マハームドラー問答集
ケンチェン・タング・リンポチェ『マハームドラーの教え』より 宮本神酒男編訳
<イントロダクション>
質問:私は仕事が忙しく、実践をする時間がないのが悩みのタネです。仕事にたいして憤りさえ覚えるほどです。それは深刻な執着の問題かもしれません。仕事と実践の両立、どのようにしてやっていったらいいのでしょうか。
リンポチェ:あなたの悩みというのは、多くの人に馴染みがあるものですね。それは本当に瞑想と瞑想以外のこととのバランスの問題です。私はどこかに坐り、心に集中し、瞑想に入ります。もし長時間瞑想するつもりなら、忙しいか、あるいはほかにすることがある場合、早起きしてそれをおこなってください。こうして瞑想をつづけることができるのです。
だれかと話しているとき、あるいは仕事をしているとき、よく気をつけて、ふだんの行動に注意を払うようになると、気が散って心があちこちにさまようということもなくなるでしょう。気づきの実践をおこなうことで、瞑想から瞑想後に移ることができます。そうすれば仕事と瞑想が対立することはありえないのです。
もし私たちが瞑想と瞑想以外のことをうまく組み合わせなければ、瞑想と仕事は別々のものとなり、両者はいさかいを起こすことになるでしょう。瞑想をするときは仕事ができない、仕事をするときは瞑想ができない、と考えてしまうでしょう。しかしもしすべての活動において心の注意と非・散漫の実践をおこなえば、仕事と瞑想両者ともうまくいくはずです。
実際、瞑想と瞑想以外のことは互いに刺激し合っているのです。生活において瞑想を実践していけばいくほど、瞑想はクッションの役割を果たすのです。よい瞑想体験は仕事にも反映されるのです。瞑想と瞑想以外のことは互いに助け合いをはじめます。ですから仕事から逃げ出さないといけないとか、仕事自体が、混乱した感情や粗暴になること、やる気のなさ、明晰さの欠如、移り気をおさえ、克服するための手段になるとは考えられないのです。
質問:ゾクチェンとマハームドラーとの違いについて教えていただけますか。
リンポチェ:このふたつの瞑想法の間には、伝授の仕方と技法(サンスクリットでupaya)に違いがあります。しかしもし正確に語ったなら、両者の間に違いがないことがわかります。両者とも心をあるがままに見る実践法なのです。
ゾクチェンはサンスクリットでマハーサンディ(mahasandhi)と呼ばれ、大いなる完成とか大いなる円満を意味します。その系譜はガラブ・ドルジェにはじまり、シュリー・シンハに受け渡され、そこから「師・弟子」の連鎖がつづいていくのです。
マハームドラーはサンスクリットで大いなるシンボルとか大印という意味です。その系譜はサラハにはじまり、ナーガールジュナに伝えられ、そこからシャワリ、さらにさまざまな人へとつながれていきました。ゾクチェンの系譜がチベットにもたらされたこととニンマ派の系譜には深い関係があります。一方でマハームドラーはカギュ派の系譜、すなわちマルパやミラレパ、ガムポパらと関係があるのです。
ゾクチェンとマハームドラーはともに心の瞑想の技法です。カギュ派では、「すべての考えはダルマカヤである」と言います。グルは心の本性をわれわれに示すことができます。マハームドラーではそのことに関して瞑想するのです。
ゾクチェンにおいては、心(セム)と明知(リグパ)との相違を明確にします。リグパは知ることと認識することとを、つまり本性を理解することを内包しています。セムはまた、本性を認識していないことを内包しているのです。ゾクチェンの技術や方法とは、リグパからセムを分け隔てることであり、セムは心の本性ではなく、リグパ、すなわち知ること、あるいは原初の心に近づくことなのです。
カルマパ3世ランジュン・ドルジェは、『マハームドラーの祈り』のなかでつぎのような詩を詠みました。
それは存在しない
勝利を得た者でさえ見たことがない
非存在というわけではない
というのもそれはサムサーラ(輪廻)とニルヴァーナ(涅槃)の基礎なのだから
これは矛盾ではない
なぜならこれは中道の統一なのだから
心の本性を理解できないものだろうか
それはあらゆる限界や極端から解き放たれているはず
同様に、ジグメ・リンパは『ゾクチェンのための祈り』のなかでつぎのように詩を詠んでいます。
それは存在しない
