序 宮本神酒男
チベットの英雄叙事詩「英雄ケサル王物語」が燦然と輝やいているのは、それが世界でもまれな「生きている英雄叙事詩」だからです。古代ギリシアや中世ヨーロッパにはいくつものよく知られた英雄叙事詩がありますが、それらが吟遊詩人によって歌われることはもはやなく、出版された本の活字としてしか存在しません。
しかしこのケサル王物語は、ドゥンパ(sgrung pa)と呼ばれる「語り手」によって現在も語られているのです。いま語り手と表現しましたが、歌と語りを組み合わせた故事説唱を基本とするので、中国語では説唱芸人と呼ばれています。英語ではbardと呼ばれていて、それを日本語に訳すと吟遊詩人となります。
チベットから伝播したと思われるモンゴルの「ゲセル王(ハーン)物語」と合わせると、じつに広大な地域で説唱されていることがわかります。ゲセルはモンゴル共和国や中国国内のモンゴル族はもちろん、シベリアのモンゴル系諸民族やはるかカスピ海の向こうのカルムイク共和国にまで広がっています。
チベット文化圏(ケサル文化圏)とモンゴル文化圏(ゲセル文化圏)の中間に位置する土族やユグール族のケサル(ゲセル)となると、事情はもっと複雑になってきます。(→ 土族やユグール族のケサルについて)
ケサルも、はるか西のほうにまで伝播しています。インド・ラダック、そしてさらに西方のパキスタン北部バルチスタンにはいまも30人以上の語り手がいます。かつてはフンザにもケサルの語り手がいました。私はネパール北西部のフムラ地方で語り手に会ったことがありますが、チベット学者にさえほとんどその存在は知られていないかもしれません。
現在何人の語り手がいるか、おそらくだれも答えることができないでしょう。それは150巻もの独自のエピソードを語る本格的な語り手もいれば、ほんの2、3巻しか知らない、しかも独自のレパートリーを持っているわけではない「日曜語り手」もいて、その線引きがむつかしいからです。
大雑把にいって300人くらいと答えておきますが、もしかすると千人くらいいるかもしれません。二十代の若い語り部も出てきているので、かなり数が減ったとはいえ、もう少しは命脈を保ちそうです。(→ 分布図)