カルマと輪廻転生 

カルマの謎 

運という言葉に意味はない 

何事も原因なしには存在しない 

        ――ヴォルテール 

                                  

 カルマという言葉は珍しいものではなくなってきた。バンパーに貼るステッカーみたいに「私のカルマはあなたのドグマの上を走った」とか「それは感謝されない仕事。でもたくさんのカルマを燃焼した」といった使われ方をするようになった。だれもがカルマの本当の意味を、なぜ重要なのかを、それとどう折り合いをつけていけばいいのかを、知っているわけではない。

 あなたが生まれながら持っている才能について、また人生においてあなたにたまたま起こったよいことについて、考えよ。いま身にふりかかった、いわゆる限界とチャレンジについて考えよ。両者ともカルマと関係があるに違いない。カルマはシンプルに何が起こったかを教えてくれる。それは過去に――10分前であろうと、人生10回分前であろうとも――我々が動かしたことによる原因の結果である。

 われわれはみなカルマを学びながら成長する、それをカルマと呼ばないだけで。こんなことを耳にするが、これはカルマではないのか。

自分がしたことは、自分に帰ってくる(自業自得)。人は自分が蒔いたものを、刈り取ることになる(ガラテヤ人への手紙)。すべての作用に関し、同じ値かつ反対向きの反作用が生み出される(ニュートンの第三法則)。結局、あなたが得る愛はあなたが与える愛に等しい(ビートルズの「ジ・エンド」)。

本質的にカルマは教えてくれる、何をやろうとも、ぐるりと回ってわれわれは出発点に戻ってくるものだ、それがいつであろうと、どこであろうとも。

 カルマと輪廻転生はいわばペアである。カルマが執行責任と払い戻しを意味するとき、輪廻転生はシンプルに機会を意味している。輪廻転生はわれわれにカルマの借りを返済し、恩恵を刈り入れる機会を与えてくれるのだ。

 カルマと輪廻転生は、人生の疑問点を理解しようとするとき、助けとなる。

なぜ、わたしが? なぜわたしでないのか? なぜわたしのいとこはダウン症なのか、彼女の兄弟や姉妹は健康で強壮なのに。なぜわたしは順調に出世できるのか、わたしの兄弟はおなじ境遇の中で生まれ育ったのに、なぜ彼は職に就けないのか。なぜわたしの人間関係は主導権争いになってしまうのか。なぜわたしは彼とともに生きていけないのか、彼なしで生きていけないのか。一年の無職ののちようやく仕事を見つけたのに、なぜ病気の両親の世話をするために町を離れなければならないのか。友人たちがみな交通事故で死んだとき、どうしてわたしだけが生き延びたのか。

 人生はこうしたパラドックスや疑問に満ちている。禅の公案のように、それぞれのパラドックスが魂の奥のほうと接し、カルマの謎を知り、解決すべく、より深く自分を掘り起こすように設計されている。

 

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