勝者でさえもが見たことがない
非・存在というわけではない
すべてのサムサーラとニルヴァーナの基礎なのだから
これは矛盾なのではない
これは中道の統一なのだから
ゾクチェンの本質を理解できれば
このように、マハームドラーとゾクチェンの間には、ほとんど違いがないのです。
カルマパ3世が偉大なるニンマ派の師ロンチェンパの師匠であったことは明記すべきでしょう。彼はまたカギュ派の教えを書いた『カルマ・ニンティク』の著者でもあります。ニンティクといえばゾクチェンの教えの重要な一コマです。ですからカルマパ3世はマハームドラーの教えの著者であるだけでなく、ゾクチェンの教えの著者でもあるということになるのです。
2 シャマタとヴィパシュヤナーの瞑想法
質問:瞑想をおこなっているとき、やる気が出なかったり、どこか痛くなったり、体が浮き立ったりすることがあるのですが、どうしたらいいのでしょうか。体のこの感覚をおさえるためには心をどのように動かしたら、あるいは使ったらいいのでしょうか。
リンポチェ:もし瞑想に楽しみを感じ、熱狂的になるなら、瞑想をしたくてたまらなくなるのは疑いありません。体が重くても、それは障害にならないのです。もし怠惰に感じ、瞑想をしたいと強く願わなかったら、体は重く感じられ、落ち着きをなくすものです。体と心は分離してしまったかのようです。しかし実際は、心が支配的で、体がどんな状態にあっても、克服することができるはずなのです。
たとえばミラレパは18か月、引きこもって修行をしていました。師であるマルパがミラレパのところにやってきて、こう言いました。「ミラレパよ、おまえはもう18か月も修行をしておる。なぜ少し休もうと思わないのかね」
ミラレパは休みをとる必要はない、と答えました。なぜなら瞑想が彼にとっての休みだったからです。ミラレパはかように瞑想にたいして大きな愛情をいだき、いつも瞑想をしていたいと思っていたのです。瞑想の実践は大きな楽しみであったわけです。そのように熱中していたわけですから、彼の体に障害となるものはありませんでした。瞑想自体が、彼の望んでいた休みでした。
質問:私には疑いと後悔の違いがよくわからないのですが。
リンポチェ: 後悔という言葉をよりうまく表すとしたら、おそらく「落ち着かない気持ち」ではないでしょうか。たとえばあなたが瞑想をしていて、昨日したことについて鮮明に思い出しているとします。心の中にそのことを思い浮かべて、あなたは言います。
「へい、なんてことしたんだ。ひどいもんだ」と。
あるいはそんなにはっきりとは意識しないかもしれませんが、あなたはその影響を受けているのです、後味のように。それは後悔と呼べるかもしれないし、落ち着かない気持ちとよべるかもしれません。一方、疑いというのは心の中で選択肢を探している状態なのです。
たとえばこういうふうに考えているかもしれません。「この瞑想はすべきものであるかどうかよくわからない。ほかのやりかたで瞑想すべきだろうか」と。あなたがたはみな没頭して自分自身と話し合っています。これが疑いと後悔の違いなのです。
質問:どうしたら愚昧さを、あるいは悪い行ないを浄化することができるでしょうか。
リンポチェ:スートラとマントラ(顕教と密教)の修行のどちらでも、行なってきたことを反省し、後悔するのは重要だと述べられています。行なってきたことが自分たちにとって有害であること、あるいは他者に有害であることを認識すれば、自責の念が高まってきます。そう感じながら、ただのたうち回るのではなく、「4つの浄化の力」と呼ばれていることを実践すべきなのです。
その最初の力は、肯定できない行ないをシンプルに認識することです。それは「後悔の力」と呼ばれます。
二番目の力は、それ(肯定できない行ない)を徹底的に追い払い、救済されることです。つまりわれわれの内側を利益(りやく)あるものだけにするのです。これは「追い払いの力」と呼ばれます。
三番目の力は「基礎の力」と呼ばれます。ブッダ――それは仏像でも観想されたブッダでもいいのですが――、ダルマ(仏法)、サンガ(僧伽)、そして根本グルに帰依することを意味します。悪い行ないを自分自身に懺悔するだけでは十分ではありません。自分の師匠に、そして三宝(仏法僧)にも懺悔すべきなのです。
