(2)青海湖の青はどこまでも青く 

                 宮本神酒男 

 はじめてラサに入る前、私は香港人の若者グループといっしょに青海湖ツアーに参加した。ツアー参加は本意ではないけれど、以前写真で見た(森田勇造さんの美しい写真だ)心が浄化されるような青海湖の強烈なブルーを早くこの目で見たかったのである。マウンテンバイクを畳んで西寧の宿に置いたまま、ツアーのミニバスに乗った。

青海湖は、チベット語でツォ・ングンポ(mtsho sngon po)、モンゴル語でココノール。どちらも「青い湖」を意味する。湖面を見ただれもが「ありえない青色」に圧倒されるので、そうネーミングせざるをえない。ただし古代中国人にとってはそうでなかったようで、『漢書』には鮮水、『旧唐書』には西海とそっけなく記されている。

海抜は3196メートル。高所にあることと、また塩湖であることは、宝石のような青さと関係があるのだろうか。面積は4456平方キロもあり、琵琶湖の6・7倍である。いつの日かマウンテンバイクで一周しようと考えてきたが、外周をまわるだけで一週間以上かかってしまいそうだ。2002年以降、「環青海湖国際公路自転車レース」(青海、甘粛、寧夏にまたがる3500キロの自転車ロードレースで賞金総額は100万ドル)が開かれている。観光地としての整備も進み、次第に神秘性が失われていくのは残念ではあるが、いたしかたないだろう。*青海湖の北東岸近くに核廃棄物が投棄されているという話を聞いたことがあった。今、それらはどうなっているのだろうか。

 湖に到達する前、すべてのツアーバスは日月山でとまる。日月山はチベット語でニンダラ(nyin zla la)というらしいので、これを日本語に置き換えるなら日月峠となる。旧称は赤嶺だという。当時は東屋風の建物がひとつあるきりで、なかに古そうな石碑が立っていた。ガイド(チベット人だと思っていたが、どうやら回教徒のようだった)はこれが中国とチベットの平和の象徴だとか説明している。なぜそんなものがここにあるのだろうか、と疑問に思ったが、そもそもわからないことだらけなので質問を浴びせることはなかった。
 また文成公主がどうのこうのと説明していて、やはり平和がどうとかしゃべっている。文成公主といえば唐の皇女で、たしか吐蕃へ行って国王と結婚したはずだ。こんな政略結婚が平和の象徴になるのだろうか。のちに調べてわかるのは、ソンツェン・ガンポ王にはネパールから来た王妃のほか、吐谷渾(アシャ)やモン、ミニャク、シャンシュンから来た王妃らもいたはずなのだ。たしかに当時の唐は世界的な唐帝国であり、おなじ皇女といってもモノが違うだろう。しかし何十人もいる皇女のひとりにすぎず、捨て駒にすぎなかったともいえるのではなかろうか。そんなことを考えるうちに頭の中がモヤモヤしはじめる。そのモヤモヤはいまだにとれていない。

 この石碑はラサ、長安、唐と吐蕃の国境であるここ赤嶺の三か所に建てられた唐蕃盟会碑のひとつらしい。しかし現存するのはラサの石碑だけというので、これはオリジナルではないということになる。そもそも赤嶺がどうして国境なのだろうか。チベット人がアムドと呼ぶ地域(青海省、甘粛省、四川省にまたがるエリア)の大半が赤嶺の東側なのだ。
 石碑が建てられたのは講和条約が交わされた822年である。チベットに嫁入りした文成公主(
623?-680)や金城公主(698739)の時代も遠くに去り、吐蕃が長安を一時的に占領した763年からも半世紀余りの時間が流れている。この時代になると軌を一にしたかのように唐も吐蕃も急速に衰えていった。

 長い間唐、吐蕃、(今の雲南省あたりの大国)南詔の三国はくっついたり離れたりの関係にあったが、9世紀に入ると南詔の勢いが突出してきていた。そこで南詔に対処するために822年、唐と吐蕃の間に休戦協定が結ばれたのではないだろうか。実際に南詔は829年に成都を襲撃している。こうして歴史を俯瞰すると、この石碑がチベットと中国の和平の象徴ということにはならないだろう。

 文成公主を中国とチベットの和平の象徴にまつりあげるのは、政治的な意図がありそうだ。たしかに文成公主といっしょにやってきた技術者の一団によってさまざまなものがもたらされ、それによってチベット人ははじめて文明を持つことができたという。しかし、たとえば仏教文化ひとつとっても、中国側の貢献を過大評価すべきではないと思う。ヒマラヤ山脈のすぐ向こうには本場の仏教があるのだから。たしかに文成公主がもたらしたジョカン寺(大昭寺。トゥルナンともいうが、それは別名あるいは古名で変幻という意味。ラサ・トゥルナンrasa ’phrul nangすなわち山羊土変幻から来ている)の本尊ジョウォ(12歳の釈迦牟尼)はチベットの心そのものであるが、中国仏教がチベットにはいってきたわけではない。文字にしてもチベットは中国の漢字を導入しようとはせず、トーンミ・サンボータをインドに送ってチベットの文字を創出させているのだ。
*中国仏教はチベットに入ってきていない、というのは言いすぎかもしれない。チベット仏教の宗派のなかでもっとも古いニンマ派は中国仏教の本覚思想に近く、中国禅宗の南伝仏教に親近性が見いだされるのだから。「サムエの論争」においても漸悟(インド仏教)と頓悟(中国仏教)の論争においてはインド仏教が勝利するのだが、ニンマ派自体は頓悟なのだから、実際にインド仏教が勝ったとは断定しがたい。ただし最古の寺院、サムエ寺でおこなわれた論争などは8世紀のことなので、文成公主がもたらした中国仏教の影響が大きかったわけではないだろう。


⇒ *ジョカン寺(ラサ)の起源