ミケロの旅日記
7月15日 ミャンマー国境へ(孔当村→巴坡村)
独竜江。ミャンマーではエーヤワディー川となってインド洋に注ぐ。
この旅(独竜江の旅の前半部)の目的は、Nさんの叔父さんを呪殺したという黒魔術師を訪ねるということだった。もちろんNさんの復讐をとげるためではない。あくまで興味本位のこと。そもそも黒魔術師といちおう呼んでいるけれど、実際それがシャーマンなのかたんなる民間人なのかさえわからない。問題は、黒魔術師がミャンマー側の村に住んでいるらしいことだった。独竜族の分布は中国側とミャンマー側に二分されているのだ。というより、大半がラワン族としてミャンマー側に住み、すこしばかりが独竜族として中国雲南にいるのだ。ラワン族といってもじつはさまざまな部族(チベット・ビルマ語族)の集合体であり、そのなかのタロン族はピグミーともいわれている。
ミャンマーにピグミー? それについてはまた調査する機会があるだろう。
ともかく、黒魔術師に会うためには国境を越えなければならない。ところがここにはイミグレもチェックポイントもないのだ。
どうやってミャンマーへ行けばいいのだ?
独竜族のNさんとともに独竜江村(孔当村)を徒歩で出発した途端、国境問題がにわかに暗黒の空の雨雲のように頭の中で大きくなってきた。だいいち国境に近づくことすらできないのではないか。国境手前の馬庫村までは行けるだろうか。90年代なら馬庫村に行くことはできなかっただろう。いま、それほど問題はないかもしれないが、国境付近の警備は厳しい可能性がある。それでもなんとかがんばって国境近くまでは行ってみよう。そこでNさんひとりに国境を越えてもらい、自分ひとり付近の森を散策しながら待つとしよう。
今日の目的地は旧独竜江村、すなわち巴坡村だ。15年前祭天儀礼をおこない、独竜牛を犠牲にした村である。
独竜江沿いの車道を南へ、つまり下流へと歩いていく。15年前は険しい山道を上り下りせねばならず、自然を鑑賞する余裕などなかった。今回はさしずめエコツアーだ。道路と川のあいだの茂みや山側の森にはさまざまな植物が見られた。黄色い蘭をはじめ見たことのない花々が咲き誇っていた。植物の名はほとんど知らなかった。知らないので、それらは記憶に残りにくい。この現象世界は名づけることによって認識できるのだ。
背の高さの三倍はありそうな巨大なバナナ風の木があった。バナナの実がなりそうにもなかったので、それは芭蕉の一種だろう。植物に知識がないとこの程度の認識力である。巴坡村まで下るともっと小さな芭蕉があり、果実は(つまりバナナは)赤い色を帯びるようになる。一か月後、ミャンマーのラカイン地方に行くと、バナナはピンク色だった。バナナ=黄色という固定観念はくつがえされるのだ。これらは食用にはならないという。ただし、ラカイン地方では焼きバナナを食べた。イモのような味だった。バナナという観念を捨てると、なかなか美味で食感がよく、腹持ちがした。
孔当村と巴坡村の中間の支流が独竜江に注ぎ込むあたりに鉄橋が架かっていた。支流の清流と独竜江の濁流が出合って、ちょうどカフェオレをまぜたかのようだ。15年前もおなじ光景を見て印象をとどめた記憶がよみがえってきた。当時は木橋だったのだろうが、あまりはっきり覚えていない。釣りをしていた青年を見かけたのはここだったのではなかろうか。彼から竹籠のなかの魚を買い、村に着いたあと鍋にして食べた。貴重なタンパク源だった。
鉄橋を渡るとき、地元の親子とすれちがった。お父さんと思われる男の人と話をすると、巴坡村の住人で、何の用事かは聞かなかったけれど、孔当村に向かっているという。巴坡村まで徒歩で2時間ほどだと聞き、エネルギーが体内に湧き起ってきたように感じた。実際にはその倍もかかってしまうのだが。お父さんはなんとなく私より年上のような気がしていたが、あとで考えるに、子供たちが小さいのだからずっと年下だろう。自分(私)が年をとったという自覚症状がないのか、それとも現地の人が老けるのがはやいというべきなのか……。
夕暮れ時が近づいているのに、なかなか巴坡村に着かない。そろそろ燃料切れを起こしそうである。巴坡村のほうから車が近づいてきた。遠目に公安の車のように見える。車が止まり、なかから制服を着た公安が出てきて、私にあれこれと問いただす。なんていうことになるのではないかと想像し、ドキドキする。相当の公安アレルギーである。いままでの公安とのさまざまなできごとのことを考えたら、当然の反応ともいえるだろう。車が通り過ぎるとき、視線を落とし、注意をひかないようにした。ちらりと横目に見て、車体に検察局と書いてあるのを認め、「なーんだ」と声に出して、胸をなでおろした。公安でないのなら、よそ者が歩いているからといってとがめたりはしないだろう。
体内の燃料タンクが空になったとき、ちょうど巴坡村の手前の希望小学校に着いた。ここが今日の目的地だった。日本からの援助によって4年前に建てられた小ぶりの二階建ての小学校なのだが、そんなに新しい建物には見えなかった。私は一階の中央の教職員用の部屋の蚊帳を吊るしたベッドに寝た。援助によって建てられた学校に宿泊することに私は申し訳ないような気がしてならなかった。
Nさんの親戚は小学校の敷地の外側に住んでいた。そこの厨房にはさまざまな人(親戚や友人)が集まっていた。鶏鍋をつつきながら、ビールを飲み、談笑にふけった。鶏の骨を下に落とすと、親子の小型犬が争って奪おうとした。