そして懺悔をしたあと、「まあ、これで十分だろう」と考えるべきではありません。その瞬間から、いかなる肯定されない行ないにも関わるべきではありません。そのかわり徳のある、益のある行ないだけに関わるべきなのです。これは「決意の力」と呼ばれます。この4つの浄化の力は、スートラ(顕教)とマントラ(真言という意味だがここでは密教)の双方に共通することなのです。
マントラの伝統ではヴァジュラサットヴァの修行がそのあとに続きます。われわれは頭の頂にヴァジュラサットヴァを観想します。そしてヴァジュラサットヴァを祈願しながら悪しき行ないをあきらかにし、ヴァジュラサットヴァにそれらを浄化するよう懇願するのです。
結果として癒しの甘露がヴァジュラサットヴァからわれわれの身体と心に流れ込み、それらで満ち、悪しき行ないや障害となるものが洗い流されるのです。修行の終わりにはこれらが流されて浄化されたことという確信を強めていきます。そしてヴァジュラサットヴァはわれわれのなかに溶けていくのです。
質問:感情を押し殺すという考え方は、西欧文化では好まれていないように思います。もしだれかに抑圧するよう命じられたら、われわれはそんなことはしたくないと思うでしょう。
リンポチェ:西欧の心理学でいう抑圧する思考や感情というのは、われわれがいまここで話していることとはまったく異なっています。われわれは物事の本質を理解しようと努めているのです。これは何かに固着している理由を知るということなのです。
たとえば、だれかにたいして怒り、切れてしまったとしても、何の解決にもなりません。知恵を働かせてこのことを理解し、状況に耐えるしかありません。腹を立てた理由を理解したなら、心の緊張はほぐれるでしょう。それは「何かを抑圧するな」と言うのとはまったく異なっているのです。
質問:「心は現れる、しかしそれは空(くう)である。それは空だが現れる」と言いますね。これはどういう意味なのでしょうか。
リンポチェ:心は現れるが同時にそれは空である、ということについて説明するのなら、夢の話がいいでしょう。あなたが象の夢を見るとき、象はあなたの夢の中に現れるわけでしょう? それはときにはっきりと現れます。
では本当に象は存在するのでしょうか。答えはノーです。夢に登場する象は、現れることと空がひとつになったものなのです。象は現れますが、それは存在しません。それは存在しないけど、現れるのです。これはすべての現象とおなじです。
同様に、心は存在しないというとき、心の連続体が断ち切られたことを、あるいは心が止まったことを意味してはいません。心は存在しています。心は気づくことができます。心は知ることができます。同時にそれは見出されることはなく、空なのです。空であることと、現れることが同時に起こるのです。それらは別々のことではありません。夢の中に現れることを理解したなら、心が現れるが、存在しないということが、あるいは存在しないが現れるということがどういうことか、理解できるでしょう。
質問:講演のなかでリンポチェは、乱れた感情を静めるために仕事を活用することができるとおっしゃっていました。仕事をしているときにしたいこととは別のように思うのですが。
リンポチェ:瞑想のあと「気づき」と「注意深くあること」を磨くのは重要なことです。仕事をしているとき、あなたは気づきの状態にあり、何をしているかについて注意を払うことができるのです。もしあなたが手紙を書いているなら、綴りに注意を払うでしょう。ほかのことに注意がそれて、心がさまようことはないはずです。
もしだれかと話をしているなら、会話の内容に注意がいっているはずで、心ここにあらんという状態にはならないはずです。このように仕事をしているとき、「気づき」と「注意深くあること」に磨きをかけることができるはずで、阻害するものではないはずです。
瞑想で経験する「気づき」と「注意深くあること」は、瞑想後においても、違ったテクニックによって維持することができるはずです。それは「気づいている」状態、「わかっている」状態とおなじことだと言えます。それは瞑想後のシャマタの発展方法なのです。それは瞑想後のヴィパシュヤナー(ヴィパッサナー)の発展方法でもあるのです。それは物事をあるがままにただしく見る方法なのです。
