ミケロの旅日記
7月14日 顔面刺青老女と会う(1)
丸一日、勘違いしていた。前夜遅く独竜江に着いて泊まった独竜江村が15年前に滞在した独竜江村とは違うことに、ずっと気づかなかったのだ。二本の車道が村を貫き、食堂や雑貨店が軒を並べるさまを見て、いっしょに散歩をした日本人H夫妻に「ああ、すっかり文明化してしまったなあ」などと知ったかぶりのことを言ってしまった。
15年前の独竜江村は巴坡(パポ)村で、現在の独竜江村が孔当(コンダン)村であることにはじめて気づいたのは、食堂で夕飯を食べながら壁に貼ってあった地元の地図を見たときだった。山道がつながっていた巴坡村からバイパス道のつながる孔当村に行政府が移ったのだ。昔はこの地域に車一台なかったので、どこも鬱蒼とした森か寒村ばかりだった。孔当村のことも思い出した。生い茂った草むらに埋もれたような村に、子供たちがたくさんいたのが印象的だ。
15年前のことがよみがえってきた。三日間ほど巴坡村ですごし(そのあいだに牛を天神にささげる祭天儀礼をおこない)独竜江上流に向けて出発する頃にちょうど雨季がはじまった。村からさほど遠くないところに吊り橋があった。この吊り橋はいままで体験した吊り橋のなかでももっとも危険なものだった。4年前にパキスタン北部のクンジュラブ峠近くで板と板のあいだが1m半もあいているような恐ろしい吊り橋を渡ったことがあるけれど、こちら独竜江の吊り橋ははるかに小規模ながら、足元はぼろぼろに腐った竹で滑りやすく、手すりのロープは川中央では膝あたりまで低くなるといったぐあいで危険度はずっと高かった。中央では目を開けられないほど風雨が強く、目をあけると足元で激流が逆巻いていた。荒れ狂う波を見ていると、上流側にからだが流れていくように感じた。
川岸の道はしばしば水没した。脛(すね)まで強い水圧につかりながら、小石を踏んで転ばないように気をつけながら歩いた。ポンチョを着ていたけれど、そのためにメガネが曇ってしまい、足元がよく見えなかった。
出発したときは、食べられるものとしてはお米と板状に固めた(おそらく豚の)脂だけを携帯していった。この脂の板はエネルギー源として意外と貴重なものとなった。行く先々ではジャガイモくらいしかなかったのだ。あとは現地調達である。
雨が上がり、村と村のあいだの道を歩いていると、おばあちゃんと孫娘に出会った。ふたりは一羽つニワトリを抱いていた。われわれは交渉して20元くらいでニワトリを買った。しばらく歩くと支流が独竜江にそそぎこむ渓谷があり、そこで魚を釣っている青年と会った。竹かごのなかには大きな川魚が二匹はいっていたので、その二匹の魚を買った。このようにして食事を調達しながら上流へと歩いて行くのだった。日本人としては魚に串を通し、ダイナミックに火にあぶって焼き魚にしたかったが、そんな選択の余地はなく、魚鍋と相場は決まっていた。鍋にすると川魚というのはどうしても生臭く、また小骨が多く食べにくかった。
一回目の独竜江踏査でどうしても忘れられないことがある。山道を歩いていると、われわれ(私+三宅さん+旅遊局のT君+現地ガイド兼ポーター)の前や後ろを歩く二人連れが気になるようになった。二人といっても息子と老母の親子のようだった。息子は40歳くらいの壮年の男であり、老いた母親を背負って歩いていた。老人は軽いといっても、険しい山道を何時間も歩くのは容易ではなかったろう。
大きな木の下でこの二人が根株の上に腰を下ろして休んでいた。そのとき何気なく老女の顔をのぞいて驚いた。
「老婆じゃない」
老女ではなく、若い娘だった。重い病気にかかっているようで、顔はやつれて老人のように萎れていた。胸のあたりはえぐれていた。おそらく治療を施すために父親が巴坡村まで、もしかすると貢山まで連れて行ったのだろう。しかしそのかいもなく、あるいは手の施しようがなく、余命いくばくもないように思われた。当時、巴坡村から奥に入ると病院はなく、薬が置かれただけの診療所がひとつあるだけだった。
独竜江ではじめて会った刺青の女性。上流の竜元出身。(1996)
15年前、独竜江地区で最初に会った刺青女性は、巴坡村の川辺でおこなわれた祭天儀礼に参加していた初老の女性だった。といっても巴坡村の出身ではなく、上流の竜元村から嫁いで巴坡村にやってきたという話だった。村には何十人も女性がいるのに、刺青のはいった女性は彼女だけだった。刺青女性がうようよいるのではないかと期待した私は当時、肩すかしをくったような心持になった。下流域では早くから刺青の風習が消えてしまったのかもしれないと私は推測した。その推測が間違いであることを理解したのは15年後のことだった。
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