神秘の国チベットの誕生(5)     宮本神酒男 

たとえその名を聞いたことがなくても、
あなたはチベットを通じて古代シャンシュン国を知っている
 

 キュンルン銀城 

 神秘的な風景というだけなら、オーロラの見える極北やアフリカの砂漠、太平洋のサンゴ礁の島々など、この地球上には数えきれないほどあります。しかしチベットが特別なのは、歴史が記されるようになるはるか以前から、人々がこの過酷で美しい大自然と戦い、あるいは融和してきたからです。

 ナムカイ・ノルブ・リンポチェはチベット西部のルトクのガルダの岩画がオーストラリアのアボリジニーの岩画と酷似していることから、4万年前に描かれたものと推測しています。(→ 古代シャンシュンの……) 

 手放しで4万年前説に賛同することはできませんが、3千年前かそれ以前であっても不思議ではありません。この地域には巨石文化の遺跡もたくさん残っていて、ある種の古代文明が栄えていた可能性があります。しかしその場合、文明の担い手が現在のチベット人の祖先といえるかどうかは明確ではありません。

 現在チベットの西部には、おそらく数千かそれ以上の洞窟があります。この洞窟群も数千年前に掘られた可能性があります。通常の人間が登ることができそうにない絶壁の上のほうに百や二百の人工的な洞窟群を目視で確認できます。洞窟住居といえば原始的な古代人の住まいのようですが、実際、どうやって高所に洞窟が掘られたのか、われわれはうまく説明することができないのです。

 これらの洞窟群の分布と古代シャンシュン国のもともとの領域はほぼ一致します。さてシャンシュン人はただ単にこの洞窟群に住んでいたのでしょうか。あきらかに要塞を形成している洞窟群もあります。それ以外にも精神修行をする場所として、つまり瞑想洞窟として広く用いたのでしょうか。そうだとすれば、豊かで奥深い精神文明が築かれていたのかもしれません。

 そしてこの精神体系はのちのボン教(ポン教)につながっているはずです。チベット仏教がインドから来たのにたいし、ボン教はしばしばペルシア起源であるかのように語られることがあります。仏教に対抗するために捏造した偽伝説だと仏教側から批判されることがありますが、仏教到来どころか、ゴータマ・ブッダが生きた時代よりも前に西方の、つまりペルシアの思想がやってきていてもおかしくありません。古代ペルシア人がシャンシュン国の一翼を担っていたかもしれないのですから。(→ 古代チベットとペルシア) 

 チベットの歴史にシャンシュンの名が見える頃には、シャンシュン国は衰亡しつつありました。シャンシュン王リクミャは亡国の国王だったのです。中国の史書にも羊同(ヤントン)という名で記されるようになります。シャンシュンがなぜ羊同と呼ばれるのかははっきりとはわかりませんが、この時代(唐代)には滅亡の一歩手前まで来ていたのです。

 吐蕃(ヤルルン朝チベット)の朝廷においても、最初はシャンシュン国と関係が深いボン教が強い勢力を持っていたのですが、次第に仏教に圧倒されるようになります。とくにチソンデツェン王の時代、すなわちインドからシャーンタラクシタやパドマサンバヴァがやってきた時代、ボン教は存亡の危機に瀕することになります。

 ボン教が見かけだけでなく、その教義も次第に仏教に近づいていったのは、マイノリティーになった宗教が生き残るためには取らざるを得なかった選択なのでしょう。そのため、ボン教の教えは仏教風の隠れ蓑のなかに生きていくことになりました。また仏教の思想のなかに、たとえばゾクチェンの教えのなかにボン教のスピリチュアリティが息づいているというようなことがあるのです。

 チベット仏教のなかでもニンマ派のゾクチェン思想やテルマ(埋蔵宝典)の伝統は異端的ですが、それらはボン教の伝統でもあり、両者は太古の智慧を伝えているという側面があります。チベットが神秘的であるとするなら、こういった神秘的な叡智の伝承法があるからではないでしょうか。


           
     キュンルン銀城の洞窟。人が住んでいたのか、瞑想センターだったのか、あるいは要塞の一部か 


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