山が神である郷 

ネベスキ=ヴォイコヴィツ 
Rene De Nebesky-Wojkowitz 訳:宮本神酒男 

13章 最後の吟遊詩人(ケサル詩人) 

 カリンポン(インド北部)に滞在していた11月のある冷えた日、私は馬に乗って出かけた。そこはチベットへとつながる道である。重い荷を背負った騾馬の長い隊列が、チリンチリンと鈴を鳴らしながらすれ違って行った。背中に荷物を載せ、ぜいぜいと息を切らしながらやってくるチベット人の一団とも出会った。商人もいれば、巡礼者も、乞食もいた。私にとってそれらはすっかり見慣れた風景になっていた。

 しかしそのあと出会った人物はほかの人々とはまったく異なっていた。その老人は擦り切れた羊毛の上着を羽織り、とてつもなく奇妙なかぶりものを頭にのせていたのだ。それは司教の冠のような皮の帽子で、前面には太陽と月のシンボルが、そして鞍や弓矢、盾、槍を表わす装飾が縫い付けられていた。このかぶりものはプロフェッショナルであることを示す目印だった。男はチベットの巡回する芸人だった。村から村へ、遊牧民の野営地から別の野営地へ、伝説的なケサル王の英雄的な活躍の物語を歌いながら巡っていくのである。

 数週間後、私はほかのケサル詩人と出会った。こちらは中年の男で、チャンパ・サンダと名乗った。註1 「神秘の主人である未来仏」といった意味である。チャンパ・サンダはかつて摂政レティン・リンポチェのおかかえ芸人だったという。*註2 若い摂政は音楽が好きで、毎晩チャンパ・サンダは摂政のために、ケサル王物語から数節を歌ってあげなければならなかった。ちなみに彼はいまも、チベットで随一のケサル詩人である。摂政が非業の死を遂げたとき、生命の危険を感じた彼はカリンポンに逃げ出したのである。この私の新しい知り合いはおしゃべり好きで、亡くなった師匠のこととなると、疲れを知らずしゃべりまくった。私と話をしていると、古い記憶が呼び覚まされるようで、話を途中で切って突然摂政が好きだったケサルの一節を歌い出すこともあった。

 この古代から伝わるサーガの起源は、遊牧民が住むチベット北東部のようである。そこから雪国(チベット)のほかの地域に広がっただけでなく、隣接する他国の人々のあいだにまで伝播した。レプチャ族の竹の家のなかと同様、モンゴル人のテントのなかでもケサル物語はよく知られているのだ。中国西部の人々もケサル王物語を彼らの言葉で歌うのだという。

 しかしこの物語はエンドレスといってもいいほど長く、歌い終えるのに数日もかかることがあった。それはチベットがアジアでもっとも大きな国のひとつであった時代の記憶を反映しているかもしれない。いまではとうてい信じがたいことではあるが、9世紀、チベットの軍隊は中国のかなりの部分を征服し、彼らが皇位に就くことさえ認めさせたのである。そして東トルキスタンやネパールもチベットの支配下に置かれたのだ。

 チベット人はどうやらこういったことを忘れてしまったようだ。かろうじて古老が古い物語を歌って聞かせ、雪国の黄金時代を蘇らせるのが関の山である。

 ケサル誕生の語りから歌をはじめるのは、昔からの習慣だった。ケサルの父は天空神のディアドシン(双神?)であり、母はギンサ・ラモという名の地上の女だった。彼女は将来のリン国の英雄王を産んだとき、チベットの山々を放浪していた。こうした理由からケサルはのち、そのフルネームがリンのケサルとして知られることになる。当時のリンの地は、魔王タムパ・ラグリンに貢納しなければならなかった。そしてケサルが生まれたすぐあと、悪魔は税を集めるため、人間の形をとった。リンの首領は若いケサルを悪魔に捧げることにした。母の嘆きにもかかわらず、この人身御供は実行された。しかし神々はケサルに超常的な力を与えていた。悪魔は犠牲者を飲み込んだが、ケサルは食道にひっかかり、妖怪は窒息して死んでしまった。

 これはケサルの人生において数えきれないほど行った英雄的行為の最初だった。彼は8人の信頼できる仲間とともに中央アジアの敵対的な高原をさまよい、全能の馬に乗り、悪魔や専制君主に抑圧された人々を見るたびにそこへ行って戦い、勝利をおさめた。しかし彼はいつも戦いのあと愛するリンの地へ戻った。彼にたいして感謝の気持ちでいっぱいの住民たちは、ついには彼を王位に就け、美しい王妃のドゥクモを妻として与えた。

 若い夫婦の幸福は突然終わりを告げる。北方平原の大魔王に対し、戦うよう神からケサルに命令が下されたのだ。伝説によると、ケサルと軍隊は敵の陣営を捉えた。しかしテントは空だった。魔王は狩猟のために外に出ていたのだ。

ケサルはテントのなかに敵の妻であるメサ・ブムキを見つける。若くてハンサムな王は魔王の妻の心を捉え、味方につけることに成功した。新しい同志はケサルを隠した。夜、狩猟から帰ってきた魔王は、隠れていた部屋の隅から飛び出してきたケサルに切り殺されてしまう。

 メサは勝利者であるケサルにそこに残ってほしかったので、媚薬をそっと酒に入れてケサルに飲ませた。その媚薬を飲むと、過去をすべて忘れてしまうのである。その結果ケサルは何年も女王の城にとどまることになった。

