(2)

 霊的実践の最初の段階にいる人々のために、聖なる諸経典は、一般的に、その偉大さに敬意を表しながら至高者に近づくことが重要であると力説している。このことによって、神を信頼していること、また神の言葉に従う必要があることを評価するようになるよう、手助けをする。実践修業が進んでいる人々のために、しかしながら、バクティ経典は、人が至高者と持てる各種関係は無制限だが、それらは五つの大きなカテゴリーに分類することができる。諸経典はこれらを「ラサ」、すなわち「関係性の風味」と呼んでいる。

 最初のラサは、もっとも重要なもので、中立的なものである。すなわち偉大さを認識しながらも、受け身の崇敬の念によって特徴づけられる神の純粋な愛である。

 第二のラサにおいて、活動的で、ダイナミックな奉仕の感情は傑出している。従者の愛は至高者の卓越した地位への敬意がしみ込んだ愛であり、彼らは敬愛する主の意思に身を捧げるのである。

 第三のラサは、親しい友情を基盤とした愛である。それは自然のままの愛の交換の自由な流れによって特徴づけられる。しかし畏れや崇敬の念によって距離が置かれてしまうようなものではない。前の二つのラサ(中立的なもの、従者精神)の理解は聖なる友情に含まれる。より深い親密さが加わるけれど。

 第四のラサは、親の愛。神を師匠や父親のように見るのではなく、帰依者は至高者を彼や彼女の聖なる子供とみなす。すでに述べたように、小さな子供たちは自分が世界の中心と考え、何かと要求しがちである。親の気持ちとしては、子供にすべてを与えたくなる。この世界ではそのような愛に並ぶものはない。そこで至高者を多くの子供たちからいつも嘆願される天界の父として思い描く伝統的な姿に加えて、バクティ文化は、至高者が子供の役割を担い、このラサを味わいたい人々の愛に報いるという姿を提示するのである。愛する親が見返りを期待することなく、無条件に子供に愛を与える。

 絶対的真理、すなわち宇宙の全能創造者、維持者、破壊者は幼い子供として現れることを選ぶことができる。この理想はクリシュナの神性の概念のなかに特別な方法で実現される。クリシュナが腕白坊やの頃、限りない無償の愛をもって、両親は彼をしかりつける。彼の力を認識しつつ、また矯正が必要な自立していない子供としても見る両親の愛に圧倒されて、クリシュナはすでに自己充足した神であるかのように、大いなる満足を覚える。

 最後に、第五のラサは夫婦愛。すなわち神聖な恋人として至高者に近づく魂の、束縛を解かれた、完全なる服従のことである。

 わたしたちは物質世界におけるなじみ深い関係の、限られた、一時的な現れを経験している。しかしそれらのすべての起源は、至高の者への愛および結びつきである。結びつきのうるわしさと楽しさは、幸福の基本である。わたしたちが本来備わっているはずの霊的な愛を理解するとき、幸福は最大限に満たされる。

 

⇒ つぎ