ケサルの地獄、目連の地獄 宮本神酒男
目連伝説はインド、西域にも広がっていたが、餓鬼道に堕ちた母を救済するという地獄救母譚は中国にのみ存在する。そもそも基点となった『仏説盂蘭盆経』は、孝道を説くために中国で作られた経典、つまり偽経ではないかと疑われてきた。(註3)
目連以外にも地獄救母譚を見つけることができる。やはり偽経とされる『仏説地蔵菩薩本願経』でも、地蔵菩薩の過去世である婆羅門女が地獄に堕ちた母を救う。(註4) ただ目連にしろ、地蔵菩薩にしろ、中国的な色合いに濃く染まっているといえるだろう。
しかし、チベットで吟唱(正確には説唱)されてきた厖大なケサル王物語のなかに、地獄に堕ちた母を救済する話が含まれているとなると、地獄救母を中国的と断定するわけにはいかなくなる。
地獄へ妻を救いに行く、あるいは会いに行くというモティーフとしては、まっさきにオルフェウス神話やイザナギ・イザナミ神話が思い浮かぶ。あとで述べるように、ケサル王物語には地獄救母譚とともに地獄救妻譚も含まれることに留意しておきたい。
妻や母以外の者を救済する冥界譚もいくつか例を挙げることができる。R・A・スタンが紹介するベンガルとモンゴルの3つの冥界譚を引用しよう。(註5)
ゴラクナート(註6)は師ミーナナート(註7)を助けるべく地獄へ下り、ヤマ(閻魔)を脅かして死者名簿を出させた。そのなかから師の名前を消し、さらにヤマに警告を発して地獄を去った。
ゴラクナートはマヤナーマティ夫人の懇願に応じて亡き夫の国王の霊魂を奪回した。いっぽう夫人自身は不老長生を獲得することができた。(以上ダスグプタ 1946)
モンゴルの頓智ラマ、バリンセンゲは冥界王アーリク・ハーンをうまく騙して服と玉座を自分のものと交換した。これでバリンセンゲはアーリク・ハーンになりすまし、ひとりの娘を助け出すことができた。さらにその娘を利用して地獄の監獄にアーリク・ハーンを閉じ込めた。(ポターニン 1889)
目連の地獄救母とケサルの地獄救母は偶然とは言い難いほどよく似ている。それでは実際、前者が後者に(あるいは後者が前者に)影響を及ぼした可能性はあるのだろうか。吐蕃が一時期支配していた敦煌の石窟から目連変文が見つかったことからも推測されるように、吐蕃と唐、つまりチベットと中国は、文化・宗教面において接点が多かった。北宗禅(内容的には南宗禅の頓悟)(註8)がチベット仏教、とりわけニンマ派のゾクチェン思想に影響を与えていることは、しばしば指摘されてきた。(註9)
具体的に目連とケサルはなぜ、そしてどのように地獄へ母を救いに行くことになったのか。また地獄の内容に違いはあるのか。
以下、目連地獄救母(『仏説盂蘭盆経』や敦煌変文、宝巻、目連戯など)とケサル地獄救母の比較考察を試みたい。
目連の地獄救母
後世、おびただしい数にのぼる、目連地獄救母の変文、宝巻、戯曲等のもととなるのは、『仏説盂蘭盆経』のほか、『宗密仏説盂蘭盆経疏解』『選集百縁経・巻五優多羅母堕餓鬼縁』『地蔵菩薩本願経・刀利天神通品』『根本説一切有部・毘奈耶薬事巻四』などである。(註10)
このうち根本テクストと呼べるのは、漢文でわずか800字余りの西晋・竺法護(註11)訳『仏説盂蘭盆経』である。(以下、要約)
大目乾連は六通を得たので父母を救済して育ての恩に報いたいと思った。しかし超人的な眼力で見ると、亡母は餓鬼道に生まれ変わり、飲食もできず、骨と皮ばかりになっていた。目連(大目乾連)は餓鬼道に行き、飯の鉢を差し上げたが、口に入る前に飯は火や炭と化した。目連は嘆き悲しみ、仏に訴えた。
