ネヴィット・エルギン小伝
「学ばないことを学べ」 宮本神酒男
ネヴィット・エルギンの珠玉の短編集『現代スーフィーの物語』との出会いは、まったくの偶然によるものだった。
十年以上前、私は13世紀のスーフィー(神秘主義)詩人ルーミーの詩の虜となり、それ以来ルーミーについて書かれた出版物にはできうるかぎり目を通すようになった。スーフィズムが、またスーフィーのなかでも著名なルーミーがどのくらいわが国で知られているかわからないけれど、西欧においては人気が高く、ニューエイジ世代の崇拝アイテムのひとつだった。あらためてアマゾン.comで出版点数を調べると、1586件もヒットするのに驚かされる。出版ブームというより、ルーミー人気はすでに定着しているといえるだろう。⇒註1
ジャラールッディーン・ルーミーは1207年、現在のアフガニスタン北部のバルフに生まれた。モンゴル軍の侵攻を避け、ルーミーの家族は長い流浪の旅に出て、最終的に遠く離れたトルコのコンヤに落ち着いた。ルーミーはコンヤで厖大な神学的著作や詩篇を著し、メウレウィー教団を設立し、1277年に没した。その旋回するダルヴィーシュ(whirling dervishes)のサマー(忘我の境地を追求すること)はスーフィズムの象徴的存在であり、教団によって今日まで伝えられてきた。ルーミーの生涯において、シャムス・タブリーズィーというダルヴィーシュ(修道僧)との出会いと別れはもっとも大きなできごとだった。ルーミーはシャムスのなかに神の愛を見出していた。
ルーミーの詩は中世ペルシア語で書かれているので、そのオリジナルの魅力を直接知ることはできない。私が好きになったルーミーの詩は、米国の詩人コールマン・バークスの翻訳詩だった。彼自身は、ペルシア語を話すことも読むこともできなかった。バークスの詩は難解だが(もとの詩が難解なのだろう)バークスの言葉はとても美しかった。
2009年初頭、アマゾンからバークスの新刊が出るという通知メールを受け取り、ルーミー関連の本だと思って、私は深く考えずにオーダーした。その本が手元に届いたとき、私は迂闊なミスを犯したことに気づき、正直がっかりした。それはバークスの本ではなく、ネヴィット・エルギンという聞いたことのない、しかも写真を見るかぎり老齢の著者の作品集だった。バークスは、はしがきを寄せているだけだったのだ。
とはいえ、せっかく届いたので、私はページをめくってみた。作品を読みはじめると、その不思議な雰囲気に惹かれるようになった。気がついたらいくつもの短編作品を夢中になって読んでいた。現実と幻想のあいまにあるような、なんともいえない味はどこから来るのだろうか。それにエルギンの作品には、表面からはわからないけれど、その背景、あるいは根底になにか深い意味が隠されているようなのだ。
エルギンはルーミーの英訳者だった。彼がルーミーの翻訳を手がけることになったのは、彼自身がスーフィーだったからである。
エルギンの生年月日は公表されていないが、おそらく1930年代前半にトルコで生まれた。1956年、イスタンブールの医学校に通っていたエルギンはスーフィー大師ハサン・ルフティー・シュシュドの指導のもと、イトラック(ホリスティックな自己解放)というスーフィーの教えを学んだ。いや、ハサンによればそれは「学び」ではなく「反・学び」ということなのだが。つまり学ぶのではなく、学ばないことを学ぶというのだ。このように、仏教やヒンドゥー教のタントリズムと似て、スーフィズムにおいても、師から弟子への口伝による継承は根幹的なことだった。
師のハサンがエルギンに読むことを薦めたのが、ルーミーの『ディヴァニ・ケービル』(シャムセ・タブリーズ詩集)だった。エルギンはこの作品から自我の消滅について学んだと思われる。それはルーミーがシャムス・タブリーズィーから学んだことでもあった。のちエルギンは『ディヴァニ・ケービル』を英訳することになる。彼自身はペルシア語ができないので、ゴールピナルリのトルコ語訳からの重訳だった。コールマン・バークスが「はしがき」のなかで述べるところによれば、この22巻の大著の根底には「ファナー(自我を滅し神と合一すること)がバカー(神と生きること)になること」が流れているという。
エルギンはのちカナダに移住し、さらにはアメリカ・カリフォルニアへ移り住んだ。彼は外科医でありながら、スーフィーとしても生きてきた。『現代スーフィーの物語』はいわば彼の精神的自序伝ともいえるものなのだ。
私はたとえば『妙案あり』という作品が好きだ。著者自身と思われる主人公は、町からできるだけ離れた海岸で、自分の死体を捨てようと悪戦苦闘する。しかし捨てたつもりでもなぜか死体は戻ってきて、一からやり直すことになる。読む進めるうちにこの話は深い何かを語ろうというたとえ話にちがいないと気づくようになる。水、風、土、火という四大元素によって死体を処理しようとするところなど、スーフィー思想に影響を与えたギリシア哲学や中世イスラム哲学についても思いをめぐらすことになる。
われわれは自分の死体を背負って生きる存在なのだ
たしかにわれわれは肉体という自分の死体を背負って生きる存在なのだ。肉体というのは、社会的地位や人間関係、習慣、くだらないこだわりといったものすべてをひっくるめて指すのだろう。それを捨てたいと思っても、容易に捨て去ることはできないので、仕方なく妥協して共存していくしかない。
一方、スーフィーは肉体の桎梏という限界を超えて、精神的な絶対的自由を求める探索者なのだ。いかにして自己を消滅し、肉体から解放されるのか。孤独な戦いをつづけるのは、エルギンであり、ルーミーなのである。
エルギンは『ディヴァニ・ケービル』の英訳のほか、ウィル・ジョンソンとの共著で『The
Forbidden Rumi』や『The Rubais of Rumi』などを著した。いずれもルーミーの原詩をあらたに翻訳した珠玉の作品である。またコールマン・バークスの『The
Soul of Rumi』や『The Glance』の英訳者でもある。われわれはこうしてエルギンを通してルーミーを感じることもできるし、ルーミーを通してエルギンを知ることもできるのだ。