ばけ猫オパリナ あるいは九度転生した猫の物語 

ペギー・ベイコン 宮本神酒男訳 

 

第二の生(1765) 

U セリーナおばさんを助ける 

 

 つぎの夜、ジェブが寝室につれていかれると、エレンとフィルが待ちに待った話のつづきがはじまりました。

「亡霊に有利なことはたくさんあります」オパリナは熱をこめて語り始めました。「重力から解放されるのはとても気持ちいいことです。昼間だれからも姿が見えないことは、またすべてのことをスパイできるのはおもしろいことです。夜、人をおどろかすことができるのも楽しみのひとつです」

「あなたはぼくたちをおどろかさなかった」フィルはいいました。

「おどろかしたかったら、おどろかしています。ものすごく勇敢だなんてうぬぼれないでください。あたしには人情があります。力を乱用したりはしないのです。あなたたちが子猫をいじめたり、シーツにくるんだり、ガキっぽくワーワーはやしたてたら、あなたたちをつかまえます。そうしたら一生忘れないような授業を講じましょう」

「そういうことはぜったいしません」エレンはくやしそうに誓いました。

「するべきじゃない。ま、ともかく、話をつづけましょう」

 トッツィーを追い出してから、あたしの楽しみは人間たちを観察することになりました。いやはや、おどろくべきことに、セリーナおばさんの男友だちが注目の的になったのです。

 ハンフリー・ポム・ド・テール卿と呼ばれた男友だちは筋張った体格をした、くちばしのような鼻の元気のいい青年でした。*ポム・ド・テールはジャガイモの意 

 彼は最高級のファッションに身を固めていました。髪にはヘア・パウダーをかけ、上部に金メッキをほどこしたステッキをくるくるまわし、かぎタバコ入れをぎょうぎょうしく見せびらかしてかぎタバコをつまみ、大きな派手なハンカチを口もとにもってきてクシャミをしました。彼は気取って歩いてセリーナおばさんに近づき、たくみな話術を駆使しながらそのたりをとびはねました。彼女は目をしばたたき、扇をパタパタとあおり、はずかしそうにしながらも、それにこたえようとしました。彼女はすっかり再婚する気でいたのです。称号がなんといってもよかったのです。ポム・ド・テール卿夫人。「なんてエレガントなのかしら!」とね。

 ハンフリー卿はしばしばじぶんの由緒ある親族関係や高価な所有物、祖先たちの栄えある業績などについて語りました。ポム・ド・テール家が高貴で歴史のある一族であることをみなに知らせたのです。

 ウィリアム征服王と出会ったノーマン家の男爵が一族の先祖でした。一族のデボンシャーの土地は地上の楽園のようなところだというのです。

「それであなたはここでなにをしているのですか」ベンがぶっきらぼうにたずねました。「コロニーズ(東部13州)からあなたはなにを受け取ったのですか」

「おや、まあ、そうですね。われわれの価値観では、世界を見ることは、紳士の教育の一環だと考えられているのです。旅は世界を広げるのです」と准男爵はたからかにのべました。「昨年はヨーロッパをグラントゥール(大旅行)しました。いまは、地球のもうひとつの半球を見るためにやってきたのです」

 そうしてハンフリー卿はほくそ笑みました。

 アンジェリカとベン、ホーレスは准男爵のことばを用心深く聞いていましたが、セリーナおばさんはことばを真に受けて感動したのです。彼女はこのことを頭にいれました。そしてポム・ド・テール家の者に村の宿ブルーディ・ヘンはふさわしくないと思いました。それで彼女は、ベンとアンジェリカが彼を招待してくれたらどんなにすてきだろうと考えたのです。彼女は誘い水とすべきたくさんのヒントを口にしました。

 村の宿ブルーディ・ヘンは驚くほど部屋が狭い。

「あそこは完璧なほどきれいで十分な宿だ」とベン。

 ブルーディ・ヘンの食事はとてもまずい。 

「料金は適切だし、量が多い」とベン。

「ハンフリー卿はすべてのものにおいて最高級のものになれています。そういう場所だとみじめな気持ちになってしまうのではないかと心配になります」

「セリーナおばさん」とアンジェリカが口をはさみました。「准男爵が世界中を旅しているなら、もっとひどいところにも泊まったことがあるはずです。それにこの地方では、あそこ以上にいい宿などありませんから」

