カルマと輪廻転生 

自然の力で癒す 

 

万象の光輝く世界に出てくるがよい、

そして自然を師とせよ 

      ――ウィリアム・ワーズワース 

 

 ときおりわれわれが数えることのできるのは、季節のめぐりだけのように思えることがある。ほかに何が起ころうとも、春時にはちきれんばかりだった新しい命は、夏の万全な美しさに道を譲ることになるだろう。秋の熟した収穫期は、自然がふたたび新鮮な出発を用意するように、冬を歓迎するだろう。

 多くの賢者が魂のサイクルを理解するために、自然のサイクルを研究してきた。「変遷の中で季節さえ大きなサークルを形成してきた。いつもそれらは元の場所に戻ってきた。人の生は、子供時代から子供時代へのサークルである。そしてそれは力が動くところならどこでも、すべてのもののなかにあるのである」とスー族の聖なる長老、ブラック・エルクは言った。フランスの哲学者であり作家のヴォルテールは、つぎのように述べている。

「人は一度だけでなく、二度生まれると聞いても何ら驚きはない。自然においてはすべてがよみがえるのだから」

 カルマと輪廻転生は、わたしたちの魂が自然のパターンに従って、誕生、成熟、死、そして再生のあらたな機会という道を歩むことを教えてくれた。わたしたちはいわば動く意識の流れである。多くの生の体験を通じて、魂は進化していく。カルマと輪廻転生は、伝説上の不死鳥のように、以前の自分の灰から生まれて立ち上がり、新しい生が以前の生の種を保持していると教えてくれた。言い換えるなら、わたしたちは何千年もかけて生を建て直しているのである。

 カルマや輪廻転生の自然のサイクルのおかげで、どうやって今のわたしたちがここにこうしているのか、また自分たちに何ができるかということについて、理解することができる。それらのおかげで、どうやってわたしたちが適性と才能、危機と挑戦、任務と願望というセットを持って生まれてきたのかということについて、理解することができる。それらのおかげで、さまざまな疑問についてどう取り組んでいけばいいのかがわかる。

 なぜわたしたちはこの両親のもとに生まれたのか。なぜわたしはこの子供たちをもうけることになったのか。なぜわたしは水を、あるいは高さを恐れるのか。なぜわたしはここにいるのか。

 本書ではカルマと輪廻転生の実践的側面と同様に原理的なことについて述べたい。輪廻転生の信仰は何世紀にもわたって、東から西まで多くの文化において広がっている。なぜカルマは人間関係において、健康において、経歴において、すなわち人生のあらゆる側面においてX要因なのか。なぜカルマは運命ではないのか。どのようにカルマは働くのか。われわれは人生と人生の間を編んだカルマの糸をどうやってたどっていくのか。

 罠についても話そう。すなわちカルマが作用しないようにする罠、通過儀礼を十分に使わないようにする罠。最終的にはカルマ的な出会いを、将来希望する形に変えていく大きな機会とする道具と技術をシェアすることになるだろう。転生とカルマを信じようと信じまいと、本書は生のもっとも深遠なパラドックスについての――あるいは約束の――新しい考え方を提供するだろう。



 古代の再生、若返り、不死の象徴といえば不死鳥だった。不死鳥伝説はさまざまな形で古代エジプト、ギリシア、中国、日本、アイルランド、トルコ、ペルシア、そしてキリスト教の文書にも出てきた。

 伝説によれば不死鳥は唯一の「種」である。その生が終わりに近づいたとき――五百年ごとに――自身で香料の巣を作る。巣は太陽によって、あるいは不死鳥自身が羽ばたくことによって点火される。そして鳥は大火によって焼き尽くされる。その灰から若くていきのいい不死鳥が立ち上がる。伝説の一つは、灰に閃光が残る、つまり不死の精神が生き残り、新しい生命の火がともされると説明する。

 スピリチュアルな言葉で言えば、激しく燃え盛る炎の中で不死鳥が生まれ変わるのは、魂の試練と再生の前兆である。生のときおりの激しい試練とトラウマを通じて、魂は純化し、精錬される。そして魂は高みに上昇し、意識のより高いレベルに到達する。

 

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