしたちに警告、指令、希望を与えてくれる。「太陽が昇り、沈むごとに、わたしたちは一日死に近づく。しかし至高者への奉仕に人生を捧げる者にとって、日没ごとに一日、永遠の生へと近づく」
人生の真の価値は生きた年数ではなく、その人の意識と貢献の質にあるはずだ。知られるかぎり世界でもっとも長生きしている木はスウェーデンにある樹齢9200年のヨーロッパトウヒだ。この寿命は驚くべき長さだ、とくにわれわれ自身と比べると。しかし短い生に霊的な力が加わると、とてつもなく大きな価値が生じる。『バーガヴァタ・プラーナ』(2.2.12)に言う。「この世界で何年もろくに経験をしていない、浪費された人生が伸ばされたところで、どんな価値があるというのだろうか。意識が充足した一瞬のほうがはるかによい」。イエスは33年間、聖フランシスは44年間、シュリー・チャイタニヤは48年間生きた。彼らの貢献ぶりは永遠に残るだろう。
真の幸福は永遠にわたしたちの内にある。しかしそれを探し求め、見つけるのもこの「現在」の瞬間しかない。無限の魂の現実の中にわたしたち自身を根付かせることによってその潜在性を評価するなら、あらゆる瞬間が信じられないほど貴重な天恵である。永遠とは、人生の連続する現在の瞬間における楽しく生きていく経験である。
聖なる愛がわたしたちの中で目覚めたとき、「意見」の世界よりもはるかに広く、深い世界に生きる自分自身を見つけるだろう。無条件の愛から力を得て、わたしたちは慈愛の見地から宇宙を見ることができるようになる。そこでわたしたちはすべての魂の永遠の性質を理解することになる。この魂は真のわが家を探しながら、宇宙創造における旅の間、ずっと戦っている。わが家とは、神聖なる者の恵みと愛と、再結合する場所である。神聖なる者はわたしたちの内にあり、存在するすべてのものの背後にある。わたしたちが喜んでそうするなら、最終的にわが家に導く恩恵と愛をさえぎるものは何もない。