内なる旅 

結論 多様性のなかの統一 

 新しい朝を迎える遠い寺院の鐘の音を聞きながらわたしは目覚めた。まだ暗い空を見つめながら埃っぽい、寝ていた寒い川のほとりでわたしは体を起こした。沐浴するために、わたしは凍えるように冷たいヤムナー川に身を沈めた。川から出て、夜明け前の静けさに包まれた土手にわたしは坐った。最初の黄金のオーラ(後光)がやさしく水平線を照らすと、背後の森で鳥たちがさえずり、クークーと朝の歌をうたいはじめた。クリシュナのバクタにとっての最大の聖地であるヴリンダーヴァンに住み始めた1971年以来、ずっとわたしは毎日こうしてきた。

 ある日裸足のホーリー・マン(聖者)が森から出てきて、クリシュナの名をやさしく唱えながら、背後からわたしに近づいてきた。彼は六十歳前後だろうか、髪とヒゲはモジャモジャで、クリシュナに帰依する行者であることを示す衣を羽織り、しるしをつけていた。彼はわたしの横に坐り、催眠術にかけるような声で話しかけ、わたしは引きこまれた。聖なるヴェーダ聖典から引用した、終わりのない賛歌を唱え、ヴリンダーヴァンの神秘的な美しさと、クリシュナがまさにこのわたしたちが坐っている場所で明らかにした秘教的な教えと娯楽について語り始めた。わたしは世界のどこからも離れたひとつの宇宙にいるように感じた。

 しだいに彼の口は重くなり、ついに彼は話すのをやめた。そしてわたしたちは黙ったまま見つめ合った。彼の瞳をのぞきこみ、わたしは深遠な安堵を覚えた。それから彼はおもむろに沈黙を破った。

「あなたに渡したいものがある」と彼は言った。「わしはこれを四十年以上も持ち運んできた。これはあなたを奮い立たせて、クリシュナへの愛を深めるのに役に立つだろう、わしにそうであったように」。軽くうなずくように頭を動かしながら、彼はなおもわたしの目を見据えていた。見知らぬ人はわたしに紙の巻物をわたした。それは古くて黄ばんでいて、しわくちゃで、ボロボロになっていた。それから彼は暁(あかつき)の中に歩き去った。わが心は好奇心でいっぱいになった。

 朝がやってくると、目覚めた孔雀が声を上げ、鸚鵡がにぎやかに騒ぎ、猿たちは金切り声を発した。川の水を満たした真鍮の水瓶を頭の上に載せた女たちがわたしの横を通り過ぎていった。わたしはやさしく巻物を広げた。それは古代のサンスクリット語の呪文だろうか。あるいは秘密の瞑想文だろうか。

 紙はすり切れていて、自分の指でボロボロになるのではないかと思ったが、書かれているものを何とか読むことができた。それは期待していたものとまったく違っていた。クリシュナの信じがたいやり方に驚き、わたしは思わず笑ってしまった。それは13世紀のアッシジの聖フランシスコのものとされるおなじみの祈祷文だった。

 

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

憎しみのあるところに、愛を置かせてください。

侮辱のあるところに、許しを置かせてください。

分裂のあるところに、和合を置かせてください。

誤りのあるところに、真実を置かせてください。

疑いのあるところに、信頼を置かせてください。

絶望のあるところに、希望を置かせてください。

闇のあるところに、あなたの光を置かせてください。

悲しみのあるところに、喜びを置かせてください。

主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、

愛されるよりも愛することを求めさせてください。

なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、

許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

 

 若い頃はずっと、シカゴ北部の村で育ち、この祈祷文はいつもすぐ近くにあり、人間の性分を超えたはるか高みの真実を追い求めたいという方向にわたしをけしかけてきた。いま、インド北西部の聖域にいて、わたしはこの祈祷文がいかにバクティの普遍的な精神、すなわち愛のヨーガを適切に表現しているか、つらつら考えているのである。信仰深い祈祷文の真髄は、それがもともとどの文化であれ、神に、無条件の愛でいかに奉仕することができるか聞くことなのである。

 聖人はかつて、信仰の道を完全に描くのは不可能であると書いた。底のない、浜辺のない海のように、至高者との愛の関係の主題はとてつもなく大きく、その長さと広さを測ることは誰もできない。わたしたちにできる最大のことは、一滴を描こうとすることである。しかしながら、たった一滴の内容は、その恩寵で宇宙全体を覆ってしまうだろう。

 『内なる旅』のなかでわたしたちは失われた愛、すなわちわれわれすべての奥深くにある愛の探索を論じてきた。それを探し当てたとき、わたしたちはそれがどこにでも、またすべてのもののなかにあることを理解するだろう。死すべき運命の世界において、さまよう不死の魂として、わたしたちは自分が誰であるか、また潜在的に備え持つ圧倒的に魅力的ないとしい至高者を愛し、愛される力のことを忘れてきたのである。そのような愛をもう一度味わうのは、究極的な幸福である。それは無条件の慈愛でわたしたちを鼓舞してくれるだろう。

 わたしは心の底からあなたがた、読者に、わが人生、バクティの伝統の喜びを分かち合っていただいたことに感謝したい。わたしは古代の聖典や聖人、人生の体験から得られた智慧にあふれた『内なる旅』が、あなた自身の精神的な旅をする際の助けになることを祈っている。

 人生はわたしたちを多くの旅に導く。そしてすべてはわたしたち内部の愛に導くことを意味している。聖なる愛は心、感覚、知性によって近づけない場所にある。それは魂の中にあるのである。それはあなたを待つ流れ続ける川のようなものである。物質的な人生のはかない喜びや痛みを超えたところに、至高者の無限の美しさ、やさしさ、愛はある。それはわたしたちの「家」なのである。

 

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