人は何を経験しようとも、何を考えようとも、何を感じようとも、みなたずねます。「これはどこから来たのですか? それはどこですか?」と。初心者にとってはむつかしいことですが、それに慣れ親しむにしたがい、とても役立つようになるのです。
3 シャマタの瞑想
質問:もし痛みや悲しみを感じるなら、この感情がどこから来るのかを見るべきだとリンポチェはおっしゃいました。私が実際にどこから来るのか見ますと、外側の理由がわかりました。それは結婚生活が終止符を打ったこととか、医者に病気の宣告を受けたことなどでした。
こういった原因は消えることがありません。原因ははつねに現れてきますから、痛みや悲しみが終わることはないのです。そんな感じで、私にとって瞑想に集中するのはとてもむつかしいのです。
リンポチェ: 相対的な世界の状況と、事象そのものをダイレクトに見るマハームドラーの実践との間には明確な違いがあります。あなたがおっしゃるように、心と身体のなかに、外側の状況から独立して起こるさまざまなことがあります。これら外側のできごとと内なる経験とのあいだにはもちろん関連性があります。
しかしその関連性は、いまわれわれが話していることとは違っているのです。われわれがいま話しているのは、痛々しい感覚それ自体のことです。痛みをまっすぐ見ようと努め、それがどこから来たかたずねます。痛みはどこからはじまったのでしょうか? いまそれはどこにあるのでしょうか? それは何なのでしょうか?
たとえばわれわれはある病気に関して、おなじ質問をします。もちろんさまざまな事情があり、病気の原因もさまざまあります。しかしわれわれが話しているのは、実際の痛みの感覚なのです。もし私が自分の手を思い切りつねったら、とても痛いでしょう。その痛みとは何でしょうか? その感覚はどこにあり、どこから来るのでしょうか。
われわれはまっすぐそれを見ます。しかし相互依存的な起源にまでさかのぼらないようにします。われわれは感覚そのものを見ようとします。まっすぐ顔を見ようとするのです。それは生得的に存在するのではありません。それではどこから来たのでしょうか。痛みの本質とはいったい何なのでしょうか。
質問:瞑想の対象として普及しているものにはどんなものがあるのでしょうか。
リンポチェ:観想する(ヴィジュアライゼーション)対象の典型はブッダでしょう。そのように、参考にするものやサポートするものもなく、瞑想をすることができるでしょうか。観想を伴う瞑想は、心を限定的なものにします。瞑想時に心が拠りどころとするものがとくになければ、気は緩みすぎ、心は茫漠としたものになってしまいます。しかし何も無理強いされるわけではないので、この瞑想法は普及しています。
質問:(9つのステージの)第4ステージでは、空間がたっぷりあるところに身を寄せて坐します。そのとき小さなあぶくのような想念が、つぎつぎと浮かんでくることがあります。あなたはそれらを気にとめることはないとおっしゃいました。そのうちそれらは消えていくのですから。
リンポチェ:この時点で浮かび上がってくるあぶくのような小さな想念は、下から上がってくる思考の動きです。この、自己の下方から上がってくる小さな想念は何なのでしょうか。心を完全なシャマタの状態に置くためには、この小さな想念を止めなければなりません。それら(小さな想念)に焦点を絞ることによって、それらが湧き上がってくるのを防ぐことができます。それは思考そのものとはまったく関係ないものなのです。それらは、瞑想の対象として焦点を当てればいいというメッセージの役割を持っているのかもしれません。
質問:リンポチェはヴァジュラヤーナの「イダム(本尊)の修行」は、呼吸の修行よりもすぐれているとおっしゃいました。というのも、われわれの心は「イダムの修行」のときにさまようことがないからだということでした。でも観想(ヴィジュアライゼーション)をするとき、私の心はいつもさまよってしまいます。これを私はどう理解すべきでしょうか。
リンポチェ:呼吸や観想の対象について瞑想するのは、心の一点集中(ワンポインティドネス、阿字観)を発展させるということです。それは非常に効果的な方法であると同時に、飽きさせるものでもあります。対照的に神格を思い浮かべて瞑想するとき、それは興味深いものです。顔や手、装飾、衣服など見るべきものがたくさんあるのです。だからつねに何か新しいものがあり、新しい発見があるのです。このようにして心の安定をさらに高めることができるのです。