仏は言われた。「汝の母は根深い罪を犯した。汝じとりの力ではどうしようもない。十方世界すべての僧の威力・神通力をもってすれば解脱できるだろう。7月15日、安居を終えたときに、七世代の父母、現在の父母のために飯、百味・五果、盆器、香油、灯油、ろうそく、敷物、寝具など世の甘美を尽くして十方の徳ある僧たちを供養しなさい。そうすれば六親等までの親族たちは三途の苦しみをのがれて解脱し、自然の生き方ができるだろう」
そのとき目連及び集まっていた大菩薩たちはみなおおいに喜んだ。目連の母もただちに餓鬼の苦しみから抜け出すことができた。
現代のわれわれの目から見れば、仏陀がこれほど孝道にこだわり、僧への供養を主張するのは奇異なことに思えるが、ひとたび経典として社会に受け入れられると、仏説である以上、異を唱えることはできなかった。偽経説が有力ではあるが、真偽にかかわらず、後代に甚大な影響をもたらしたのはたしかだ。現在に至っても、盆の習俗が我が国に生きていることを思えば、『仏説盂蘭盆経』の存在がいかに大きなものであったかが、推し量れるだろう。(註12)
しかしこの短い経文は謎だらけだ。目連の母はいったいどんな罪を犯したというのだろうか。根深い罪とは、供養を怠ったことなのか、戒を破ったことなのか。それに目連の母はどうやって餓鬼道から脱することができたのか。仏陀に言われたとおり、目連は徳ある僧たちを供養したのだろうか。こうした説明の不十分さやあいまいさが、かえって創作意欲をかきたて、想像を膨らませ、のちの変文や宝巻を生み出す原動力になったといえるだろう。
変文とは、仏教故事を(次第に民間伝説が加わる)大衆向けにわかりやすく唄った唱導文芸の発展形である。変文中、目連をモティーフとしたものがもっとも多い。(註13) 敦煌莫高窟から発見された目連救母変文『大目乾連冥間救母変文写巻』(註14)を読むと、シンプルな『仏説盂蘭盆経』がいかに変貌したか一目瞭然である。(以下、要約)
目連の母青提夫人は裕福だったが、慳貪で殺生を好んだ。夫の死後、子の羅卜と生活を送っていた。羅卜は善良で、貧しき者を助け、三宝を敬った。
羅卜は商売のため遠出した。しかし留守の間、青提夫人は家畜を殺して食った。僧侶が托鉢に来れば下僕に命じて追い払い、年老いた乞食が来れば犬をけしかけた。
羅卜は旅から戻ってきて隣人から母の行いについて聞いた。しかし母は、もし自分が誤っているなら死んで阿鼻地獄に堕ちるでしょうと、泪ながらに語った。
青提夫人の誓いは冥界の知るところとなり、七日以内に夫人は死に、阿鼻地獄に堕ちた。羅卜は深く悲しみ、三年の喪に服した。そして熟慮のすえ出家を決め、鹿野苑の如来のもとに身を投じた。如来は羅卜の人柄を見て目連という号を賜った。目連は深山にこもって修を重ね、仏門弟子中神通第一と呼ばれるようになった。
神通で天へ赴くと、亡父がそこにいて、「わたしは十善五戒を修したので死後天上へ行けたが、おまえの母は生前犯した罪によって地獄に堕ちた」という。
目連は冥界に入り、閻羅大王に会った。目連の孝心に感動した大王は役人を集めて青提夫人のことを聞いたが、手掛かりは得れなかった。
いよいよ地獄めぐりがはじまる。まずは刀山剣樹地獄。つぎには銅柱鉄床地獄。
目連は阿鼻地獄の目前に達し、十二環錫杖を叩いて開いた地獄門から中に入ると、眼をくりぬかれる者、腰を折られる者、頭蓋を砕かれる者……凄惨極まる光景が広がっていた。第一隔から順に探し、第七隔で鉄床の長釘の上に横たわる青提夫人を探し当てた。
目連と母青提夫人は母子の絆を確かめ合う。しかし青提夫人の罪は深く、如来の大慈悲によって地獄から救出することができなかった。目連は飯を奉じたが、青提夫人が口に入れる前に飯は炎に、水は濃い血と化した。
目連は世尊に7月15日の盂蘭盆の作法を授かった。その功徳によって、青提夫人は餓鬼道を脱し、畜生道に転じて黒犬となった。
