内なる旅 

愛を通してひとつになる 

もし人が愛と献身で葉、花、果物、水を私に捧げるならば、私はそれを受け入れよう。

   バガヴァッド・ギーター 9.26

 

バナナ売りの物語 

 バクティを通じてわたしたちは愛の原形として、また理想的モデルとして、個人的な魂と至高の魂の間で分かち合うさまざまな愛のかたちがあることを学んだ。自らの能力に応じて、いとしい至高者にできうる最善のことを、また最善の自分たちを愛をこめて捧げるとき、それが小さかろうが、大きかろうが、主はほかの何も提供しないという満足によってわたしたちの心を満たし、恩に報いるのである。このシンプルな愛情の精神は至高者との関係の基礎となる。そしてまた他者との関係を満足させるものでもある。

 数年前、わたしはあるスーパーリッチな方の家を訪ねたことがある。彼は心のすべてをわたしに注いでくれた。金銭上の利益を追い求めることにどうしても時間が奪われてしまう、と彼は言った。億万長者になったあとでさえ、幸せを見いだすことができるのは小さなこと、すなわち友人、家族、慈善、精神的な実践といったものだという。これらには値札が付いていない、と彼は言う。成功はしばしば嫉妬や貪欲、猜疑心などを生み出し、また本当に重要なことのためのわずかな時間を確保しないため、人間関係を壊してしまうことがあるという。彼の妻は、幸運を手にする前、簡素な生活が楽しかった、それは富がもたらす複雑なことと無縁だった、と付け加えた。

 わたしは少しばかり物語の語り手として知られていた。そこで彼らは、人生においてもっとも価値あるものを理解することで、会社生活の過重な重荷を減らす助けとなる物語を聞きたがった。わたしの心は二週間前に訪れた静かな稲作の田んぼに帰っていった。その地域にはココナッツ、マンゴー、バナナの小さな森が点在していた。そのあたりはヤギがうろついていて、葉っぱをむしゃむしゃと食べていた。カラフルなコットンのサリーを着た女たちがひざまずいて焚きつけに使う葉などを集め、藁の籠に積み重ねていた。それから籠を頭の上にのせ、運んだ。子供たちは笑い転げ、クリケットをして遊んだ。田んぼのなかにはかつてそこに生活していた人を記念して建てられた祠があった。

 わたしは五百年前の物語をこの夫婦と分かち合った。わたしにとってこの物語は力強いメッセージを持っていた。物語の場所は西ベンガルのナヴァドウィップ(九島の地)で、この田んぼはガンジス川の川岸に近く、シュリー・チャイタニヤの生地からそれほど離れていなかった。

 シュリー・チャイタニヤはクリシュナの生まれ変わりで、若いとき、彼は自分の聖性を隠し、村人たちに混じって普通の人間の子供のように遊んだ。彼の家族や友人は彼をニマイと呼んだ。というのも彼はニームの木のもとに生まれたからだった。少年だった頃、ニマイはよくバナナとバナナの葉(ベンガルの田舎ではそれを食事のときプレートとして使った)をシュリーダルという物売りから買った。シュリーダルは砂ぼこりの多い道端に坐って古い布の上にフルーツや葉を並べて売り、なんとか生計を立てていた。ほかの行商人と違って彼はできるかぎり安い値段で品物を売ろうとした。彼にとっては生きていくことができれば十分で、もっと重要なことに集中することができた。わずかな利益のなかからその半分を彼はガンジス川の岸辺のクリシュナに捧げた。彼に二心はなかった。クリシュナへの愛は素朴で純粋だった。

 帰依者とともにいるための言い訳として、ニマイは毎日、シュリーダルのところにやってきてはバナナの値段交渉をした。ときにはニマイは半値でどうかと言ったが、シュリーダルはバナナを彼に渡しただけだったが、それがそのまま口論になってしまった。シュリーダルはニマイがじつは愛する主であることに気づかなかった。しかし心の中ではこの少年に神秘的な愛を感じるようになり、毎日ニマイが来るのが待ち遠しくてたまらなかった。だから、値段についてやり合えばやり合うほど、シュリーダルは幸福を感じていた。

 ある日ニマイはシュリーダルに挑むかのように問いかけた。「あなたはいつもクリシュナ! クリシュナ!と、唱えているが、あなたの人生はみじめだ。なぜクリシュナをあがめるのか。あなたのためにクリシュナは何をしたのか」

 シュリーダルはこたえた。「私は飢えていません。収入は少なくても、多くてもかまいません。どちらでもいいのです。私は服を着ています。私は生きているのです」

「でもご自分を見てくださいよ」ニマイは反論した。「あなたの服はボロボロです。あいた穴は結び目を作って隠しています。なぜなら針と糸を買うことができないからです。それに自分の体を見てください。やせ細って骨と皮だけのようです。あなたの家は草小屋で、穴だらけです。屋根は水漏れがします。そしてまわりを見てください。この町は無神論者だらけです。祈る人がいても、自分の利益のことばかり祈っているのです。彼らはみないいものを食べて、いいものを着て、すばらしい家を持っています」

 シュリーダルは答えた。「王様たちは宝石で飾った宮殿に住み、きらびやかな服を着て、悦楽に浸っているかもしれません。一方、鳥たちは木の上の草の巣に住み、毎日おなじ羽根をつけているかもしれません。王様たちも鳥たちもおなじように時を過ごしています。人生を、生を、楽しもうとしているのです。私も自分の人生を楽しんでいます。私は完全に幸せです」

