聖なる愛は物質の限界を超える
物質生活の脆弱さを超越する愛への扉を、バクティはどのように開けるか、探求してみよう。さまざまな種類のすべての愛が、完全な原形として、個別の魂と至高の魂の間で分かち合う個人的な愛という側面を持つ。この世界のいかなる関係の健全さも、聖なる関係において、どれだけ徹底的に起源の純粋さを反映しているかによって測られる。『バガヴァッド・ギーター』(15.7)は言う。「この束縛された世界にいる生命体は、わたしの永遠なる極微部分である。その生命体たちは束縛されているために、心を含む六感覚のために苦闘している」
何年も前、腸チフスを患っているとき、人間の条件に関する特別な洞察を得た。何を食べてもわたしはひどい眩暈を覚え、胃に激しい、突き刺すような痛みを覚えた。食べなければ一安心だった。少なくとも痛みはなかったのである。しかし回復して、適切に食べられるようになるまでは、栄養を摂り、充足するという感覚はなかった。このことからわたしは貴重なことを学べたと思う。病気になった人にとって、絶食はいいことかもしれない。しかし絶食を、あなたの身体が健康で、食べられるときに感じる充足感と比較することはできない。
同様に、このかりそめの世界の誠実な関係によって満足は得られるが、この関係はエゴイズムや面倒な事態には脆弱で、結果として関係が終わることになる。誤った人間性や関係を取り消すことが、部分的だが、唯一の解決法である。この種の解放によってわたしたちは苦悩からのがれることができるが、バクティ経典によると、それだけではない何かがある。
誠実な献身奉仕によってのみ、わたしたちは魂の完全なる充足を理解することができるのだ。わたしたちが愛、美、楽しみに惹かれるのは当然のことである。しかし真の充足を感じるのは、渇望を至高者に結びつくことができてからである。忘我の愛(プレーマ)には、苦悩から解き放たれた平安が含まれる。この平安は、物質的限界を超越している。しかし十分高次の段階にあっては、プレーマによって、自発的な、恩に報いる、無条件の愛が与えられるのだ。
しかしどうやって無条件に誰かを愛することができるだろうか。彼(彼女)を知ったうえで愛してはいけないのだろうか。有限のわたしたちは、どうしたら無限の人のことを知ることができるだろうか。
至高者がその姿をわたしたちの前に表さないかぎり、至高者は無限のままではないというのが答えである。わたしたちはこの啓示を、精神面からあきらかにする真実の器になる魂とみなす。啓示は高次のどこかから、神の恩寵とともにやってくる。それはわたしたちが届くかどうかという能力に左右するわけではない。ヨーガの熟練度や無執着の段階、哲学的分析や知識、神の恩寵があるという確信を持たせるだけの働きぶりなどは関係ない。それは至高者自身からやってくるものなのだ。バクティの教えによれば「神自身のやさしい意志によって」やってくるのである。至高者は信仰、愛、奉仕の誠実さに報いようとする。それによってわたしたちは神に近づき、神もまたわたしたちに近づくのである。『バガヴァッド・ギーター』(10.10)のなかでクリシュナは言う。「わたしを愛し、つねにわたしに奉仕する者たちに、わたしは真の知性(ブッディ・ヨーガ)を与える。それにより彼らはわたしのもとに来るのだ」