目連は王舎城のある長者の家の前で黒犬を発見した。目連は黒犬を連れて仏塔の前で七天七夜、大乗経典を読み上げたところ、黒犬は獣皮を脱いで女人の姿をあらわした。のち天女がやってきて、目連の母は刀利天に往生した。
唐末、五代頃までには、変文の目連救母譚はとくに地獄めぐりの場面を充実させていたので、演劇に取り入れられるのは当然の成り行きだった。『東京夢華録』(註15)からも、北宋時代には目連戯がさかんに行われていたことがわかる。7月8日から15日までの八日間、連続して上演された。その後、元代の目連救母雑劇、明代の目連入冥雑劇へと受け継がれていく。(註16) 演劇においては地獄の凄惨な場面を表現するのはむつかしく、魯迅や周作人などの論評を見ると、ヴィジュアル面ではむしろ吊死鬼(女吊)と活無常のインパクトが強かったことがわかる。(註17)
変文から発展したものとして明清代の宝巻がある。なかでも広く流布し、演唱されたのが『目連三世宝巻』だった。圧巻なのは、結末で目連は鉄囲城の獄門を壊し、母を救い出すが、そのとき八百万の亡魂もどさくさに紛れて脱走する場面だ。目連は地蔵王菩薩の命により転生して黄宗旦の一子、すなわち黄巣となる。唐末の黄巣の乱の首謀者は、こうして八百万の人を殺して亡魂を連れ戻すのだ。「出黄巣」のモティーフはかなりヒットし、宝巻だけでなく、紹興目連戯の結びのエピソードとしても使われる。徐斯年によれば、「毒をもって毒を制す」という民間の考え方に基づくようで、目連の生まれ変わり黄巣は駆鬼鎮邪の使者なのだそうだ。(註18)
ここで注目したいのは、ケサル地獄救妻、救母ともに亡魂がいっせいに地獄を脱出する場面があることだ。ただし亡魂の行先は陽間でなく浄土なのだが。詳しくはまたあとで触れたい。
ケサル王物語
目連と地獄がセットになり、その目連地獄救母譚が変文・宝巻、戯劇といった入れ物によって形を変えるのにたいし、ケサル物語はドゥンパ(sgrung-pa)(註19)と呼ばれる吟遊叙事詩人が歌う(説唱する)厖大な叙事詩であり、地獄救母譚はその末尾のほんの1章にすぎない。しかもすべてのドゥンパがレパートリーを持っているわけではない。一説には、地獄篇をうたうのはドゥンパが死期を悟ったときだという。青海省玉樹(ジェクンド)の大ドゥンパ、ガルは地獄篇を歌い終わってからこの世を去ったといわれる。
現存するドゥンパの数は、中国内のチベット族、モンゴル族、土族が分布する地域におそらく150人くらいと推測される。(註20) ラダックやバルチスタン、モンゴルをあわせても200人には達しないだろう。*現在、この人数よりはるかに多いと思われる。
楊恩洪氏はドゥンパを5つに分類する。夢の中で物語を授かるシャーマン的な「神授型」。演唱するのを聞いたり本を読むなどして自らドゥンパとなった「聞知型」。岩の中や意識の中から物語を発掘する「掘蔵型」。専門の歌い手である「吟唱型」。占い師を兼ね、銅鏡に映る物語を吟じる「円光型」。
物語そのものはあまりにも膨大で、分類法もまた千差万別といっていい。楊恩洪氏は289部の物語を収集したと述べているが、それも文字化されたものにすぎない。(*これは録音されたものが大半なので、収集段階では文字化されていない) しかも一部だけで長編小説なみの(演唱するのに数時間を要する)分量を持っているのである。
さまざまなタイプの語り部がいるにもかかわらず、その骨となるものはだいたい一致している。地上に妖魔が横行し、災いに満ちているのを見かねた観音菩薩は衆生を救うため、白梵天と相談して天神の子を降臨させる。リン国の国王の私生児としてジョル(のちのケサル)が生まれる。競馬で皇子たちに勝って報償の王座を獲得したケサルは、四魔国(魔国、ホル国、ジャン国、モン国)(註21)を倒し、さらに18大ゾン(註22)と戦い、その名を世界に轟かせる。