 セリーナおばさんは口をとがらせ、それ以上なにもいいませんでした。

「思うにわたしたち、あの准男爵を招待すべきではないかしら」セリーナおばさんが階段をあがっていくとき、アンジェリカはいいました。「かわいそうなセリーナおばさんはそのことをいいたくてたまらなかったのよ、きっと」

「ぼくたちは彼を拒んだことはないよ」ベンはぶっきらぼうにこたえました。「それだけで十分だろう。彼は毎日ここにきてぶらぶらしている。夕食やお茶、晩餐に招待されるまでぶらついているんだ」

「スポンジみたいなやつですね」とホーレスはいいました。「それにはなにか理由があるんだろうけど」

「もしおまえがおばさんを愛しているなら、あいつを鼓舞してはだめだ」とベンはいいました。「ぼくのことばを覚えておいてくれ。あいつの目当てはカネだ」

「ほんとうにおばさんのことが好きなのかもしれないわ」とアンジェリカはいいました。「おばさんはきれいだし、気立てがいいし、とても若々しいわ」

「たしかにそのとおりだけど、そもそも彼にとっておばさんは年上すぎるだろう。なぜ年齢が倍の女性を選ばねばならないのだ? 逆玉狙いのならず者でなく、彼女は分相応の中年男性と結婚すべきだろう」

 ホーレスとベンの直感は正しかったのです。すべてをお見通しのあたしは真実を知っていました。この新参者の本名はジェレミー・グリーン。以前は王につかえたフェンシングのマスターでした。しかしパトロンの持ち物をちょろまかしてアメリカへ逃げ、新天地では貴族を名乗り、機智をつかって生きてきたのです。セリーナおばさんはこの悪党詐欺師にすっかりだまされてしまっているのです。トランブル家はできるだけ早く彼を追放するべきでした。

 言うはやすく、行うはかたし、です。毎日セリーナおばさんが子猫のように愛らしくなるにしたがい、トランブル家の人々は日々神経質になっていきました。あたしの子猫ちゃんたち、ダフィー、ダニー、ディリーは広い知恵を身につけていきました。悪気のない魔法使いよりもよっぽど知恵をもっていたのです。それはアメリカインディアンの夏でした。日がな一日、セリーナおばさんと求婚者は庭やしげみで、あるいはサマーハウスのなかにすわり、イチャイチャしました。

 子どもたちにはかれらのいつまでもつづく行為がめずらしく、面白かったようです。子どもたちにとってセリーナおばさんと男友だちは奇妙ないきものに映ったことでしょう。ヘンリーとケイトはかれらのものまねをして、弟や妹たちを楽しませました。喜びを爆発させたクランベリーやミニー、つまずきちゃんのはしゃぎ声や嬌声に魅了されたホーレスは意識的に、しかし気をゆるめてしかりつけました。ホーレスはまじめな顔をしていられなくなりました。なぜならヘンリーとケイトがおどろくほどコミカルに演じたからです。ホーレスはかれらの才能がのばせるよう協力をおしみませんでした。

 ホーレスは子どもたちにとって年長の兄のような存在でした。子どもたちはホーレスを崇拝していたのです。彼は学校で教えるようなことだけでなく、ゲームについても教えました。子どもたちが好きだった芝居の演技についても教えました。彼は子どもたちのために芝居の戯曲を書き、衣装のデザインをし、各配役の演技指導をしたのです。やぶの向こうに空き地があり、そこに小さなあずまやが建っていましたが、かれらはそこを舞台として活用しました。また草の生えた土手を観客席として利用したので、ローマ時代の円形劇場のようになりました。夏のあいだ、子どもたちは家族や友人のためにしばしばここでお芝居を上演しました。

 すでに述べたように、夏は終わろうとしていましたが、やや暑い日々がつづいていました。ホーレスは子どもたちがいたずらをしないように、芝居をもうひとつ上演することにしました。彼は寸劇を書きました。この機智あふれる小さな道化芝居では、ヘンリーとケイトに道化師を演じる機会を与え、うっぷん晴らしをさせることにしました。それから彼は全員の配役をきめ、子どもたちにセリフをよく覚えるよういいました。そして芝居を演じるのはつぎの土曜日であると発表しました。

 このホーレスの善意による計画は無に帰してしまいました。

 ホーレスが用事で留守にしていたある午後、散歩をしていたセリーナおばさんと男友だちの准男爵のふたりがやぶのなかを抜けたとき、野外劇場からドッという笑い声やクスクス笑いが聞こえてきたのです。

