少女マララとパドマサンバヴァ     宮本神酒男 

タリバン支配下のガンダーラ 

 スワート地方ミンゴラ郊外のシャンカルダル(シンゲルダル)・ストゥーパを訪ねたときのこと、ファインダーを覗く視界の片隅に、燃料か土くれを頭上にのせて歩く女性の姿が見えた。私は軽い気持ちで少し離れたところを歩く三十代と思われる女性のほうに望遠レンズを向けた。イスラム社会で女性にカメラを向けるのはご法度であるが、この広大な風景のなかで何を撮っているかなんてだれにもわからないだろう。見渡すかぎり、遠くに人家はあるものの、人影はなかった。
このストゥーパはクシャーナ朝の時期に建てられたものと私は勘違いしていたが、
6世紀にスワートのウッタラセーナ王によって建てられたものらしい。伝説では仏舎利を運んでいた白象がこのあたりで立ち止り、そのまま死ぬと、岩になった。白象が死んだ場所に、このストゥーパが建てられたという。7世紀に玄奘法師がこのストゥーパを見ているが、当時はそんなに古びていなかったはずだ。

 しばらくしてはるか彼方の民家のほうに二つの小さな点があらわれた。それはしだいに大きくなり、がっしりした身体付きの中年の男たちであることがわかった。彼らが手に鎌を持ち、血相を変え、眼が血走っていることに気づいたのは、彼らが間近に迫ってきたときだった。男のひとりは息を切らせながら、激しく弾劾するような口調で言ってきた。

「おまえ、いま女の写真を撮っただろう」
「いえ、撮っていません」私は自分の声が震えているのがわかった。「風景を撮っただけです」
「いや撮ったはずだ」
「いえ……」

 そんな押し問答がつづき、彼らがあきらめるまで私はしらを切りつづけた。デジカメだったので動かぬ証拠(つまり画像そのもの)がカメラにあったが、幸い彼らはデジカメの仕組みをよく知らなかったようだ。


少女マララの出身地 

 ミンゴラ生まれの少女マララ・ユスフザイが銃撃される5年前のことである。2012年10月9日、ミンゴラでスクールバスに乗っていた当時15歳のマララは、乗り込んできた男たちの銃弾を頭部に受け、瀕死の重傷を負った。彼女はBBCのウルドゥー語放送に匿名で女性に学校へ行くことを禁じたタリバンを批判し、女性の教育の権利を訴える趣旨の投稿をしていたが、そのためタリバン(TTP、パキスタン・タリバン運動)のターゲットになっていたのだ。

 その後ラワルピンディで治療を受けていたマララは英国に運ばれ、最新鋭かつ最高峰の医療環境のなかで健康を取り戻したのは奇跡といってもよかった。現在マララは16歳にして世界でもっとも影響力のあるフェミニストである。しかしもちろんパキスタン北部が安全になったわけではなく、3月にはペシャワール近くで女性教師が銃撃され亡くなっている。

 タリバンは、基本的にはパシュトゥン人(ミンゴラではパフトゥン人と呼ばれる)のなかから生まれたイスラム原理主義組織である。パシュトゥン人はアフガニスタンの主体民族であり、パキスタン側にもアフガンスタンとの国境に沿って分布している。マララを含むスワート渓谷の人々もパシュトゥン人であり、タリバンというレッテルを貼られるずっと以前から実質親タリバンだった。しかしパキスタン国軍がスワート渓谷に掃討作戦と称して2万人の兵を送って総攻撃をかけたのは、2008年のことだった。

 

パドマサンバヴァはここに生まれた 

 私が2007年にスワート渓谷を訪ねたのは、じつはチベットで第二のブッダと呼ばれるグル・リンポチェことパドマサンバヴァの故郷を見るためだった。もちろん、そもそもパドマサンバヴァが実在したかどうか、それほどはっきりしているわけではない。

中国の史書で吐蕃と呼ばれたチベットの黄金期の8世紀、パドマサンバヴァはチベットにやってきて最初の仏教寺院サムイェ寺を建立した。旅の途上、パドマサンバヴァは無数の魔物を調伏し、チベットを仏法の栄える地に変えた。またその時代に早すぎると思われた経典は地中や洞窟、ストゥーパのなかなどに隠した。パドマサンバヴァを祖師のごとくに重んじるのはニンマ派だが、ボン教を含むチベットのすべての教派が多かれ少なかれパドマサンバヴァの教義の影響を受けているのだ。

 パドマサンバヴァの教えや実践法、数々の伝説はふんだんに残っているものの、実在したという証拠はじつはほとんどない。史書『青冊史』にパドマサンバヴァの名は見えるが、これは地味な仏教学者のようである。