4 ヴィパシュヤナーの瞑想
質問:リンポチェ、どうしてダルマ(仏法)の「無我」よりも前にいつも自己の「無我」が教えられるのでしょうか。どのようにスカンダ(五蘊)が働くか理解するより、相互依存の発祥を経験するほうが簡単なように私には思われるのです。
リンポチェ:ブッダが教えを説いたとき、ほかにもたくさんの教派があり、教師がいました。彼らの多くもまた「空」について説いていたのです。しかしこの教師たちは自己の非・存在については理解していませんでした。もしわれわれが人の「空」について理解しないなら、ダルマの「空」も理解できません。こうした理由からブッダは非永久性(無常)について説いたのです。かつてわれわれは人が自己を欠くことについて理解し、他のすべてのダルマの非・存在について理解しようとしました。
他の観点からみると、第一に捨て去られるべきものは、乱れた感情です。乱れた感情を捨てるために、自己の非・存在性を理解しなければなりません。このことが十分にわかったら、乱れた感情はゆっくりと消えていくでしょう。乱れた感情を除去したら、われわれは先に進むことができ、知識の障害になるものを除くことができるでしょう。この知識というのは、すべての現象が空であることを理解する知識のことです。
質問:地、水、火、気。これらが空の本質だというのですが、どういうことなのでしょうか。手短に説明していただければと思います。
リンポチェ:地、水、火、気についてはヴァスバンドゥが『阿毘達磨倶舎論(アビダルマ・コーシャ・バーシャ)』の中で説明しています。アビダルマにおける四元素の描き方と一般的な理解のされかたは同じではありません。アビダルマにおいては、地はかたく、堅固な(支える)質を持っています。水は流動的な(しめっぽい)ものであり、溶かし込む質を持っています。気、あるいは風は、動きの質を持っています。火は熟するものの質を持っています。われわれが、地は堅く、われわれはその上で暮らしているとか、水は流体そのものであるとか、火は燃えるものであるとか、風は吹いて物を動かす、などと言うとき、それらはまったく異なるもののように思えます。
たとえば、地はとてもかたくて広いものとして、この世にあらわれました。しかしそれはとても小さな断片(極微)の複合体なのです。われわれが見るものはとてもたくさんの断片からできているのです。たくさんの砂粒にたとえられるでしょう。地は、すべての個人がばらばらに存在するようなもので、全体でひとつというわけではありません。この観点から見ると、ある意味、地は本当には存在していません。一つだけの存在でもなければ、多数の存在でもないのです。それは相互依存的な関係と言ってもいいでしょう。同様に、われわれは大きなものも小さなものも分析することができます。そして明瞭な意識をもってそれが空であることを示すことができます。
質問:手の例(本文では定義づけがむつかしい例として手をあげている)で私は混乱しています。私の理解では、分析していくと、最後には地、気、火、水という元素に分割されてしまうのです。
リンポチェ:たしかにその通りです。もし徹底的に分析するなら、地、水、火、気に帰結するのです。手を分析すると、それは「かたいもの」であり、「しめっぽいもの」であり、「あたたかいもの」であり、「動かすもの」であることがわかります。
手の各「部分」は硬く、妨げになっているのは手の「地」の要素です。この小さな「部分」は非常にたくさんあります。手の「水」の要素は結合力です。人が生きている間、手は子供時代と比べ、成熟したおとなになり、老齢に達するとおおいに変化します。この変化をもたらすのが「火」の要素です。そしてあなたは手を自由に動かすことができますが、そうさせているのは「気」であり、「風」であるのです。
『阿毘達磨?舎論』によれば、世界はおびただしい8つの小さなもの(極微)から成り立っています。この8つとは地、水、火、風、視覚、嗅覚、味覚、触覚のことです。それらは物理的にもっとも小さな質であり、特性なのです。それを分子と呼んでもいいでしょう。これらがなかったら、われわれには何も残らないのです。