 一方、ホルの国の王グルカルは花嫁を探していた。国王の嫁探しを手伝っていたのは一羽のカラスである。カラスは近隣諸国の宮殿から宮殿へと飛んで、花嫁候補を吟味した。カラスはホルの宮殿に戻ってきて、数ある高貴な候補のなかでも、ケサルの妻ドゥクモがもっとも美しいと報告した。

「ドゥクモさまが立ち上がると、その美しさははためく旗のようであり、坐るとその美しさは色とりどりのテントのようです」

 グルカル王はケサルが長い間不在であることを聞き、リン国を攻めてドゥクモをさらうことに決めた。ケサルがリン国に残した軍隊は弱く、ホル国の侵略の前になすすべがなく敗れた。勝利者は泣きじゃくるドゥクモをホル国の宮殿に連れていった。

しかし捕らわれの身となった王妃は、なんとか夫にそのことを知らせようと、鳥を送った。鳥の知らせを受けた英雄王はようやくすべてを思い出すことができた。すぐに行動を起こそうと、ケサルは魔法の弓をとり、ホル国の方向へ矢を放った。矢は弧を描いて王室専用テント近くの岩に深く突き刺さった。何百人もの職人がそれを抜こうとしたり、のこぎりで柄を切ろうとしたが、うまくいかなかった。王と家臣たちはだれの仕業だろうかと驚いた。捕らわれの王妃だけが、射手が遠く離れた夫であることに気づいていた。彼女はすぐにでも救出されることを望んだのだが、だれも救いに来なかった。というのも、彼女のライバルであるメサ・ブムキが忘却の薬をケサルに飲ませ、出発させないようにしていたからだ。

 ついにケサルの全知の馬が英雄王にその役割を思い起こさせた。彼はリン国に戻り、軍を率いてホル国へ向かって進軍を開始した。敵の力強い軍隊を目前にしたところで、彼は神からの命令を受けた。軍をリン国へ引き返させ、ケサルひとりで攻めよと神は命じたのである。

 彼が進む道には数えきれないほどの障害があった。森に入ると行く手をはばむように木々が盛り上がり、堅固な壁を築いた。ケサルの前に7人の美しい乙女が現れ、彼をたぶらかそうとしたが、彼らの正体は妖魔だった。また巨大な岩と岩のあいまに滑り落ちて、危うくつぶされそうになったこともあった。

 ホルの国王は、ケサルとの会談が何よりも必要だと考えた。彼の夢を大臣のシェムパが解釈したところ、ケサルはすでに都に迫っているとのことだった。しかし警告は何の役にも立たなかった。扮装をしてやすやすと鉄の鎖を越え侵入したケサルは、わずか一撃で国王を倒したのである。

 それからドゥクモとともにケサルはリン国に戻り、何年も平和に暮らした。そしてよく王国を治めたので、周辺のどの国よりも豊かになった。

 平和の時代は長くは続かなかった。神の命令を受け取り、リン国の東隣のジャン国を攻めなければならなかったのだ。ジャン国の王サタムは邪悪な国王だった。最初の戦いのあと、またも神は軍をリン国に帰し、ひとりで立ち向かい、魔術の力を用いてサタム王を殺すよう命じた。

 一方敵の王は宮廷の人々総出で妖精が棲むという湖岸に行き、宗教儀礼をおこなった。そこで王サタムはケサルと出くわした。すぐさま彼は鉄の蝿に変身し、王サタムの体の中に入り、殺したのである。

 4番目の戦争としてケサルは南方のモン国と戦い、勝利を手にした。また西方のタシク国も滅ぼした。

 何世紀ものあいだに、仏教の信仰はチベット人のメンタリティを変えてきた。いまや雪国(チベット)において、僧侶の数は兵士よりはるかに多くなった。チベットがチベット帝国であり、チベットの軍隊がインド平原の奥深くまで攻め入った時代があったことはすっかり忘れ去られてしまっている。それでも、ケサル詩人がケサル王英雄物語を歌いはじめると、チベットの人々の目はらんらんと輝き、もっとも貧しくて素朴な人々でさえ何時間にもわたって、耳を傾けるのである。 (1956年)


*註1 チャンパ・サンダ 
 チャンパ・サンダはスタンがカリンポンで会ったJampal Sangdagと同一人物。

*註2 レティン・リンポチェ 
 第5世レティン・リンポチェ、トゥブテン・ジャンペル・イェシェ・ギャルツェン(19111947)のこと。摂政として、現在のダライラマ14世選定の責任者を務めたことで知られる。親中派であり、その俗な性格も非難を浴び、反中派の突き上げもあって1941年に職を辞し、清廉な僧であるタクタ・リンポチェにその座を譲った。1947年、ラサの獄中で死亡するが、毒殺されたと多くの人は考えている。20年前、中央チベットのレティン寺をはじめて訪れたとき、徹底的に破壊され、本堂などを除く大半が瓦礫の山と化しているのに驚かされたことがある。当時チベットのすべての寺院が破壊されていたとはいえ、レティン寺のように原形をとどめないほど壊される例はまれだった。それは1930年代から40年代にかけて、摂政を輩出したレティン寺に政治権力が集中していたことから、共産党政府にとって「解放前のチベット」の象徴と映ったからかもしれない。





「とてつもなく奇妙なかぶりもの」をかぶったケサル詩人。チャンパ・サンダかもしれない 


おそらくケサル帽をかぶったときだけプロフェッショナルのケサル詩人になるのだろう