エルサレムからカシミールへ
第1章 ガリラヤのカナの奇跡
カナで自分に起きることを知っていたのだから、すべてはトマスのせいだと言えるかもしれない。しかしすべてはトマスのせいだというのなら、この聖書の町で新しい奇跡が起きなくてもよかったということになる。その日、朝七時だというのに、暑さは我慢の限界を超えていた。正午前、彼は古いフィアットに乗ってティベリアスを出発した。
イスラエルは四月上旬とは思えない異常な高温に見舞われていた。一方でスロヴァキアは驚くほど寒かった。もう三日も雨が降り続いていた。マリカはうんざりしていた。というのも家に入る道にかかって邪魔をしている、枯れかかった古い灌木を掘り起こすために雇った二人の若者をクビにせねばならなかったからだ。ミハルはといえば、留守にして(スロヴァキア第二の都市)コシツェにいた。ミハルは灌木を処分することができなかった。古くて必要のないものを手放せないのがいつもながら夫の欠点だった。どこかからどこかへ動かすのに夫は多大なる時間とエネルギーを注いだ。庭の半分は夫が「いつか役に立つ」と考えて集めた古いガラクタで占められていた。居間は彼が行った数知れない旅行先で買ったみやげ物で埋まっていた。最近、彼女はうんざりすればするほど、風水に従って運気を損ねるものを積極的に除外するようになった。彼がそれを発見したとき、怒りまくるというリスクが発生してしまうが。しかし彼女は夫に気づかれないように、ときおり、水差しや首飾りのロケット、オイルランプ、その他いくつかのガラクタを投げ捨てていた。彼がエルサレムから持ってきた石を捨てたときの彼の怒りのリアクションが彼女を驚かせた。まさにそれはヒステリー発作だった。怒り心頭に発した彼はごみ箱まで走るとその中に手を入れて、隣人たちの目の前で恥ずかしがることもなく、一時間近くかき回して探したのである。そしてついに彼は奇跡でも起きたかのごとく記念品を探し当てたのだった。
「これが何かおまえは知っているか!?」彼は正気を失ったかのごとく、そしてあきらかにホッとしながら、マリカに向かってわめいたのである。
「古くて役立たずの石が棚の上を占拠して埃を吸い寄せていますわ。あなたがせめて埃を払ってもらえばよかったのですけれど」
「これは調和のシンボルなんだ!」さえぎって彼は言った。「われわれすべてにとっての原初の故郷なのだ!」マリカはショックを受けたまま彼を見つめた。「ウヌム(数字の1)だぞ! それがわからないのか。おれが手にしたもので今まででもっとも重要なものなのだ! もう二度とこんなことをするな! わかったか? おれのものに触るな! やるなと言ってるんだ! 掃除したいなら自分の部屋を掃除しろ、おれの書斎はほっといてくれ」彼は尋常ならざるきんきん声で叫んだ。
「あんたのシンボルごときでそんなにわめきちらすことないでしょ! 旅先でシンボルとやらを集めて、家の中がそれであふれかえっている! もう足の踏み場もないわ。それに忘れないでちょうだい、あなたの書斎はゲストが来たときリビングルームになるんだってことをね」
「わかった、わかったよ」彼は気を静めながら言った。「だけどシンボルはわれわれの人生にとって重要なものなんだ。それらのおかげでパワーは聖なる場所からわれわれの家に移されるんだよ。この石はほかのどんな石とも違う。それはエルサレムでコプト教会の大主教アタナシウスからもらったものだ。彼はトマシュにもおなじ石をあげたんだ」彼は奇妙な表情を浮かべながら、石をもとの場所に置き、説明した。
「あなたはトマシュといっしょにコプト教会の司祭のところに行ったなんて言わなかった」マリカは驚いた。
「トマシュがおれを司祭のところに連れていってくれたんだ。彼らは友人同士だったんだよ。大主教アタナシウスはカイロの近くのマーディにある大主教神学校で学んだんだ。彼は今生きている聖人のなかでもっとも偉大だと考えられている。このことをきみは知っていたかい」彼はもう一度石を手に取り、畏敬の表情を浮かべてじっと眺めた。彼が石の輪郭を見せると、それまで気づかなかった石の刻み目が彼女には見えるようになった。「見てごらん、この数字らしきものを。これが調和のシンボルだ。それに、これ。近づいて見れば、JとBの文字が浮かんでくるだろう。それが何を意味するか正確にはわからないが、東と西に関係しているようだ」