質問:「空」という言葉は西欧人に混乱をもたらします。「空」(エンプティネス)とは「何もない」という意味です。固有の本性が「空」であるのは、主体と客体の二元性を超えていないということを意味するのではないでしょうか。
リンポチェ:そうですね。しかし言葉の定義はそれほど気にしないでください。要は、概念化するときに強く決めつけてしまいがちですが、それをいかに克服するかということなのです。物事が空であるというとき、それは物事が存在しているように見えるそのようなありかたでは存在していないという意味です。それはわれわれの決めつけとは真逆なのです。前にも申したように、空はからっぽの「無」や空間を意味するのではありません。死んだ「無」ではないのです。空は何事にとっても「現れる」可能性があるのです。どんなことでも起こりうる可能性があるのです。
生き物が不浄の状態にあるとき、空によって意味するのは、ダルマータ(法性)――サムサーラ(輪廻)の混沌を超えたリアリティ――が、サムサーラとニルヴァーナ(涅槃)の本性であるということです。覚醒した者が清浄な状態にあるとき、空はブッダの智慧、すなわちジュニャーナを意味します。不浄の状態では、われわれは見かけと空の分かちがたさについて話すことになるでしょう。浄化された状態では、光輝さと空が分かちがたいというブッダの5つの智慧について話すことになるでしょう。この智慧はとらえがたいのですが、それらはまた現れるのです。この見かけの本性は、非二元性です。しかしまた現れるのです。
見かけがあり、われわれが本性を見ないとき、見かけと空の結合は矛盾しているように見えます。ダルマータは見かけを消したのだと、われわれは考えるかもしれませんが、実際この2つは互いに矛盾していないのです。見かけとダルマータは共存し、分かちがたいのです。
光輝と空についても同じようなことが言えるでしょう。これら2つは共存し、同時的であり、互いに矛盾しないのです。
質問:私はよくわからないのですが、たとえば、すべてが空であるとするなら、チェンレシグ(観音)修行の実践で、デワチェン(アミターバの極楽世界)の浄土に生まれたいと願うのはどうしてでしょうか。
リンポチェ:因習的な真実、つまり見えるままの物事と、究極的な真実、つまり物事そのものとを区別する必要があります。究極的には、自己というものはありません。しかし相対的には、自己を堅固な客体として感知しているのです。持続して現れる身体と心を形成しているのは5つの集まり、つまり五蘊です。過去の人生と未来の人生の間には持続性があるのです。究極的には存在しないとしても、すべては現れるのです。
夢の例は役に立つと思われます。あなたは寝ていて、虎の夢を見ているとします。あなたは虎に食われるかもしれないと恐怖を感じています。そこに千里眼を持った人物が現れ、あなたが虎の夢を見ていて、恐怖を感じていることを認知したとします。
この人物はあなたのことを不憫に思い、あなたを起こして、こう言います。「怖がらないでください。虎は夢にすぎません」と。過去や未来の人生においてわれわれが経験するのはまさにこういうことなのです。生と死、スカンダ、そしてカルマはつねにわれわれに起こっているのです。このように物事は現れるのです。
これらが現れないのなら、この修行法を実践する必要はありません。しかし現れるわけですから、助けが必要となってくるのです。われわれは現象の究極的な本性を理解することができないので、こうした見かけはつねに起こってくるのです。
質問:すべての現れは心であるとする二つの論争の違いを説明していただけますか。そしてつぎのように言われるとき、それは二番目の論争、つまり「同時に行なう観察の確かさ」のことでしょうか。「森の中で木が倒れたとしても、まわりにその音を聞いた人がだれもいないとき、それは音を立てたといえるのか」
リンポチェ:もともとブッダはスートラ(顕教の経典)のなかで2つの論争について述べています。のちにダルマキルティは認識についての論考で、この論争のことに触れています。「輝くもの、知っているもの」と呼ばれる論争で言われるのは、すべての種類の見えるものは現れるが、心が不在であれば現れないということです。つまりすべての見えるものは、心があるところにのみ現れるのです。
