巡礼ルート(別図参照) 

 現在のところ、巡礼路に入るには3つの入り口がある。どれを選択するかは巡礼者各自による。

<南>タボゴンマ(rTa-bo gong-ma)。中国の地図上の馬沁(Maqing)。乗馬して3時間でツェーナク・カンド(mTshal-nag kha-mdo)。赤黒い低地(?)。

<北西>タボショマ(rTa-bo zhol-ma)。下大部(Xiadawu)。ここから3時間歩いてヌボ・ダンドゥ・ワンチュク(Nu-bo dGra-’dul dbang-phyug)。敵を征服する力強い弟。

<北東>Zho-zan kung-heQushian 曲什安河)から歩いて1時間、チュバルナ(Chu-dbar-sna 二つの川の間)に到着。

 1990年11月、巡礼者は数えきれないほどだった。巡礼ルートには3人から20人のさまざまな規模のグループが連なった。このように何百人もの巡礼者がアムドの神々の首領であるアニ・マチェンに敬意を表した。若干の例外を除くすべての巡礼者が遊牧民であり、さまざまな地方の人々だった。彼らはアムド中からやってきていた。北はラブラン(Bla-brang 夏河)やレコン(Reb-kong 同仁)、南はアバ(rNga ba)、東は河南、西は花石からやってきた。

 大半の巡礼者は7日間歩くか、3日間馬に乗って180キロの巡礼路を走破する。しかしもし五体投地をしながら巡礼をするとなると、40日を要する。私は身体全体を使って巡礼路を計っていく巡礼者には7人出会った。だれもが仏教徒の方向(時計回り)で巡っていた。私の場合、歩いて8日かかってしまった。

 動物の皮の長い上着をきて、キツネの毛を縁取った帽子をかぶり、巡礼者たちは荷物を載せたヤクを前に行かせた。この巡礼はちょっとした遠征隊のようだった。多くの人はライフル銃を携帯した。ほとんどの人にとってはじめての巡礼だった。中国による占領のあと、巡礼や宗教活動は禁止されていた。1990年の馬年の大巡礼は、何十年ぶりかで行われたのである。

 実際に歩くのに要した時間は日々多かったり少なかったりした。4時間歩くこともあれば、8時間歩くこともあった。巡礼路はかなり広く、標高は平均して4300mもあり、アニ・マチェン山脈のすぐそばを通ることもあれば、遠く離れることもあった。急な登り坂や下り坂はそれほど多くなかった。

 巡礼路を歩くよりも功徳が少ないといわれるにもかかわらず、私はたくさんの馬に乗った巡礼者と出会った。カイラス山で、馬に乗って巡礼する巡礼者にひとりも会わなかったのとは大きな違いだ。アニ・マチェンで話をした馬に乗った巡礼者は、みなそれが例外的であることを知っていた。農民(ロンパrong-pa)が「馬に乗る」のにたいし、遊牧民は「馬上で生活する」からだろうか。あるいはアムドワの遊牧民はたんに仏教の教えを無視しているのだろうか。

 

巡礼

 もともと村があったタボショルマ(rTa-bo zhol-ma)から3時間歩くと、チュンゴン川(Chu-sngon)すなわち青い川に着く。その浅瀬を渡れば巡礼路である。背中にライフルを吊り下げたふたりの馬上のゴロク人が、まるで巡礼の旅を祝福するかのように、地元の酒をたっぷりと飲みながら、おだやかな歩調で馬を走らせている。アニ・マチェン山脈の北西の巡礼路につながるヌボ・ダンドゥ・ワンチュグ(敵を征服する力強い弟)に到着すると、彼らは先に待っていた仲間たちのライフル銃の空砲で歓迎された。空砲は馬たちにパニックを起こしたが。

 ここにはアニ・マチェンの弟を表わす巨大な岩がある。岩は祈祷の旗(タルチョ)で覆われ、岩の表面にはアニ・マチェンの東側にある寺院ラギャ・ゴンパ(Ra-rgya dgon-pa)の高僧のものらしい手形が残っている。ところが人によっては、それはシャブカル(Zhabs dkar)の手形だといい、ふたりのゴロク人に言わせればそれは人間の手で彫られたもので、自ら生まれ出たもの(rang byung ランジュン)でないのはたしかだという。

 十人余りの男女混合の巡礼者が馬を引っ張りながら、その岩の周囲を歩きながら回っていた。男たちは杜松(ねず)の枝を燃やし、そのお香の煙を捧げ、それからふたたび巡礼をつづけた。ほかの巡礼を終えた人々は、テントを建て、北西に徒歩で30分ほどのところにある、10年前に創建されたばかりのニンマ派のグル(dGu-ru)寺へと上がっていった。巡礼のはじめにこの寺を訪れることはないようである。

 空はほとんど暗くなっていたが、巡礼者はつぎつぎと到着した。日がとっぷりと暮れると、あたりは犬が支配した。犬の吼えたてる声に混じって、だれかが岩をまわりながら経文を唱える声が聞こえてきた。


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