マリカはその石をさまざまな角度から調べてみた。「ここに小さな絵があって男がいるわ。蓮華座に坐っているみたい。キリストみたいに見えるけど」ミハルはうなずいた。「でもどうしてキリストが蓮華座にすわっているの?」彼女は輪郭がぼんやりして、消えかかった、座している男性の姿を見ながら、頭を振った。
「おそらくこれは東と西の調和のシンボルなのだろう。大主教が言うには、伝説によれば東方のどこかには蓮華座に坐るイエスの像があるという。手は何かの徴(しるし)を表してね。この石はイエスに至る道を示すという」
マリカはひそやかな笑みを浮かべた。彼女は教育を受けた男であるミハルがあらゆる迷信や伝説をリスペクトしていることが受け入れがたかった。実際は、彼以上に彼女のほうがこういったことを信じる傾向にあったのだが。彼女はまじめな顔をしてあやまった。「ほんとうにごめんなさい。それがあなたにとってとても重要だってわからなかったの。わたしを許して」
「この石はおれにとってとてつもない価値があるんだ。前に言ったように、石は二つある。二つはまったくの同一だ。それらは大主教が先達からもらったもの。先達はさらにその先達からもらったのだ。この石の起源はインドだという。それらは調和の石であり、同じテーマに触れた二人の人間が同時に考えたときのみ力を発揮するんだ。奇跡を起こすことも可能だという。結局、自分で見て自分で判断するんだな」
「ミハル、ミシュコ……わたしがどれだけあなたのことを愛しているか、わかってるでしょう。でも……ごめんなさい。ときどきあなたは迷信を信じすぎてしまうところがあるわ。信仰というのはとても重要なものよ。ヒーリングもね。でもあなたがこの石に祈って、その力でわたしが癒されたわけではない。イスラエルのあなたのトマシュも、彼が祭司だからといって……」
「おれは聞き間違えているのか? おれが迷信深いっておまえは責めているのか? おまえこそ磔のイエスの十字架を持って夜、朝と瞑想しているじゃないか」。彼は自分を押しとどめた。「ちょっとごめん、たぶん……」彼は話を終えようともしなかった。彼はパソコンの前に坐り、入ってきたばかりのメールを食い入るように見ていた。突然彼は飛びあがった。
「こんなのありえない!」彼は画面を見ながら叫んだ。そして大きく呼吸した。
「どうしたっていうの?」マリカはキッチンから聞いた。「アデルカからのメール?」
「いや」
「彼女はしばらくいないわ。彼女に電話すべきよ。スカイプで連絡とってくれる?」
「そうするよ。でもその前にこれをちょっと見て」彼は開けたばかりのメールを指さした。それはトマシュからだった。
「ごめんなさい、あとで読むわ。今、スープがあと少しだから」
ミハルは魅せられたようにパソコンの画面を見つめていた。トマシュからのメッセージによって石が実際に力を持っていることを確信したようだった。前年に彼とトマシュに二つの神秘的な石をプレゼントした大主教アタナシウスのやさしい顔が記憶からよみがえってきた。
「この石は形見の品だ。運をもたらすものだ。でも二つの石がいっしょになったときしか、力を持たない。でも物理的にいっしょである必要はない。二人の持ち主が精神的にいっしょであればいいのだ。おまえが問題をかかえているとき、あるいは災難や病気が降りかかってきたとき、このシンボルのことだけ考えるがいい。ウヌム、原理、道、ゴールのことだけを」
大主教は謎めいた笑みを浮かべながら二人にほとんど同一の4インチ(10センチ)四方の平たい石を手渡した。
「信じられないな、二つの石はまったく同じだ」ミハルは頭を振りながらつぶやいた。
