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 わたしがはじめてタラバイに会ったのは、ムンバイの孤児院でのことだった。彼女はそのとき五十代だった。しかし彼女の苦痛に満ちたボロボロの人生によってもっと年をとっているように見えた。彼女はやせ細り、皺だらけで、髪はみな白髪になり、よれよれの古いサリーを着ていた。タラバイはやもめだった。夫は貧しい農民で、三人の子供とわずかばかりの干からびた土地を残して先立った。子供たちを養うために奴隷のように働いた。日の出から日の入りまで、湿ったセメントを入れた重いバケツを頭の上に載せて、一マイルの距離を歩かなければならなかった。そのときは、戻るのにバケツいっぱいの石を運んでいた。インドのどぎつい日射が照りつけるなかでの肉体労働はきつかった。彼女は体が弱く、いつもふらふらしていたが、一日中行ったり来たりしていた。報酬は挽いた小麦粉で支払われた。それはその日かつかつ子供たちに食べさせる分しかなかった。しかし彼女はけっして不平を言うことはなく、誰かに何かを頼むこともなかった。

 しかし母親として彼女は子供たちのことを思って嘆き悲しんだ。というのも彼女が教育を受けていないので、彼女は子供たちに教育を与えることができなかった。あるいは基本的なものも与えることができなかった。彼女はわれわれの孤児院にやってきて、一番上の子供を預けることはできないかと聞いてきた。虐げられてきた彼女は威厳があふれて輝いていた。わたしたちは彼女の息子を預かることで同意した。泣きながら彼女は息子を抱擁した。息子を置いていくのは耐えがたいことだった。しかしそれが息子が教育を受ける唯一の方法だった。彼女は校長のほうに向き直ると、子供にたくさんの雑用をやらせて生活費を稼ぐようにと頼んだ。「ただ飯を当たり前のように思ってはいけません。でなければ乞食と同じですから」と彼女は言った。子供は十歳だった。今まで見たなかでもっともやせこけた子供だった。彼の腿はわたしの手首ほどの太さしかなかった。

 少年はきわめて礼儀正しく、性格はおだやかで、純粋に孤児院に受け入れられたことを感謝しているようだった。何か月か経つうちに、彼は学校で一生懸命に働くようになった。そして孤児院で、ボランティアで雑用をこなす最初の人間となった。彼に対する同情と愛情は日増しに高まっていった。彼は骨を折って英語を学び、学んだ新しい文章を分かち合うため、わたしの部屋に駆け込んだ。すべてのことが彼にはむつかしく思えたが、誰よりも賢明に働いた。彼への、そして彼の母へのわたしの関心はいっそう高まっていった。

 わたしたちが彼の村を訪ねたその日、道を歩むたびに塵埃が巻き上がり、わが口はカラカラに乾き、鼻柱は焼かれ、目はひりひり痛んだ。どちらを見ても荒廃した、ひび割れた田畑がつづいていた。あちこちに、成長するため旱魃と闘ったわずかな萎れた穀物が残っていた。生き残ったわずかな木々も、実際丸裸だった。

 ついにわたしはタラバイの泥壁の小屋にやってきたが、それは彼女を驚かせてしまった。当惑しながらもたいへんな喜びようで、彼女は両手のひらを強く押し合わせて、両目に涙をためたままわたしを出迎えた。彼女の家は、4メートル半四方の四角い部屋ひとつで、床と壁は泥で固められていて、屋根は草ぶきだった。部屋にはただのひとつも家具と呼べるものはなかった。そこには二つの金属製ポットと3ガロンの水入れの土甕、すねの高さの調理用の土の台しかなかった。彼女は燃料用の枝を集めた。ほかには素朴な祭壇があり、その上にはクリシュナの写真が飾ってあった。古い木の幹があり、その上には家族の衣服がたたんであった。電気も流れる水も、水道設備もなかった。家族のトイレは外の原っぱだった。

 あきらかに貧しかったのだけれど、彼女の家は驚くほどきれいなだけではなかった。よごれひとつなかったのである。金属の食器のすべてが輝いていた。すべての物があるべき場所にあった。規則的に彼女は壁や床を洗い、水を混ぜた土をそれらの上に薄く塗った。この水は1キロ以上離れたところで汲んだものである。朝になると彼女はカラフルな鉱物の粉で床や壁に伝統的なデザインを描いた。洗濯物やきれいにした布きれはきちんとたたまれて、所定の位置に片付けられた。このようにすべてのものがよく保たれている家をわたしは見たことがない。設備は原始的で、彼女のしなければいけない仕事は子育てだったが、母親であること、また家の世話をしなければいけないことに誇りを持っているように思われた。わたしたちはそれを見ることができたし、感じることもできた。彼女の家は愛にあふれていた。

 わたしが称賛すると、彼女は恥ずかしそうに笑い、地元のマラティの方言で答えた。「これはクリシュナの家です。私は清潔にするのが好きです。これらはクリシュナの子供たちです。わたしは彼らに仕えるのが好きなのです」。彼女が言おうとしていることは明確だった。

 わたしの仲間のひとりが控えめに、彼女の重荷を少しでも軽くしてもらおうと、金銭の授与を申し出たことがあった。しかし彼女は丁寧にきっぱりと断った。彼女は子供たちが大きくなって、施しで生きていく乞食の家族だと考えてほしくなかったのである。彼女は誠意をもって、神に与えられたものに感謝の念を示しながら、生計を立てていくという模範を示し、彼らに教えたかったのである。彼女はあまりに多くの子供たちが乞食になり、施しを期待していると感じていた。たくさんの困難に直面したにもかかわらず、この教えが彼女の家の原則だった。

 タラバイの家に着いてからしばらくしてから、彼女の家はほかの村人でいっぱいになった。部屋は午後の太陽でわずかに照らされていた。丸い穴が唯一の窓の役目を果たしていて、そこから日射が入ってきたのである。暑かった。タラバイは乾いた葉から作った小さな扇を取り上げ、わたしに向かってパタパタと煽った。村人たちはわたしにお話をしてくれるよう頼んだ。この光景からバーガヴァタ・プラーナの好きな物語が浮かんできた。一節、一節を、ゆっくりと、通訳に時間がもてるように話した。私の語った物語はつぎのようなものだった。

 

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