物語のプロットは、つぎのように図示できる。
天界・降臨
↓
戦争……四囲の魔国と戦う
18大ゾンと戦う
↓
地獄・帰天 *より詳しくは「4大エピソードと18遠征」へ
天界、地上の英雄であるケサルは、残る地獄でも英雄でなければならなかった。しかし生涯の最終章を迎えようとしているケサルにとっては、地獄を見ることは、戦争につぐ戦争で殺生を重ねてしまった身の汚れの禊をすることでもあった。
ケサルの地獄救妻と地獄救母
妻のひとり、アタラモはもともと魔国の妖魔の妹であり、妖魔が鎮圧されるときケサルの愛妃となった。(正確には、妖魔を倒す前にケサルはアタラモと恋仲になり、その協力を得て戦った。しかしそのあと、媚薬をケサルに飲ませ、ケサルは9年間も魔城に滞在し、その間にホル軍がリン国に攻め、正妻のドゥクモはホルのクルカル王に連れ去られてしまう)
その悪魔の血をもつアタラモが地獄に堕ちてしまう。ドゥクモは不貞(ホル王と結婚し、子をもうける)を働いたとはいえ、白いターラー女神の化身といわれるので、つまり神の種族に属するので、おいそれとは地獄に堕ちない。しかもケサルには13人の妃がいたとはいえ、チベットの庶民の間では一妻多夫制が一般的であり、複数の男性と関係を持つことには比較的抵抗が少なかった。一方のアタラモは悪魔の種族の血が流れているうえ、殺戮の罪も犯しているので、地獄に堕ちざるをえない。
地獄救妻の要旨は以下の通り。(註23)
ケサルは3か月ぶりにリン国に戻ってくると、妻アタラモが病気で没していた。
アタラモの魂は死後49日たって、閻羅王(シンジェ・ギャルポ)の面前に引き出された。閻羅王アタラモに向って、一般の女とちがい、血肉の匂いがし、罪悪の影が感じられると指摘した。対するアタラモは、樹分は財産を喜捨し、橋を修理し、経幡をたくさん立てるなど功徳を積んだと主張し、空行母(ダーキニー)の化身であることをあきらかにした。
そのときアタラモの右肩に白い小僧が現れて、語った。
「閻羅王さま、わたしはこの女人とおなじ神であります。アタラモは女英雄であり、肉食ダーキニーであり、ケサル王の王妃であります。これまでどれだけの善行を積んできたことか」
つぎに左肩に黒い小僧が現れて、語った。
「わたしはこの女とおなじ魔物であります。この女は9頭妖魔の後裔なのです。3歳にして殺生をはじめ、殺した鳥、畜生、魚……それらの血は大海をなすほどです。さらには地方長官、英雄、兵士、婦女、どれだけの人を殺したでしょう。この悪行の数々、許すわけにはいきますまい」
閻羅王は白い小僧のほうが正しいと思ったが、念のため鏡と秤を持ってこさせて、アタラモの行いを審査することにした。直径は900尺もあり、なかには15の月と太陽があり、そこにアタラモの数々の悪行が映し出されていた。牛頭鬼のもってきた秤によって、アタラモの善悪が18回計られた。計るたび、悪のほうが重かった。
閻羅王は宣告した。
「生前の悪行によってアタラモは等活地獄で500年、阿鼻地獄で900年、畜生地獄で90年過ごさなければならぬ」と言い終わると、900人の鬼卒がやってきてアタラモを地獄へと連れ去った。
ケサルは13天大法を駆使し、神馬に乗って地獄にやってきた。邪魔をする900人の鬼卒を斬って閻羅殿に入った。しかし閻羅王は高圧的に言った。
「われわれは文殊菩薩に閻羅された閻羅王であるぞ。アタラモは刑を受けねば解脱することはできぬ」
そこでケサルはパドマサンバヴァに助けを求めることにした。