「この石、自然の石にしか見えないかもしれない。しかしじつはブッダが最初の演説をした聖なる場所、サルナートの近くの碧玉から作られたんだ。もしこれらの石が正しい者の手にあるなら、それらは彼らに絶対的な気づきをもたらしてくれるだろう。これらは絶対にほかの者の手に渡ってはいけない。もし間違った者の手にこの石が渡ったら、石の力は失われてしまうだろう」
ほんの一瞬前にマリカを驚かせたことについて、アタナシウスと論じ合ったことに彼は気づいた。
「絶対的な気づきとは何ですか」彼は大主教にたずねた。
「それは実践するのがもっともむつかしいことだ。それは自分自身を理解することだ。このような理解は、いわば薬だ。それは私たちを解放し、私たちが光の中にあったとき、私たちが調和の中の物事のはじめに立っていたとき、私たちが完全な、子供のように純粋な人間であったとき、私たちが何であったかを思い起こさせるものだ」
「そのような気づきをあなたはどうやって得るのですか」
「それはシンボルを見つけたとき、おのずから秘密はあきらかになるのだよ」
「シンボル? 何のシンボルですか? どこでそれを見つけることができるのですか?」
「伝説によればインドには使徒トマスが作り、イエスの墓の中に置いたキリストの像があるということだ。おそらくイエスは蓮華座で坐っているだろう。この輪郭みたいに」彼は石の裏側のかろうじて長髪の男に見えるシルエットを指さした。
「インドに使徒トマス?」ミハルは驚いて大主教をじっと見つめた。
「トマスはインドの守護聖人だ。彼はマラバルのシリア教会の至高の精神的存在なのだ。この教会は今も南インドに広く分布しているからね。それはローマのカトリック教会から枝分かれしてしまった。それはマル・トーマと呼ばれることもあるんだ」同一の石の真新しい持ち主、トマシュが割って入った。
「マル・トーマだと」ミハルは友人を見た。「トマス教会か。おまえにちなんで付けられたんだな」
ミハルはパソコンから顔を上げて、震える声で叫んだ。「ガリラヤのカナで奇跡が起きた!」
マリカは片目で彼のほうを見て、心ここにあらずであることに気がついた。「ほんとうにそこに何かニュースがあるみたいね。イエスがそこで奇跡を演じたことは――水をワインに変えたことは――だれでも知っていることだわ」
「そのことじゃないよ」マリカは熱心なまなざしで彼を見た。「トマシュがメールに書いているんだ。彼は古いフィアットに乗ってこの朝、ティベリアスからナザレへドライブしたんだ。太陽の下での104度(摂氏40度)だからね。道路のアスファルトも焦げるくらいに暑かったんだ。トマシュはタイヤ圧のことを全然気にしていなかった。驚くことじゃないが、タイヤが膨張してしまったようだ。ナザレで約束があったらしい。でも遅れていたので、彼は時速90マイル(144キロ)で高速をぶっ放した。燃えるように熱い道路上でタイヤはオーバーヒートしてしまった」
「ああ、なんてこと。彼が無事でありますように」マリカは恐怖のあまり叫んでいた。
「右のフロントのタイヤが破裂してしまった」
「それでどうなったの」
「何も起きなかったよ、運がいいことに。ガリラヤのカナの交差点で、赤信号で止まったとき、タイヤが破裂したんだ」それから彼は一瞬眉をひそめた。「マリカ……。おれがごみ箱から石を取り出したとき、何時だったか覚えているかい?」
「12時1分だったわ」
「たしかかい?」
「たしかよ。隣の人がラジオの音を上げて正午のニュースを聞き始めたときだったから」
「それは正しくないな」ミハルはじっと考えた。「トマシュのタイヤが破裂したときがまさにその時だった」
マリカは歩いて夫のところへやってきた。そして濡れた手をエプロンで拭いた。彼女は髪をくしゃくしゃにして静かに言った。「今朝、お祈りをしているとき、なぜだかわからないけど、トマシュのことを思い出したの。わたしは彼が健康でありますように、そしてすべてがうまくいきますようにって祈ったわ」
「なぜだ? おまえは彼を知らないだろう」
「彼があなたにとってどんな存在かくらいは知っているわ。だってあなたはわたしの夫なんだから」
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