ミケロの旅日記
7月21日 独竜江にやってきたフランスの王子様(2)
独竜江・巴坡村のはずれにある教会。
われわれは探検隊のメンバーであるエミール・ルーの記録『イラワジの源流を求めて』を読むことによって、百年以上前の探検の様子をつぶさに追体験することができる。正直なところ地名が予想外に変化しているため、照合作業がなかなかうまくいかず、完璧に探検査隊の跡を追うことはできなかった。
探検隊が乗ったジャンク船がトンキン湾(ハノイ)を出発したのは1895年の2月7日だった。紅河をさかのぼり、2月10日に雲南のManhao(蔓耗)に着く。このあとMongtse(蒙自)に11日間滞在するなど各所で調査活動を行い、4月6日にSsumao(思茅)に着く。この旅の第一部の目的地、大理府に到達したのは5月26日だった。
探検隊が大理を出たのは6月16日だが、7月21日に瀾滄江川岸のJeyang-senで記録ノートが盗難に遭ってしまったという。金目のものが盗られたのならともかく、ノートが狙われたのはなぜだろうか。王子や隊員は相当にあせっただろう。
8月16日、探検隊は仏教寺院のある瀾滄江沿いのKampou(康普)に着く。寺院はチベット仏教カルマパの寿国寺である。その翌日にはモソ(ナシ族)の土司であるモクァがいるYetche(葉枝)を通過している。この時期におりしもモソの火把節(たいまつ祭り)が盛大におこなわれていて、よほど印象深かったのか、詳しい記録を残している。
目的地のひとつと考えられるTsekou(茨磨jに着いたのは8月19日だった。茨磨i現在は茨中)にはカトリック(フランス国教会)の天主堂があり、スーリエ神父とドベルナール神父から暖かく受け入れられた。
私にとってもこの天主堂は忘れることのできない場所である。村に滞在し、クリスマスのミサに出席した翌日、公安(警察)によって拘束されたことがあるのだ。この村はもちろんのこと、広い地域全体の人々(ほとんどがチベット族)がクリスチャンだった。
探検隊はこの天主堂に5日間ほど滞在し、それから北上してAtentse(徳欽)を訪ねた。ここでも宣教師たちによって迎えられた。天主堂そのものは8年前に焼け落ち、いまだ再建中だったというが。探検隊は当地のチベット仏教についても詳しく調べている。当時としてはかなり正確な認識をもっていた。
彼らはすぐに茨魔ノもどり、そこから山を越えてサルウィン川の渓谷をめざした。私が茨中に滞在したとき、神父は山を越えると迪麻洛(ディマロ)という村があり、そこにも天主堂があると教えてくれたことを思い出した。いつの日かこのルートを歩いてメコン川からサルウィン川へ行ってみたいと願ったものだ。
体調を崩していた王子が回復し、茨磨iツク)の天主堂のふたりの神父に最後の別れを告げたのは9月10日だった。別れ際に神父らは言った。
「あなたがたとともに去っていくのはフランスそのものだ」
この時代、この状況において、いま別れるということは永遠に別れることにほかならなかった。神父たちが同国人と会う機会は二度と訪れないかもしれない。骨を埋める覚悟というのはこういうことを言うのだろう。
9月12日、24人のチベット族ポーターとともにLili川(永納渓)をさかのぼっていく。チベット族のLondjre村の領域に入ると、四つの橋が順次撤去されようとしていた。村人はTsarong(ツァワロン。現チベット自治区)のラマから探検隊の妨害工作をするように命じられていたのだ。しかしそれは寺に示すポーズだけで、探検隊は村では歓待を受けた。
二日間歩いて探検隊は3900メートルの峠に達し、みすぼらしくはあるが風よけには十分なシェパード小屋を見つけた。探検隊はここで村人から雌犬を買い、ジャメ(ダイアモンドの女性形)と名付けた。ジャメははじめ凶暴で言うことをきかなかったが、数日のうちに手なずけることができた。
私もミャンマー国境から馬庫村まで、たまたま同じタイミングで進んでいた隊商の犬と仲良くなり、何時間もいっしょに歩いた。犬というのは不思議な動物で、心が通うような気がするのだ。もっとも、道を間違えてぬかるんだ道に苦渋していると、犬は憐みの視線をこちらに送って隊商のほうへ去って行った。そちらを警護するのが本職だったのだ。
サルウィン川に達するのは茨磨iツク)を出てから九日目のことだった。Tionra村(現在の地名は不明)は怒族(ルズ
Loutse. Melam or Anoog)の村だった。怒族に関し、エミール・ルーは「北のツァワロン人(チベット族)、南のリス族という強大な民族にはさまれ、彼らはいずれ滅亡するか移民することになるだろう」とありがたくない予言を残している。またルーは怒族が小柄であることに注目している。「Tionra村にも小人の女が二、三人いた」と述べている。探検隊が身体検査をしたところ、平均身長は(男女を問わずということだろうか)156センチにすぎなかったという。一方ある怒族の老人は120歳という高齢ながらいまも狩猟に出ているという。ピグミー伝説(ミャンマーのタロン族の項参照)や長寿村伝説が生まれそうな気配もあったのだが、現在のところそのような伝説は聞いたことがない。
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