(3)シーサンパンナ王国 

 Y君のように美少年のとりこになってシーサンパンナにはまってしまうこともあれば、私のように山を越えてどの村を訪ねても歓待してくれるタイ族のやさしさに感銘を受けてここのファンになることもあるだろう。景洪近郊になじみの村があり、私は暇があればそこに遊びに行っていた。村にはテーラワーダ仏教の寺院があり、ここの若いお坊さんからタイ語(タイ族語)を習った。タイ国の文字よりもミャンマーの文字に近いタイ族の文字も学んだ。しかし93年1月の謎の大ケガの影響もあり(これでいったい何万個の脳細胞が死滅してしまったことだろうか)、残念ながら十分会得できないままタイ族の言語から離れてしまった。

マウンテンバイクに乗って山を越え、未知の村を訪ねることがあった。なじみの村と同様、村にたどりつくと、どこかの家が迎え入れてくれ、まずはお茶(もち米の香りのお茶)とバナナの葉に包んだウイロウのような米菓子や煎りピーナッツでもてなしてくれるのだった。しばらくすると食事が出されることが多かった。タイ族の料理は信じがたいほどおいしかった。おいしさの秘訣はピリ辛の辣醤にあった。一夜の宿を提供されることもあった。私のほうから無理に頼み込むわけでもなかった。これでシーサンパンナ・ファンにならずにいられるだろうか。タイ族の村だけでなく、アイニ族(ハニ族)やラフ族の村に泊まることもあった。彼らはタイ族を見習い、競って客をもてなそうとしているかのようだった。この地域には進んだ精神文化があるように見えた。どうしてだろうか。

 おそらく八百年近くつづいたシーサンパンナ王国の精神的遺産がそう感じさせるのだろう。シーサンパンナ王国、すなわちシップソーンパンナー王国(12の千田の意)は景隴金殿王国(1160-1950)とも呼ばれた東南アジア北東部(ラオス北部と雲南省西双版納州)に長く命脈を保った小さな王国だった。土司制度(地元の王を臣下として認め、皇帝のかわりに治めさせる)を進めていた中国は、シップソーンパンナー国王に車里宣慰司という称号を与えていた。一方西側の帝国主義国家は独立国とみなしていた。

 12世紀中頃この広大な景隴地区を支配していたのはアイランだった。このアイランを破って王位に就いたのが初代国王(チャオ)のバヤチェーンである。バヤチェーンはジンラン(現在の景洪)を都とする景隴金殿王国を建てた。彼は宋朝皇帝から虎頭金印を下賜されている。これをもってシーサンパンナは古くから中国の一部だったと主張されることが多いが、古代日本がそうであったように臣下の礼をとったからといって永遠に領土の一部であったり、属国であったりするはずはないのである。それにもし景隴金殿王国が不可分なる中国の領土の一部というなら、ラオス北部も中国の一部になってしまう。まあ、実際、ブータンの東のインド・アルナーチャルプラデーシュ州は「元チベットの領土である」「チベットは中国の一部である」という論理で中国の領土であると主張している。

 シップソーンパンナー国がいかに強大な国であったかは、バヤチェーンの四人の子が封ぜられた地域でわかる。長男はラーンナー国(タイ北部。ラーンナー王国は1292年成立)、次男はモンチャオ(おそらくチャイトン)、三男はユンジェン(ラオスの首都ビエンチャン)、そして四男がシップソーンパンナー国に封ぜられたのである。たしかにラーンナー王国はタイ・ルー族(シーサンパンナの水タイ族とおなじ)の国であり、チャイトンもラーンナー王国が進出してできた国だった。誇大な伝説にすぎないとは言えないのである。

 八代目国王チャオ・アイの在位(1286-1345)の時期はもっとも変化が激しかった。このとき(1292年)元朝は車里(景洪)に徹里路軍民総官府を設置している。また治世中に大車里と小車里に分裂し、隣国の八百媳婦(ラーンナー王国)から侵略を受けている。八百媳婦の乱の鎮圧には元朝の軍が乗り出したが、収束するまで14年もかかった。ラーンナー王国はこれより元朝の冊封を受けることになる。

 時代が下って35代国王チャオ・ガムルー(刀承恩)在位時の1888年、遮(モンジェ)王子の刀正経が反乱を起こす。内乱は長引き、1911年、ついに滅亡前夜の清朝に出兵を求めた。柯樹勲率いる軍隊は刀正経を捕らえ、殺した。そしてそのまま駐留し、中華民国に替わったあとも駐留をつづけた。この内戦が国を失う原因のひとつになってしまった。

 そして中華人民共和国となった1950年、シーサンパンナは「解放」されることになった。シップソーンパンナー国は北半分が中国の領土となり、南半分はラオスの領土となったのである。末代国王として知られる刀世勲(1928-2017)は再教育を受けて模範的な共産党員になったといわれ、全国政教委員などの要職を歴任してきた。

 80年代から90年代にかけて雲南に留学した外国人留学生にとっては、彼はある種なじみのある存在だった。というのも美貌で知られた息女が雲南大学の外事弁公室に勤めていたからである。噂によれば彼女が「素敵な彼氏」を見つけても、コチコチの共産主義者になった親父がなかなか結婚を許さなかったという。もちろんこれは噂であり、その後どうなったかについても私は知らない。これも風聞にすぎないが、末代国王は「歴史ある国を売った」として悪評が高かった。上述のように内乱が起きたことがそもそも付け入るスキを与えてしまったのである。内輪喧嘩はほどほどにしなければならないという、いい教訓といえるだろう。

 さて話を冒頭に戻すとしよう。なぜシーサンパンナの人々はやさしくて、もてなしをすることを好むのだろうか。それは八百年近くも栄えた国の主体民族だったからである。われわれはよく民度という言葉を使うが、彼らは民度が高いのである。私は若いころその民度に甘えて村から村を巡り歩いたのだ。

*大タイ民族主義ともいうべき考え方がある。タイ諸語を話す人は地球上に1億人以上もいるのだ。タイ(人口7千万人)、ラオス(人口7百万人)の主体民族はタイ語族である。中国内でも、チワン族(1693万人)やトン族(288万人)、プイ族(287万人)、タイ族(126万人)、水族(41万人)、ムーラオ族(21万人)、リ族(15万人)、マオナン族(10万人)など2500万人ものタイ語族(トン・水語族)がいる。またミャンマーのシャン族(200万人)のほか、インドのアーホム族(450万人)、ベトナムのタイー族(150万人)といったタイ語族が分布している。19世紀から20世紀にかけて大タイ民族主義を唱える人たちが現れた。すべてのタイ族が一丸となればたいへん大きな勢力となるのだが、統一しようという動きには結びつかなかった。

                  (宮本神酒男) 

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