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これら五つのラサは、さらに二つのカテゴリーに分けられる。第一のカテゴリーは、畏敬と敬意の念を持ったうえでの愛である。至高者のかつてない無限の力と偉大さをはっきりと認識することによって増幅した愛である。第二のカテゴリーは、至高者のやさしさと美しさを認識することによって、その超越的な力が覆い隠され、よりいっそう増した親密さである。
純粋なバクティを実践することが、世界に与えた際立った贈り物のひとつであることにわたしは気がついた。少なくとも理論上は、霊的な道を実践する誰もが、親密な愛を提供するために、至高者が親しみやすさをあらわにしていると考えることによって、得るところがあるのだ。わたしたちが彼の魅力的で愛嬌のあるところに心を奪われているとき、とくに親しみを感じるのである。
さまざまな種類の聖なる愛のなかで、至高者のやさしさと美しさを認識することをサンスクリット語でマードゥリャ(madhurya)という。すなわち至高者に対する深い愛情の感覚である。いくつかのバクティの教派は、これをもっとも高次な教えとして尊重している。至高者の知識はマードゥリャに含まれていて、それが表面に出ないようにしていている。そして無限の魅力に満ちた、最愛の至高者への愛の、自発的な表現に従属している。愛が親密であればあるほど、それに報いるため、普遍的な師匠として、至高者は公式の役割から一歩踏みはずす。最高裁判所のある裁判官の例を見てみよう。裁判所で彼は「裁判官」と呼ばれる。法廷の外では、彼は友人たちは彼と冗談を飛ばしあい、子供たちは彼と遊びたがり、彼の両親はもう少し健康に注意を払うよう口を酸っぱくして言っている。そして妻はゴミを外に出してきてね、というものように要求する。おなじひとりの人物が、いろいろな異なる関係を維持するために、さまざまな役割を担っている。
神のことを忘れたい人々のために、無数の幻影を作り出すこの世界にはエネルギーがある。同様に、主を愛する人々のために聖なる幻影がある。その幻影は愛の交換を促すために、シンプルな威厳あるポワーの感覚をベールで覆う。この世界の幻影はマハーマーヤー、すなわち大いなる幻影に影響される。聖なる幻影はヨーガマーヤーと呼ばれる。ヨーガは「結びつける」あるいは「結合する」を意味する。ゆえにヨーガマーヤーは至高者のエネルギーに関係している。至高者は愛の住まいと結びつこうとする。
至高者はしばしば、信心深い人に報いて、不信心な者を罰する一種の聖なる裁判官として描かれる。『バーガヴァタ・プラーナ』のようなバクティ経典は、至高者の多面性のごく一部に過ぎないと説明する。人間的な形の神は精神世界において永遠に信仰者と愛あるやりとりをつづけることになる。神は神性を見せることではなく、さまざまな愛を分かち合えることに喜びを見いだす。