3日目 

 いつものように朝6時と7時のあいだにキャンプを片づける。少し行ったところにマニ石列があり、人々はその周囲をまわってから巡礼路を進んだ。その日、私は温泉(村)から来た7人のゴロク人といっしょに歩いた。ひとりの老人だけ馬に乗り、2組の若い夫婦と2人の僧侶は徒歩だった。その日進む距離の半分ほど消化したところで1時間の休みを取り、そのあいだに若い女たちはお茶を用意し、麦焦がし(ツァンパ)を作った。

 馬に乗った連中が近づいてきて、そのうちのひとりが少しばかりの燃えさしを分けてくれるよう頼んだ。女たちは快く分け与えた。彼とともにいたのは、3人の女と若い男とひとりの子どもだった。男は火をつけ、女たちは大きな鍋でお茶を作った。お茶が出される前に、男は柄杓を茶で満たし、神への捧げものとして、四方にそれぞれ数滴ずつ、空中に撒いた。

 巡礼者はふたたび動き始める。巡礼路はイェコグ(gYas khog右側の地)の谷を下っていく。そしてヨンコグ(Yon khog 左側の地)と交わるチュバルナ(Chu-dbar-sna 二つの川のあいだ)という地点に到着する。ここは北東の入り口から巡礼路に入る場合の出発点である。

 ここには壁に囲まれた大きなストゥーパが立つ。それは新しいもののように見えるが、古いストゥーパがあったところに再建されたのかもしれない。巡礼者たちは馬をつなぎ、帽子を脱いだあと、ストゥーパの前の地面で拝伏しはじめた。彼らはストゥーパの周囲をまわり、壁、それからマニ石列の周囲を歩いて回った。

 このあと彼らは帽子をかぶり、つないでいた馬の結び目を解き、ヨンコグ川に沿って元来た道を登っていった。ヨンコグの谷の両側は、まばらながらもイェコグ川の谷以上に森に覆われていた。

 道の脇に小さなテントがあり、男が品質の劣るマニ車を作っていた。さびしいけれど、初歩的な交易と産業の姿である。

 少し進むと、多くの巡礼者が武器を意味するゴツォン(Go-mtshon)という地点で止まっていた。ここは巡礼路に沿った平坦な土地である。グル寺のゴロク人ラマが、巡礼者に祝福を与えるため、ここに滞在していたのである。巡礼者はこのラマに挨拶を述べ、儀礼用スカーフ(カタ)とお金を捧げた。

 ゴツォン近くに大きな岩があり、その上に何人かの僧侶が言うにはケサルの兄ギャツァ・シェーカル(rGya-tsha Zhal-dkar)のものだという手形が見えた。その名は、彼の母が中国皇帝の娘であるがゆえ(rgya-tshaは中国の孫の意)、彼が月のように色白の(zhal-dkar)ハンサムな青年であったゆえ名付けられたという。ほとんどの巡礼者は手形に気づかないで通り過ぎてしまうのだが、ゴロク人の僧侶たちは黒インクでそれを覆い、白い布で型を取るのだった。

 その夜、われわれは道よりずっと高いところにキャンプを張った。動物たちは放たれて、近くで草を食んでいたが、日が落ちると中に入れられ、つながれた。

 夜のあいだずっと彼らの歌声、笑い声、ライフル銃の空砲の音が聞こえたが、この日旅をともにした連中は騒音を意に介さなかった。老人は火のそばに坐り、ふたりの女はモモ(肉詰めのラビオリ)作りに余念がなく、若い男たちは火の世話をしていた。



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