ミケロの旅日記 
7月14日 顔面刺青老女と会う(3)

 15年前のことを思い出す。巴坡村のなかを散歩していると、大きな木の下に一頭の独竜牛がいた。茶色い髪が覆いかぶさったような頭の独竜牛は、すこし頑固そうで、そんな不器用な様子がとてもかわいらしかった。私はその近くにいた男性に、「この牛、かわいいですね。あなたの牛ですか?」と聞いた。

「それはあなたの牛ですよ」

祭りの会場(処刑場?)に連れて行かれる独竜牛。(1996)

 その予想しなかった一言に、少なからぬ衝撃を受けた。たしかに翌日の祭天儀礼のときに屠る牛を私は大枚をはたいて一頭買っていた。この牛が生贄としてささげられる牛なのだ。私のためにこの独竜牛は明日命を失うことになるのだ。

 世界中の牛が殺され、人々の胃の中に入ってしまう。インドやネパールの路上でのんびりしている牛は特別で、ほとんどの牛は早かれ遅かれ殺される運命にある。『いのちの食べかた』というドキュメンタリー映画には牛が工業製品のように殺されていくさまが描かれていた。しかしだからといってこの独竜牛の命を奪うなんて、オレは最悪な人間だな、と思った。翌日の定めのことを考えると、独竜牛がいとおしくてたまらなくなった。

時間をかける牛の殺し方はすこし残忍。(1996)

 祭りのなかでの独竜牛の殺し方はほんとうに残酷だった。ひと時に殺すのならまだしも、杭につないだ牛のまわりを独竜族の男女が銅鑼を鳴らしながら踊り、具志堅用高のような髪型をした屠殺係りの男がやりでチクチクと牛を刺していく。恐怖におびえた牛はしだいにあきらめと苦悶のないまぜになった表情を浮かべるようになる。牛は最後には血をきながら土の上に崩れ落ちる。独竜牛の目は輝きを失い、ゼラチン質の塊となる。私は何度も屠殺のシーンを見てきたけど、いつもこの目が生気を失う一瞬を敬虔な気持ちで感じ取ってきた。生命がなくなる瞬間って、いったい何なのだろう。本当に何グラムかの魂が抜けだすのだろうか。

 

 現在、独竜江地区だけでなく、貢山側にもいくつかの独竜牛農場があり、多くのミタン牛が飼育されている。独竜牛の肉はコシがあっておいしいとされ、畜産はこのあたりの主要産業となっていた。たしか絶滅危惧種と考えられていたはずだが、繁殖に成功し、いまやカネのなる動物となっているのだ。隔世の感を強くした。

 田んぼのあいだを貫く道を進んでいくと、雨靄のなか、こちらにやってくる小さなおばあさんがいた。ひさしぶりに見る刺青ばあさんだった。会うのははじめてだったけど、いままでに何度も会ったことがあるようなやさしい顔のおばあさんだった。(つづく)

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