もし「輝くもの」と「意識する」ことがなかったら、現れるものはないのです。ここはたいへん重要なポイントです。観察する意識の中で、意識と現れるものがつねに同時にあることを指摘することによって、最初の論争の理由づけがより強固になります。意識と見えるものが出会うのです。もし心がなければ、出会うものもありません。ですから二つはいつも同時に起こるのです。
このことから疑問が湧きおこります。木は倒れたが、誰もその音を聞いていないとき、「(倒れる)音がした」といえるのでしょうか。提示された論争は「唯心」(心だけ)であり、「アーラヤ識」のなかで論じられます。
アーラヤ識は「宇宙意識」と翻訳されることがあり、ユングの「集合的無意識」と比較されることがあります。しかしこういった解釈は間違っています。アーラヤ識はそれぞれの人の継続する意識のなかにあるのです。宇宙意識というより、われわれが経験するもののなかに潜む悪習(bag chags)の貯蔵庫なのです。
私はこのアーラヤ識を「すべての心の基礎」(kun gzhi rnam
shes)と呼んでいます。というのもそれはすべての意識の基礎であり、意識のメンタルの総体でもあるからです。このアーラヤ識からは6つの意識が現れます。それは目、耳、鼻、舌、体、心の意識です。これらの意識にさまざまな現象が現れます。そして自身のアーラヤ識の同じ傾向のもののなかから、これらの見かけが現れるのです。
森の中の倒れる木に関してですが、われわれの心の中にはそのようなできごとをあらしめるような隠れた傾向があります。しかし同時に、だれもそこにいないので、だれの耳の意識にも感知されないのです。しかしさまざまな人のアーラヤ識のなかで、そのような傾向があり、その音がとらえられることはないのです。
5 ヴィパシュヤナーの瞑想の疑念を取り除く
質問:心の平静を得たとき、世界は平和に見えるとリンポチェはおっしゃいました。心の平静と、識別し、危険を避ける必要性をどのように組み合わせるのでしょうか。
リンポチェ:あなたがいま言ったことは、われわれの心の中で確立された傾向にしたがって、一つのことがほかの一つのことと相互依存関係にある相対的な世界、つまり因習的真実の世界、クンソブ・デンパではたしかに真実です。
たとえばもしあなたが手を火の中に入れたら、あなたは実際にやけどを負うでしょおう。「ああ、これは空(くう)である」と言ったところで何の助けにもなりません。これは何も火の本質やあなたの手の本質が空でないからというわけではありません。あなたは空を理解していなかったのです。空を理解していなかったので、あなたの手はやけどを負ったのです。
私がいま話しているのは、あなたの心の中で体験している感情のことです。外の世界で起こっていることに左右される必要はないのです。たとえば、あなたが途方もない富を持ったとしても、幸せを感じるとはかぎりません。そして貧しい人々がみじめである必要はありません。両者に相関関係はないのです。あなたの精神が幸福を感じているとき、物をたくさん持っているかどうかは、どうでもいいものです。
あなたが言われたように、この時点で世界はまったく安全とは言えません。というのもわれわれは世界の現実(リアリティ)を理解していないからです。われわれはダルマータを理解していないのです。現象のリアリティを理解していないので、われわれは相対的世界とつきあうしかありません。
われわれは相対的世界に生きています。というのも、心をそのままに理解していないからです。心の奥の本性を現実化していないからです。そのようなシッディを達成できず、究極的な智慧を現実化できていないので、すぐに物事を変えることができないのです。
質問:シャマタとヴィパシュヤナー、あるいは抑えきれない心と重苦しい心、これらの関係をどう説明されますか。
リンポチェ:心がどんよりとしたり、抑えきれなくなったりするのが、シャマタを実践するときの問題です。ヴィパシュヤナーを実践するときも、同様の問題があります。もしシャマタを実践するときに心のだるさがはじまったら、ブッダの本性が存在することを思い出して、ブッダの善きことを考えながら、自分自身を鼓舞すべきです。
もし心を抑えきれないのがシャマタを実践するときの主要な問題であるとするなら、熱狂していることに水をかけて冷ましながら、この世が永遠でないこと(無常)やサムサーラの苦しみについて考えるべきでしょう。サムサーラがむなしいものであることを理解することによって手におえない心を静めることができるはずです。
