高次の愛を理解すること 

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 悟りというのは、世界が本質的に聖なるものであることを、生きることが至高者との誠実な協力関係であることを、すべての瞬間がまわりのすべての人々に愛の手を差し伸べる呼びかけであることを、はっきりと、つねに気づくことである。

 精神世界はわたしたちのそれぞれの内にある。それを理解するためには死ななければならないということはない。ヴェーダ経典によれば、わたしたちが至高者を愛する度合いによって、わたしたちは他者、あるいは自分たちの中に、主の存在があることを理解するだろう。

 物質的存在は永遠の実体の反映にすぎない。そこではわたしたちがそれぞれ探し求める充足の本質が永遠にあきらかにされる。至高の存在へのまどろんでいる愛が目覚めるとき、わたしたちは内なる永遠の領域を暗示される。なおもバクティ経典と聖人たちは永遠の世界もまた超然としていると説く。それは実際にある場所であり、宇宙の創造を超越した目的地である。サンスクリット語でこの場所はさまざまな名で呼ばれる。たとえば、ヴァイクンタ、すなわち「不安のない世界」。そしてパラヴョ―マ、すなわち「至高の住み家」。『バガヴァッド・ギーター』(8.20 15.6)はつぎのように説明する。「だがこの顕現、未顕現の現象を超えて、別の永遠な非顕現自然が実在する。それは至上至高にして不滅。この世界のすべてが消滅してもそのまま残る。わたしの住む至高の国は太陽、月、火や電気に照らされているのではない。そこに達した者はけっして再び物質界に戻ることはない」

 利己的な興味から完全に距離を置いて、神に奉仕するために生きている人々は、すでに永遠の領域に住んでいる。彼らは周囲のどこにも神性を見いだす。というのもすべては至高者を思い出させるのであり、彼らを至高者に近づけるからである。この世に同時に生きるもの、また永遠に生きる者にとっては大いなるミステリーである。もっとも深いレベルのヨーガを会得した者はそのことをよく知っている。

 ヴェーダ文学のなかに見いだされるような、何世紀にもわたってバクティの聖人たちに理解され、描かれたような、物質界を超越した精神世界の描写をあなたがたと分かち合いたい。この本の目的は、バクティ・ヨーガの基本的な教えや実践の普遍的な本質を、またそれらが日々の生活にどのようにかかわっているかを提示することだが、精神世界における愛の贈り物の交換の描写は短いながら、あなたは魅了されるかもしれない。それらが精神的真実への窓口となり、わたしは魅了されたのだから。

 ヴェーダ経典によれば、物質的創造世界は無数の宇宙から構成され、これらの多数の宇宙の中において、わたしたちの宇宙はちっぽけなしみにすぎない。こうした無数の一時的な世界は、果てしない霊的な空のたったひとつの雲のようなものだ。多くの人はそれを「白い光」とみなす、すなわちサンスクリット語でブラフマジョーティ、広がる精神的存在である。この聖なる光は、神の非人格的な、すべてに広がる、未分化の「一」に神経を集中し、覚醒を得た人々の目的地である。

 永遠の霊的な天空のなかに、霊的な惑星がある。至高者はこれらの惑星それぞれに居住するために個人的に自分自身を拡張する。これらの惑星上の生はけっして終わらない。というのもそこには心配事などないからだ。腐敗することも、死ぬこともない。これらの世界に住んでいる生きものはみな純粋に霊的な意識のなかにあるのであり、彼らは物質的ではなく、霊的な体を持っている。ある至高の主はこれらの生きものと暮らしていて、それぞれの魂の特別な、ユニークな彼への愛に報いている。こうした霊的な惑星は、至高者の本性に集中し、覚醒を得た魂の目的地である。

 

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