 そんな曖昧な存在のパドマサンバヴァなので、その生地にこだわることにどれだけの意味があるかはわからない。ともかく、パドマサンバヴァの故郷はウッディヤーナ、すなわち現在のスワート渓谷とされ、チベット人にとって特別な場所なのだ。

 もしウッディヤーナがパドマサンバヴァにふさわしい土地として選ばれたとするなら、それはここが、ガンダーラ文化が花開いた重要な場所だからである。ミンゴラのブトカラ遺跡を見ればわかるように、タクシラにつぐ重要なガンダーラの拠点だった。

 しかし7世紀前半にウッディヤーナにやってきた玄奘は、「仏教が衰退している」と嘆き、失望の色を隠していない。このあと500年以上のあいだに仏教はしだいに衰えていき、ついにはインドから姿を消す。

 パドマサンバヴァが生まれた時代はまた、統治者がヒンドゥー・シャーヒ、すなわちヒンドゥー教徒にかわった頃だった。自分の生まれた土地で仏教が衰退し、外道(ヒンドゥー教)が強盛になったとき、新しい土地を開拓して仏教の種をまき、育てようという気持ちを持ったとしても不思議ではない。

 ウッディヤーナ伝説は、ウッディヤーナがチベットから遠いからこそできたものだろうか。じつは、当時のチベットは大国で、チベット帝国の境界からスワートはそれほど離れていなかった。8世紀は、チベットがもっとも広大な版図を獲得した時期である。現在のパキスタンにおいては、バルチスタンからギルギット、さらにはアフガニスタンのバダクシャンまでもがチベットの領域となり、スワート(ウッディヤーナ)は隣接する地域だったのである。

 

ジャハナバードの大仏 

 私がスワートを訪ねた目的のひとつは、パドマサンバヴァの痕跡を探すことだった。目当てはジャハナバードの大仏だった。柿を箱詰めにしている地元の子どもたちに案内され、私は森の中のこの磨崖仏を見ることができた。(ここで柿をいくつかもらってあとで食べたのだが、食べるたびに喉がつまり、呼吸困難に陥ってしまったのはどうしてだろうか?)
(⇒「破壊されたスワートの大仏」) 

 じつはあとで聞かされるのだが、この翌日、タリバンの指導者の命令によって大仏に銃弾がぶちこまれ、数か月後には頭部が破壊されてしまった。バーミヤンのミニチュア版みたいな話である。パドマサンバヴァが生まれた頃に彫られたこのやさしい顔の大仏はくしくも私が訪ねたときに終焉を迎えようとしていたのである。

 玄奘が証言しているように、スワート渓谷にはタントラ仏教の痕跡はほとんど残っていない。パドマサンバヴァがタントラ僧になったのはスワートではなく、どこかほかの場所だったのだろうか。(たとえばインド・ヒマチャルプラデシュ州のツォ・ペマことレワルサル湖とか)


パドマサンバヴァはパシュトゥン人か 

 さて、パドマサンバヴァがスワート出身であるとするなら、現在のスワートの人々とおなじくパシュトゥン人なのだろうか。パドマサンバヴァはタリバンや少女マララと同一の民族なのだろうか。もしそうなら、パシュトゥン語(パシュトー語)はペルシア語系の言語であり、パドマサンバヴァはインド人の風貌よりもイラン人やアフガン人の風貌に近かったかもしれない。現代に生きていればパドマサンバヴァはタリバンの精神的指導者になっていたかもしれない。いや、もちろんこういう仮説は永遠に仮説でしかないのだが。

 ただ、探検家オーレル・スタインによれば、15世紀頃までスワートに住んでいたのはダルド人であり、その後パタン人(パシュトゥン人)に入れ替わったのだという。ダルド人はインド北部やパキスタン北部に分布する西欧人のように見える人々である。彼らはコーカサス系の顔立ちをしていて、なかには金髪や茶、青色の目を持つ者もいる。もしパドマサンバヴァがダルド人であるとするなら、中央アジアのコーカサス系の人々のような容貌をしていたかもしれない。

 トンデモ話をおまけにひとつ。パシュトゥン人地域の東部に分布するユスフザイ一族は、ユダヤ人の失われた十支族の末裔といわれている。ユダヤとイスラムが対立する現在、ユダヤ人の子孫であることを誇るイスラム教徒はいないだろうが、二、三百年前、彼らはそれを誇りにしていたのだ。しかしいつしかユダヤ人としての風習は忘れられ、消えてしまった。少女マララ・ユスフザイはユスフザイ(ヨセフの息子)の家系に属するのだろうか。「ユスフザイなんてありふれた名前だよ」と言われればそれまでなのだが……。