贈り物に話を戻すと 

 何年か過ぎて、タラバイの息子が大きくなって、ごく自然に孤児院の仲間たちの間でリーダーになり、教師たちにも気に入られていた。彼はとくに学問の才能に恵まれたわけではなかったが、誠実さ、勤勉さ、礼儀正しさで秀でていた。通っていた公共の学校では、勉強では一番で、たくさんの奨学金をもらいつづけた。

 部屋に戻り、タラバイからのミステリアスな贈り物を眺めたとき、こうした記憶が心にあざやかによみがえってきたのである。贈り物を入れたよごれたバッグから塵埃が雲のように浮かび上がった。それが落ち着いたとき、この特別な贈り物が何であるかわかったとき、わたしは驚いた。集まっていた農民たちにとって、それは貴重なものであるとともに、彼らの生活、苦境、愛のシンボルだったのだ。贈り物は何なのか。それは泥で固めた何百もの殻で、長い茎が何本も飛び出していた。自然のままの、採ったばかりのピーナッツの束だった。

 これは息子を助けてくれたことに対するタラバイなりの感謝のしるしだった。このピーナッツはその年に採れた収穫物だった。わたしは彼女が毎日水瓶を持って何キロも歩き、作物を育てているさまを心に描いた。床の上の泥は作物を育てたすばらしい土だった。

 ピーナッツだ。大きくなる前、わたしは繰り返し聞かされていたものだ。だれかが仕事に対し十分な報酬を受け取っていなかったり、何かが安く売られていたりしたら、それは「ピーナッツだ」と。

 しかしわたしの母はもらうのが宝石だろうが、素朴な花であろうが、感謝の念を持つべきだと力説していた。「大事なのは考え方だからね」と母は言った。母は、モノが幸福をもたらすことはないと教えてくれた。愛だけがもたらすのだ。子供として、彼女の言葉がいつか永遠にわたしの心に刻まれることになろうとは思いもよらなかった。そして何万人もの人と分かち合うことになろうとは。母の言葉は実際わたしのバクティのファースト・レッスンだった。床の上の泥だらけのピーナッツは信仰の宝だった。

 説明はいらなかった。長い間、わたしは泥だらけのピーナッツを友人や生徒と――富める者も、ミドルクラスも、貧しき者も――分かち合ってきたのである。これらを食べる人々は含まれる親切さや寛容さによって栄養に富んでいるとわたしは信じた。わたし自身ピーナッツの殻のひとつを破って、ピーナッツを口に入れたとき、わが舌はとろけそうだった。ピーナッツを心から味わったのである。

 ところで修士号を得たあと、タラバイの息子ジュニャーナデーヴはムンバイの代表的な大学の数学の教授になった。わたしは彼の結婚式の名誉あるスピーチを請け負って、のちに最初の子供の名付け親になった。彼の母親が示す不断の模範によって、彼は懸命に働くこと、威厳を保つこと、謙虚でいること、感謝の念を持つこと、そして至高者への愛の大切さを学んだ。

 純粋な心を持った人、雄弁家であり、専門家であり、素朴な村の女性でもある人の徳性のなかに人生の真の宝がある。すなわち至高者への愛が。この愛は自然に誠実さや純粋な寛容さを伴っている。多くの祈りが平和や調和を歌っているけれど、憎悪と流血の残忍な歴史を通して、宗教は人類を分割してきた。しかしながら利己主義と欺瞞のベールの向こうのすべての真の精神的な道の本質に、純粋な魂とその至高者との関係の内在する美しさがある。もしわたしたちがその美しさに触れるなら、すべての存在とすべての創造の内在する美しさが理解できるだろう。そして自分たち自身がその統一の道具として奉仕していることがわかるだろう。

 至高者の名前のひとつがハリー、すなわち「盗む者」である。ハリーはすべての美しいものであり、彼の無限のやさしさははかない喜びや痛みから心を盗み、かぎりない喜びのため池のなかにわたしたちを匿ってくれる。

 彼はまた、ガナシャム、すなわち青いモンスーンの雲のように美しいものとして知られる。というのも彼は、幻影の燃えさかる炎によって焼かれる心に終わりのない神の愛の雨を降らすのだから。

 もうひとつの名前がバクタ・ヴァツァル、すなわち純粋な愛によっていやおうなしに征服される者、またいやおうなく神の恵みで心を征服する者である。

 

わが親愛なる主よ、

あなたは数えきれない名前を通して、

ご自身がだれとも触れ合えるようになさいました。

それぞれの名前において、

心を浄め、プレーマ、すなわち忘我の愛を目覚めさせるために、

あなたは聖なる力を注がれました。

人が誠実であれば、

あなたの名前を唱えるのに、むつかしくて堅いルールなどありません。 

  シュリー・チャイタニヤ
 『チャイタニヤ・チャリタムリタ:アンティヤ・リラ20.16』 

 

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