蓮華無量宮でパドマサンバヴァは「金剛密乗呪法によって静寂憤怒尊幻化無辺檀場をもうけよ」と言った。ケサルはそのとおりにして、眉間から黄金の黄色日光を放射すると、それは千の仏像になった。のどから赤色火花を放射すると、それは大般若経十万頌旨から白色光芒を掃射すると、千の白銀宝塔となった。
ふたたび訪れたケサルの前に閻羅王は無力だった。そのときアタラモは火炎地獄のなかでうめき苦しんでいた。ケサル王が呪文を唱えると、アタラモをはじめとする18億の亡魂が、解き放たれた鳥のようにいっせいに浄土へ往生した。
アタラモとちがって何の落ち度もない善良な母が地獄に堕ちた。
ケサルの母、ゴクモは悪い夢を見て余命幾許もないことを知る。母を安心させるため、ケサルは歌った。
「子を苦しみながら産んだ母。昼夜分かたず子を抱いた母。そんな母への恩を忘れましょうか」
ケサルはインドに出征している間も長寿聖母呪法を修し、帰国後母に長寿灌頂を施すつもりでいたが、母ゴクモは病死し、しかも地獄に堕ちたのである。
その報を聞いて、ケサルは神馬に乗って冥界にやってきた。ケサルの抗議に対し、閻羅王はこたえる。
「汝の母の行いは善である。しかるに、汝は一生の間あまたの妖魔を倒してきたものの、多くの無辜の民も殺してきた。彼らのなかには、地獄に堕ちた者もいれば、中有にとそまっている者もいる。だが汝は彼らを助けなかった。ゆえに、汝の母が地獄に囚われているのだ」
ケサルは、宝剣を取り出して、閻羅王と五判官(東方金剛仏の化身獅子頭、南方宝生仏の化身猴頭、西方無量光仏の化身熊頭、北方不空成就仏の化身豹頭、中央毘蘆遮那仏の化身牛頭)に斬りかかった。だが毛一本傷つけることができず、かわりにおのれの頭を切った。
ケサルは神の子なので、頭はすぐに復活した。しかし閻羅王と五判官は言った。「地上で大王とはいえ、ここ地獄ではこけおどしは通じぬ」と。それでも母を愛する心があるなら、地獄に行って母を探すといい」と憐みをかけた。
虎頭判官の案内でケサルは地獄めぐりをはじめた。まずは八冷地獄。この地獄は8層あり、一層進むごとに9倍寒くなる。ここでは刀で斬られ、鐘につぶされた人々の叫び声がこだましていた。いたたまれなくなったケサルは諸仏に祈願し、体内の風をあつめて人々に吹き掛け念じると、獄中の魂はすべて浄土へと飛んで行った。つぎに八熱地獄。これも8層あり、1層ごとに9倍熱くなる。つぎに孤独地獄。人々は火中で耕作し、舌を抜き取られている。つぎに血海沸騰地獄。人々は血の海のなかで煮られて皮膚が抜け落ちる。
思わずケサルは嘆願の声をあげる。
「グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)よ、この六道の苦しみをご覧になってください。この鉄囲のなかの衆生を浄土へ送り給え!」
その刹那、地獄の衆生はみな浄土へと往生した。虎頭判官はケサルに言った。
「そなたの母も浄土へ往生された」
目連の地獄譚とケサルの地獄譚の共通する点、しない点を整理してみよう。
○地獄に堕ちた理由
(目母)母の慳貪さ。殺生。僧を邪険に扱った。
(ケ妻)妻の悪行。悪魔の血を引く。
(ケ母)母ではなく、むしろケサルの罪業。
○孝道を重んじるか
(目母)重んじる。祖先崇拝。儒教的。
(ケ妻)ケサルの妻への愛情。夫婦愛。
(ケ母)重んじる。祖先崇拝はなし。
○地獄 三者とも地獄めぐりをする。
(目母)刀山剣樹地獄、銅柱鉄床地獄、阿鼻地獄。
(ケ妻)等活地獄、阿鼻地獄、畜生地獄、鏡と秤は中国的。
(ケ母)八冷地獄、八熱地獄、血海沸騰地獄。
○最上位に君臨するのは
(目母)仏。地蔵菩薩が登場する場合も。
(ケ妻)パドマサンバヴァ。文殊菩薩が閻羅王を任命する。
(ケ母)パドマサンバヴァ。
○往生する先は
(目母)刀利天。
(ケ妻)浄土。
(ケ母)浄土。