ヴィパシュヤナーを実践し、心の本性を具現化しているときも、抑えきれない心は瞑想に入ってきます。もし抑えきれない心がヴィパシュヤナーの瞑想の邪魔をしはじめたら、その荒れた心をまっすぐ見て、それのありのままの姿を理解します。もしヴィパシュヤナーの瞑想に気だるさや朦朧とした感じが入ってきたら、同じようにその姿そのものを直視するようにしてください。
質問:私は医者です。たくさんの人が、大きな痛みを伴う記憶を持ったまま私のところにやってきます。それはずっと昔に起こったことかもしれません。両親にほったらかしにされたとか、虐待されたとか、あるいは人間関係の不和や離婚かもしれません。彼らは精神科医のところに行って、こう言うでしょう。
「私はこういう記憶を持っていて、そのために人生全体がうまくいきません」と。彼らはひとつの記憶にさいなまれながら、何年も働いているのですが、それによって得られるものは何もないのです。こうした心を傷つけ、それが肉体的な痛みとなる持続的な記憶に苦しむ人々をどうやったら助けることができるでしょうか。
リンポチェ:あなたのおっしゃる通りのことが起こっています。私たちの心の中の苦痛が隠れた性質を通して増幅され、それが身体の苦痛となることがあります。こうして不安の多い困難な状況がつくりだされています。
人にできることとは何でしょうか。尊い人間の誕生についてお話しましょう。誕生によって悪い状況から解放されるかもしれませんし、よい状況に生まれるかもしれません。そのような機会の意味合いについて考えるのは、無益なことではありません。われわれは何でもできるといっていいほどの大きな容量を持っています。
しかしこのことを認識するのはむつかしく、また人間の誕生がいかに尊いかを忘れがちです。われわれの頭はめまいを起こし、これが現実であることがわからなくなってしまいます。そこで持たなければならないものがあると考え始めます。それを持たなければ、とてもがっかりするのです。
私たちは信じられないほどたくさんの選択肢があることに気づいていません。無数の道が私たちの前にあるのです。私たちは心を広く、大きなものにすることができます。それに過去はもう過ぎ去っているのです。起こってしまったことにたいして、それが役立とうが、役に立つまいが、われわれはほとんど何もすることができません。過去のことにこだわっても、益あることは何もありません。
質問:相互依存する起こり(縁起)について説明していただけますか。
リンポチェ:縁起がどういうことかといえば、あることは、ほかのあることと依存しあっているという推論です。それはつまり、ひとつのことは、ほかの何かに依存しなくては存在しえないということなのです。
たとえば、あなたが「ここ」に立っているとき、こちらが「ここ」であり、そちらが「そこ」です。しかしあなたが部屋の反対側に行くと、「ここ」は「そこ」になります。われわれはたくさんの観点から物事を見ることができるし、さまざまな異なる状況にその見方を当てはめることができます。つまり「ここ」とか「そこ」という区別はないのです。それらは互いに依存しあっているのです。縁起というものは空(くう)であることを証明しているのです。
ほかの論理的推論は、見かけは心の見かけにすぎない、です。たとえば昨日あなたは青い布を見て、それを覚えています。あなたが青色を思い出したとき、青色だけでなく、青色を見たときの場面を思い出します。あなたは青色と青色を見たという経験と関連した質を理解する「知っている人」を覚えているのです。
つまり何かを見るときはいつも、見たものとそれを「見ていること」の両者を記憶しているのです。これは二つのことがほどけない結び目のように結ばれていること、また受容する意識にとって見かけと思われているものが、実際に外から見たものではなく、受容する意識そのものであり、実体としてはおなじものであるということなのです。
原則的に、独立して起こっているとされるものも、実際はそのアイデンティティのためにほかのものに依存しているのです。また、教えられるということは、理解される客体と理解する主体が同時に起こっているということなのです。このことは外的な見かけは心の見かけにすぎないことを示しています。