「あの変わりものの子どもたちがリハーサルをしているのよ」とセリーナおばさんはいいました。「そっとのぞいてみましょう」

「あなたが導くところに私はいくだけです、うるわしきご婦人。あなたのお星さまのような目にわが荷馬車も引っ張られていくのです」と男友だちは慇懃にいいました。洞(うろ)を覆うように生えているツツジのなかに身を隠しながら、かれらは目の前の子どもたちの様子をながめました。

 ヘンリーとケイトは舞台の上で飛び跳ね、ほかの3人の小さな子どもたちは完全に悦に浸って草の上をゴロゴロ転がっていました。

 ケイトは愛想笑いを浮かべ、ひざを折ってお辞儀をし、扇がわりの数枚のニワトリの羽であおぎました。ヘンリーはやたらペコペコし、ぴょんぴょん飛び跳ね、塩入れを振り、タオルで口を覆ってクシャミをしました。

「ハクション、ハクション! 親愛なる目もくらむばかりのご婦人さま。陽気なパルテールで怠惰にすごしましょう。ハクション、ハクション! ヘンハウスでゆらめく時を楽しみましょう」

「あらまあ、いけない人!」とケイトはうきうきとした声をあげました。その目を蠱惑(こわく)的にまばたかせて色目を使い、ニワトリの羽でヘンリーのこぶしを軽くたたきました。

「汝(なんじ)、人から愛されしおばあちゃん! ハクション、ハクション! 願わくは汝の高貴なる奴隷、汝のもっとも信頼のできる、もっともおいしそうなポム・ド・テール(ジャガイモの意)の腕をとってください」

 このときヘンリーはひじをケイトの脇腹に押し込みました。

「あらら」とケイトはそり身になり、子馬のようにはずかしそうにしながら、叫びました。「あなたはわたしの綿毛のような心をもてあそんでいるのね、ひょろ長く、きらめいている金メッキの貴族さん」

 そのときツツジのしげみのほうから「ウオー!」という怒り狂った声がきこえてきました。にせハンフリー卿が羊の群れを襲うオオカミのようにあらわれ、ステッキをふりまわし、子どもたちをこづきながら、右に左にと追い回したのです。*バイロン卿の詩を引用している。 

 数秒後、くぼ地にひとりきりになった彼はじぶんを呪い、じぶんを責め、地団太を踏んだのです。

 セリーナおばさんも屋敷に逃げて、彼女の部屋にもどり、しばらくケガをした幼児のように泣きじゃくっていました。ベンとアンジェリカは彼女の怒った求婚者から嘆きの事情をきき、ヘンリーとケイトを書庫に呼びました。そしてひとりずつきびしくしかりつけ、もてなしについて、また年長者への尊敬や一般的な礼儀について教えました。子どもたちはしかたなくあやまり、夕食抜きでベッドに寝かされました。どの家でもおこなわれている懲罰です。じっさいは、メイドのアニーがひそかにたくさんの食べ物をかれらのために運んだのですけれど。

 その夜ヘンリーとケイトは黒豆スープとバター・コーン・パン、ミルク、ラズベリー・シュラブ、チキン・ポット・パイ、渦巻プディングのシナモンソース添えをとりました。夜を生き生きとすごすためには十分な食べ物が必要だとアニーは考えたのでした。

「それにどうして子どもたちが悪ふざけのために飢え死にしなければならないの」と彼女は不機嫌そうにひとりごとをつぶやきました。「こましゃくれたガキは准男爵じゃないの? どうしようもないバカはあわれな年食ったおばさんのほうじゃないの?」

 セリーナおばさんはかなしくてやりきれず、目を真っ赤にしましたが、甥っ子や姪っ子を許しました。

「あの子たち、悪気(わるぎ)はないのよ。羊の子みたいにはしゃぎまわっているのだから」と彼女はためいきをつきました。「考えもなく、信じこまされているだけなのよ」

 彼女は子どもたちにあやまり、こんなおふざけは二度としないと約束しました。そして茶目っ気のある子どもたちの頭に触れました。

 ハンフリー卿はかたく口を閉ざしていましたが、子どもたちが寝室に去ると、じぶんたちが目撃したのはホーレスが書いた喜劇のリハーサルにちがいないと主張しはじめました。

 ホーレスは無関係だ、ヘンリーとケイトが責任を負っていると言い返しても、無駄でした。このような悪意のある茶番を創案するほど子どもたちがませているはずはないと、ハンフリー卿はいいはったのです。