 ニマイはさらにシュリーダルに挑むように言った。「あなたはぼくを愚弄することはできません。あなたがたいへんな宝物を持っていることを知っています。あなたは大衆をだましています。人々はあなたが貧しいと思い込んでいます。いつかぼくはあなたの宝物を見つけて、あなたにお見せします。そうしたらどうしますか」

 シュリーダルは答えた。「私は貧しい者です。あなたに見えるものそのものが、私という者です。あなたはなぜ私とケンカしたがるのですか。私はバナナとバナナの葉を売っている者にすぎません。私に何を求めているのでしょうか」

「バナナと草の根っことバナナの葉を献上してください」ニマイはほほえみながら言った。「そうしたらあなたと争うこともないでしょう」

「好きなだけ持っていってください。お代はいいですから。私はかまいません」

 ニマイは毎日シュリーダルにもらったバナナの葉をプレートにして食事をした。シュリーダルにもらった草の根っこからかぼちゃが育つと、ニマイはいつも母に渡し、料理を作ってもらった。

 何年かのち、ニマイがシュリー・チャイタニヤとして知られるようになったとき、彼はもっとも親しい信者にクリシュナの生まれ変わりであることを明かした。ある夜、信者たちを喜ばすために、それぞれに願い事をかなえてあげようと言った。シュリーダルはこの場にいなかったが、シュリー・チャイタニヤは何人かの信者に彼を探させた。シュリー・チャイタニヤは彼のところに来ると、クリシュナとしての本来の姿を見せ、願い事をするようにと言った。

 シュリーダルは圧倒されながら言った。「主よ、あなたから何を買うことができるでしょうか。何もほしくありません」

 シュリー・チャイタニヤは答えた。「わたしはあなたに恩恵を授けなければなりません。あなたの心にあるどんなものでもいいから、求めてください。王様の莫大な富と土地を差し上げましょう」

 しかしシュリーダルは欲しがらなかった。

「それなら神秘的な完全さを差し上げましょう。これは延長ヨーガを実践したときのみ得られるものです」とシュリー・チャイタニヤは言った。「これであなたは奇跡を起こす能力が得られるでしょう」

「それは気が散るだけの話です」とシュリーダルは言った。

「ではほかの願い事をしてください。どんな悩み事があっても、それから永久に解放されます」

 シュリーダルは少しだけ頭を下げて言った。「いえ、私はどれも欲していないのです」

「それなら精神世界における永遠の住み家はどうでしょうか。これは究極的な完全です。どうか受け入れてください」

「わたしはあなたと交渉したいとは思っていません。願い事のために心を売りたくはありません」とシュリーダルは言った。「わたしは心をあなたに差し上げることができます。その見返りが欲しいとは思いません。ただあなたに喜んでもらい、あなたのしもべとして身を捧げればいいのです」

「でも何か願い事をして」と主は要求した。「わたしの喜びのため、何か願い事をしてください」

「もしわたしが願い事をしなければならないとしたら」とシュリーダルはささやくように言った。「こうしてください。永遠にわたしのところにやって来て、バナナを盗っていってください。心の中で強く思います。美しい少年ニマイが私のバナナを盗みに来ることを想い出させてください」

 シュリー・チャイタニヤは愛情を感じて涙に暮れた。彼は少年の頃、シュリーダルの隠された宝を明かそうと約束していた。シュリーダルがひそかに心の中で楽しんでいたもの、すなわち純粋な献身という宝、この無限の冨を明らかにしたのである。

 大富豪であろうと、バナナ売りであろうと、それは重要なことではない。人が持つことのできる壊れない唯一の宝とは至高者への愛であり、彼と彼の創造物に奉仕したいと願う気持ちである。

 インドでは、スピリチュアルな実践生活を送るために、物質的な所有物を放棄する人々のことをマハーラジャ、偉大なる国王と呼ぶ。この称号はそのような人々にとって大げさすぎるかもしれないが、彼らの偉大なる冨と力を記憶するという意図があるのであり、彼ら自身がそれにふさわしい人物になるという願いが込められている。

 聖書のなかでイエスは言う。もしこの世界に宝をたくわえるなら、それは泥棒に盗られるか、衣蛾に食べられるか、錆によって腐食されるかだろう。しかしもし神の王国に宝をたくわえるなら、そのような破滅的な状態はないだろう。「自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」。(ルカによる福音書 12章33節)

 シュリー・チャイタニヤとシュリーダルのやりとりを観察することによって、わたしたちは与えることに没頭する無条件の愛の美しさと簡素さを評価するようになる。それぞれが愛する主の幸福をのみ欲するようになる。これは至高者と魂の間の愛の原動力であり、それは互いの関係のための理想を形づくっている。

 物語を語り終えたあと、わたしはホストの夫婦にディナーテーブルに案内された。そこで豪華なベジタリアン料理を分かち合うことができた。軽く談笑したあと、彼らといっしょに玄関まで歩くと、運転手が待っていた。豪勢な車に送られて、わたしは人が混んでいて蒸し暑いアシュラムのフロアに敷いた藁のマットに戻った。とても遅かった。藁のマットの上に横になり、目を閉じ、その日の美しさを味わった。わが心を喜びに満たしたのは、彼の冨でもわたしの貧しさでもなかった。わたしのホストに、あるいはほかの誰かに、わたしが愛する何かを分け与えようとする機会が得られたことだった。

 

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