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クリシュナの地上の牧歌的楽園、ヴリンダーヴァンにおいて、完全なる敬虔な信者のヴィジョンはヨーガマーヤーに満たされているので、彼らはもはやクリシュナを全知全能の至高の起源とか、すべての存在の管理人として意識することはない。むしろ彼らはクリシュナを愛の特別な対象として見ている。そしてクリシュナはその役割を完全に演じている。たとえば、親の愛情で彼を愛する人々にとって、彼はかわいらしいが、どうしようもないいたずらっ子になり、ときには彼らの家からバターを盗みだす。女たちは彼の母親、ヤショーダーに文句を言うが、クリシュナは巧みに無垢を装い、ヤショーダーも騙されてしまう。クリシュナの唇にくだんのバターがついていて、ウソがばれてしまう。

 祝福されるべきは、クリシュナのヴリンダーヴァンの娯楽だろう。それをテーマとした数多くの哲学的論文と何十万もの魅力的な詩や歌が作られてきた。そして何百万ものクリシュナ・バクタが喜びを見いだした。ここに13世紀のバクティ詩人の詩節がある。

 

親愛なる主よ、最善の泥棒よ、ヴリンダーヴァンの栄光ある地のバター泥棒として祝福されるあなたよ。

多くの生涯を通じて積み重ねてきたわたしの自分勝手や幻影をすべて盗んでいってください。

   ビルヴァ・マンガラ・タークル 

 

 なぜ至高者は盗みを働くのかと尋ねる懐疑論者は、娯楽の本質を見失っている。ほかにも、至高者であることで、クリシュナはすべてを所有している。だから彼が何を盗もうとも問題はない。しかしながら彼のバクタと楽しみに満ちた愛のやりとりをするために盗むのである。わたしたちの心が攪拌したばかりのバターのようにやわらかく、甘くなったとき、クリシュナはそれらを盗むだろう。バクティとは、攪拌のプロセスである。

 クリシュナの娯楽がドラマチックであるのとおなじくらい、それはもっとも高次な現実性――至高者と魂の間の親密な愛の現実性――である。クリシュナは同時に師匠であり、またバクタの愛によって統御されることを喜んでいる。ヴリンダーヴァンは特別に驚くべき世界であり、選ばれてクリシュナとともにある魂の遊びでもある。それは「神は愛である」という言葉のもうひとつの側面をわたしたちに示している。

 この愛の世界で、クリシュナの友人たちは彼と同等だと感じ、因習にとらわれず彼と自由に遊んだ。彼らは冗談を言ったり、ゲームをしたりしてクリシュナを楽しませ、クリシュナもまた彼らを楽しませた。いっしょにスポーツを楽しみ、クリシュナは彼の愛の力で勝つことがあった。反対に彼らの愛の力で負けることがあった。これらの愛の交換はクリシュナと友人たちを聖なる喜びに満たした。喜びを与えることは喜びだった。

 

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