わが五匹の虎 今までに出会った猫たちの話
ロイド・アレグザンダー
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わたしはもともと猫派ではなかった。家族は犬を飼っていて、いつも数匹の雑種の犬がいた。両親が犬の世話をし、しつけをしていたので、私が犬を飼っていたとはとうていいえないだろうけど、私は犬が大好きだった。はじめて猫を飼うことになったときは、じつはしぶしぶだった。
パリでは――戦争のあとパリで妻と出会った――妻とふたりで小さなアパートの部屋に住んでいて、自分たちの家を持ちたいと思っていた。アメリカに戻ったとき、自分たちの住む場所を見つけることができたのは、住宅がまばらな地域だった。そこはフィラデルフィアの近郊で、急速に住宅が建てられはじめていたが、田舎っぽさはなんとか保っていた。近くには森やクリークがあり、わたしたちの土地も最低限の広さはあった。わたしたちの家はストリートでもっとも古く、見かけもそのとおりだった。踏むと床がたわむこともあった。ドアや窓も天気次第だった、つまり、湿度の高い日は動かず、晴れた日は閉めきることができなかった。しかし芝生や庭はすばらしく、すべてを補ってあまりあった。
最初の春、ジャニーンが家を住めるように整えるあいだ、わたしはペットを探すことになった。当然のことながらわたしは犬を探した。地元の動物保護センターでわたしは生後八か月の子犬を選んだ。「イヤイヤさんバーキス」がこのオス犬につけた名だった。(訳注:ディケンズの小説に登場する結婚したがらないバーキス氏にちなんでつけた名。バーキスは「ほえる」を意味するバークをかけているだろうから、命令されるのをいやがり、キャンキャンほえまくる犬だったのだろう)どんな揺るぎのない愛犬家だって、この子犬の問題児ぶりの前では、サジを投げるしかなかっただろう。
わが家の行儀作法を学習することを拒んでも、わたしは許してやった。本棚から本を引っ張り落として、噛んで装丁をグチャグチャにしても、だ。近所中駆け回ってゴミ箱をあさり、戦利品をわが家に持ち帰っても、だ。わたしは大目に見てやった。買ってやった犬小屋を鼻にもかけず、つながれそうになるとうなり声をあげた。それても、わたしは犬に好きなようにぶらつかせた。犬の散歩は日に日に距離がのびていった。そしてある日、犬はどこかへ走っていき、そのまま帰ってこなかった。
バーキスをうまく飼えなかったことにわたしは心底落胆した。それでもジャニーンに「猫を飼うのはどうかしら」と提案されたとき、わたしは拒絶した。やはりわたしは犬のほうが好きだったのだ。猫を飼う必然性はないように思われた。猫の仕事といっても、わずかばかりのネズミを捕えるのが関の山だ。家を守ってくれることもなければ、主人にスリッパを持ってきてくれるわけでもない。お手やお座りをしたり、死んだふりをしたりはしない。飼い主にとってなんといっても屈辱的なのは、猫を呼んでも、知らん顔されることである。
猫にたいするこういった批判は、まあ、ありふれたものだ。まさにそのとおりだったが、悪いことばかりでもなかった。猫を飼う喜びは、心に直接響くものである。外側ばかり見ていても、それらはわからないものなのだ。