○地獄の罪人すべての恩赦。
(目母)一部の戯曲でのみ解放される。黄巣伝説。
(ケ妻)十八億の亡魂が解放される。
(ケ母)解放される。
以上のごとく、目連の地獄とケサルの地獄の間には偶然とは思えない共通点がある。しかし何が中国的で何がインド的(また西域的、チベット的)であるか、判然としないことも多いのも事実である。
たとえば、地獄の罪人が恩赦を受けて往生をとげるのは浄土思想の影響と言えるが、浄土思想が中国的といえるかどうか微妙なのだ。
またモンゴル系のカルムク人のジャンガル詩人は、地獄へ下りていってジャンガル詩を得てくるというように、叙事詩と地獄は密接な関係にある。(註25) その意味でケサル王物語は中央アジア的叙事詩の系譜にあるといえる。
[註]
(1)十大弟子という言い方は維摩詰経からはじまったと思われる。外道の信者だった目連は舎利仏(シャーリプトラ)とともに仏弟子になった。馬書田『華夏諸神・仏教巻』(雲龍出版社) 赤沼智善『印度仏教固有名詞辞典』
(2)●澤田瑞穂『地獄変』(平河出版社)
●浙江省紹興生まれの作家周作人は「談目連戯」というエッセイのなかで、「わが郷には目連戯、あるいは目連救母という民衆劇がある」と愛着をこめて、民衆の間にいかに目連戯がさかんであったかを述べている。
また謝徳躍は「紹興の戯劇」(1937)のなかで「目連戯は横死した人を追悼し、超度するために演じられる」と記している。(施合鄭民俗文化基金会『浙江省目連戯資料編』)
(3)岩本裕『目連伝説と盂蘭盆』(宝蔵館) 岩本説に対し凌翼雲(註13)は反論を試みている。
(4)●澤田(註2)
●劉禎『中国民間目連文化』(巴蜀社)
地蔵三経と呼ばれるのは「地蔵菩薩本願経」「大乗大集地蔵十輪経」「占察善悪業報経」。ほかに「地蔵菩薩本願経注疏」「大方広十輪経」「占察経疏」「占察懺法」「地蔵菩薩請問法身賛」「地蔵発心因縁十王経」「地蔵菩薩像霊験記」「地蔵菩薩陀羅尼」など。
(5)R. A. Stein <Recherches sur L’epopee
et le barde au Tibet>
(6)ゴラクナート(ゴラクシャ)はナート・タントラ派でもっとも知られる成就者。シヴァの汗から、あるいは牛から、あるいは蓮から運れたという。Majupuria <Sadhus & Saints> Godbole <Stories of Indian
saints> Dowman <Masters of mahamudra>
(7)ミーナート(マツェンドラ)はベンガルの元漁師の大成就者。ナート・タントラの祖。
(8)北宗禅=漸悟、南宗禅=頓悟というイメージは後世形成されたもの。陳文新『禅宗的人生哲学』
(9)平松敏雄『ニンマ派と中国禅』
(10)羅宗涛『敦煌変文』
(11)『高僧伝』にも記される月支出身の名僧。
(12)唐代、平安期には日本に伝来していた。
(13)凌翼雲『目連戯与仏教』
(14)羅(註10)
(15)「勾欄の楽人は七夕を過ぐる頃より目連救母雑劇を上演し、十五日に至りてやむ、観る者倍増す」
(16)現在に伝わるものは、『目連資料編目概略』『安徽目連戯資料集』『江蘇高淳目連戯両頭紅台本』『?仙戯目連救母』(以上施合鄭民俗文化基金会)など
(17)『浙江省目連戯資料編』
(18)同上
(19)sgrung-pa
(20)楊恩洪『民間詩神』
(21)リン国周辺の国。
(21)ゾンは地域、国、要塞を表わす。
(23)『dMyal gLing Mun Pa
Rang gSal』
(24)『dMyal gLing rZogs
Pa Chen Po』
(25)スタン(註5)
*この論考は、「中国民話の会通信」(2001年12月)に掲載されたもの。(一部修正)