ミケロの旅日記
7月16日 ミャンマー国境へ(巴坡村) 犬は糞を食えるほど自由だ

 

 村の上側に道路が建設されるや、道路と川にはさまれた巴坡(パポ)村は雲南のどこにでもあるような特色のない村に変貌した。道ひとつですべてが変わるのだ。生活様式だって変わっただろう。ビジネスチャンスも旧独竜江村(巴坡村)よりも新独竜江村(孔当村)のほうがあるだろう。15年前にはじめて山を越えてこの村に到達したとき、寒村ながら小さな雑貨店がたくさんあることに強い印象をもった。村の小道を散策するのも冒険だったけれど、今回は道路から村を眺めるだけにした。

 村から数十分歩いた山の森の中にNさんの親戚の家があった。こういう山の中の家に泊まるのはかねてからの念願だった。私は独竜族の精霊伝説が好きだった。独竜江地区の魑魅魍魎(ちみもうりょう)を森の中で感じ取りたいと思っていたのだ。

 

<ジプラン> 崖や洞穴に棲む悪鬼。突然激痛にみまわれて悶絶したり、急病を発して死に至ったりするのはジプランのしわざといわれる。伝説によればジプランは狩人が変じた精霊だという。

 昔、盛大な祭りが終わる日、肉を平等に分割するしきたりなのに、五人の男だけが、分け前から漏れてしまった。そこで彼らは山に入って狩りをすることにした。作戦はこうである。一人は犬を連れて崖をよじのぼり、獲物を追いつめる。他の四人は分れて崖の下で獲物を待ちかまえる。作戦を実行に移して間もなく、崖の上で犬が吠え立てたので、野ロバを追いつめたのだろうと四人は考えた。ところが野ロバは逃げてこない。半日たっても野ロバも男も現れないので、四人が崖の上にのぼると、今度は下から犬の吠え声が聞える。で、下におりると、しずまりかえっている。仕方なく彼らは家に戻り、翌日数人の狩人も参加してもう一度山に入った。彼らが崖の上にたどりついたとき、突如として天空かき曇り、暴風雨が吹き荒れ、雷が鳴り響いた。そして崖のなかからひとの声が聞えた。

「おまえら、おれが見えるかい」
 崖の上の草が揺れているだけで人の姿は見えない。
「誰だ? 何も見えないぞ」
「おれはジプランだ。人が変じたのだ。これからは病気になったとき、粟と酒をもってくるがよい。おれが治してやろう」

 このとき以来病気や災害にたいし、人々はブタやニワトリ、酒や穀物をジプランにささげるようになったのだという。

 

<レムター> 森と野獣の守護神。レムターも人が変じた精霊。

昔、独龍江地区に兄弟がいた。彼らは山に狩りに行き、崖の上をよじのぼる岩羊を見つけた。が、岩羊はぴょんと跳びはねてどこかへ消えてしまった。弟は深追いすべきでないと忠告したが、兄は犬をつれて崖をのぼっていった。しばらくして犬の吠え立てる声がしたので、弟は崖をのぼったが、犬も兄も姿が見えなかった。すると突然天が暗くなり、崖の背後から顔の半分が黒、もう半分が緑の怪物が現れた

「おれが見えるか」
「見えるよ!」
「おれはおまえの兄だが、レムターになってしまったのだ。いっしょに家には帰れない。おまえひとりで戻るのだ。来年またここに狩りに来るなら、おまえにたくさん獲物がとれるようにしてやろう」
  それからしばらくして、この怪物は家にやってきた。が、下半身はほとんど石と化していた。家人が何を出しても怪物は食べなかったが、焼酎が出されると飲み干し、走り去った。翌年、弟は狩りに行き、獲物をたくさん仕留めることができた。それ以来、人々は山に狩りに行く前、レムターを祀るようになったのだという。

 このふたつの精霊はよく似ている。ただジプランは病や災害の除去に力を発揮し、レムターは狩人の守護霊という違いがあるだけだ。地元の人にとって森は豊かさをもたらすものであると同時に、死や不幸をもたらす恐ろしい存在なのだ。家から一歩出ると漆黒の闇、という環境は都会に住んでいると経験することができない。家の中の暗い光(ロウソクや囲炉裏の火)が届かない闇のなかで小用を足すとき、突然暗闇の力を感じて戦慄を覚えたことが私には何度かあった。

 

 森の中にはいくつかの家屋が散らばっていた。もともとひとつの家族だったのだが、結婚して新築したりして、姻戚関係のある集落になったのだ。中心の家屋は厨房兼食堂だった。私は中国西南少数民族地帯になじみがあるので、囲炉裏端に座ってジャガイモをむいて食べながら談笑すると、妙に落ち着くのだった。

 

 この家には犬や猫がたくさんいた。食堂家屋には小型犬(チワワかチンだと思う)がいて、遠来の客を珍しがったのか、しきりにじゃれてきた。ここには猫の家族もいた。父母と双子の四匹家族である。

 食堂家屋から10米離れたところに長屋のような建物があり、そのなかの一部屋に寝た。外はかなりの雨が降っていたが、となりの部屋では遅くまでカラオケを楽しんでいた。この家屋にも猫や犬が何匹か飼われていた。柴犬のような種類の犬がかわいらしかった。しかし食堂にいる小型犬はいつも人間のおこぼれにあずかることができるのに、この柴犬はエサをもらっているのだろうか。

 翌日、森の中のトイレに行ったときのこと。そう、トイレは天然トイレなのである。トイレまでは20mほど離れていて、滑りやすい岩や草の上を歩かなければならなかった。トイレに行くときはかならず一度は滑って転んだ。トイレは、高木に囲まれた地面のくぼみだった。昼間見ると、それはダル・スープ(豆カレー)のように見えた。

 小用を足しにその天然トイレに行くと、先客がいてドキリとした。先客というのは柴犬だった。雨を含んで水分たっぷりのダル・スープをおいしそうにペチャペチャとなめていたのだ。「あ、失礼」といって私は近くの木の根元で用を足した。犬がじつは糞好きであることを私は知っていた。チベットの寺の犬が参拝客の人糞を主食としているのを目撃したことがあった。モソ族(ナシ族)の家に泊まっているとき、裏の林で大便をしていると、その家の犬がしっぽを振りながら、落ちたてのわがクソにむしゃぶりついてきたことがあった。中国人はこのことを知っているからこそ、あまり犬を可愛がらないのだ。私は平気で拳骨を犬の口にかませたり、手をなめさせたりして、犬と遊んでいる。中国人からすれば信じがたいほど汚い行為に映ったかもしれない。

 ともかく、柴犬が食堂でおこぼれにあずからなくても、人糞で十分生きていけることはわかった。

 

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