 じっさい、トランブル家が彼を認めていないこと、裕福な叔母と結婚してほしくないと考えていることを感じ取っていました。劇はふたりに辱めを与えるためにつくられたのであり、セリーナおばさんの目に彼がくわせものであると映るように仕向けたのだと彼は考えました。彼はセリーナおばさんが感化されるのをおそれました。できうるかぎり、徹底的にいきどおった貴族のふりをする必要があると彼は考えました。

 したがって、彼はじぶんを気高く見せるために、横柄で尊大な態度を見せることにしたのです。彼は胸をはげしくたたきながら、ポム・ド・テール家の名誉のために復讐を誓いました。つまり、ホーレスに決闘を申し込んだのです。

 彼はレディたちに小さなお辞儀をし、おおまたで歩いてブルーディ・ヘンへもどっていきました。あとに残された人々は茫然として立ち尽くしていました。

「どうかしてるぞ、ホーレス!」とベンは叫びました。「こんなことで決闘するなんて。ささいな誤解のためにきみは人生をかけるというのかい。子どもたちの悪ふざけをしょいこむことはないだろう。いくらでも手立てはあるはずだ」

「手立てはありません。決闘をしなかったら、私はウソをついているといわれるでしょうから」

 ベンはうなった。「それならぼくは介添人になるしかないな。ハンフリー卿はハンフリー卿で宿のほうから介添人を用意するだろう。いま、あちらに行って準備をしたほうがよさそうだ」

「剣とピストル、どちらになるのでしょうか」とベンの帰りを待っていられないかのようにたずねました。「ピストルを希望します」と言い添えました。ホーレスのピストルの腕前はなかなかのものだったのです。

「ハンフリー卿は剣を選んだんだよ」

「それなら私はもっとトレーニングを積まねばなりません」と語るホーレスの様子は痛々しかったのです。

 ベンは不機嫌になりました。

 事実を知らないトランブル家の人々はホーレスの身を案じました。あなたがたはあたしの感情を想像できるかもしれません。あたしは狼狽したのです! ホーレスは強くて機敏で、剣士としてはとてもすぐれていました。しかし技芸にはうとかったのです。専門のフェンシングの指導者にかなうわけがありません。ホーレスは絶対的な危機に瀕していました。あたしの親友は不利な状況のもとにありました。彼が命を落としはしないかと気が気でなかったのです。

 決闘の場所はトランブル家の敷地内にある小川のかたわらの森の空き地で、時間は翌日の明け方に決まりました。

 夜の間あたしは子猫たちを見守りながら、親友をどうやったら救えるか考えました。いいアイデアはもっていたのですが、それをどうやったら実行できるかわかりませんでした。時間が近づくにしたがい、状況を見たほうがいいと考えるようになりました。そこであたしは急いで小川に行ったのです。

 まだ暗かったのですが、あたしは明るく輝いていました。そのときあたしはジレンマがあることに気づきました。暗闇では、あたしはだれからも見ることができます。しかし日が昇るとあたしは消えてしまうのです! それでは困ってしまう! 

 でもうまいぐあいに小川に霧がかかりました。あたしも霧のような姿をとったのです。枝がパチパチとはじける音と足音が聞こえたとき、あたしは霧に飛び込み、くるくるまわり、じぶん自身を霧によってつつみました。こうしたことをいっきょに同時におこなうことができました。

 ホーレスとベンがまず森のなかの空き地にやってきました。つづいて村の開業医であるドクター・ペイズリーがあらわれました。逆方向からやってきたハンフリー卿はブルーディ・ヘンの客だった介添人をつれて到着しました。

 ドクター・ペイズリーは木の下にすわり、包帯がはいったバッグをかたわらに置きました。介添人たち、ベン、見知らぬ紳士は互いに近寄り、ひそひそ声で話し、それからわきに下がりました。なにも付け加えられることはなく、「ハンフリー卿」とホーレスは数ペースはなれ、フェンシングのポーズをとり、お辞儀をし、それぞれ剣をひいてかまえ、決闘の準備は整いました。

 はじめからホーレスが相手にならないことはわかりきったことでした。いきなりものすごいいきおいで鋼(はがね)がまじわり、カンカンという音が発せられました。准男爵がホーレスを押し込むスピードや野性的な俊敏さのすごいことといったら! これを見たベンの表情はみるみる青ざめていきました。しかしホーレスは相手のすさまじい一撃をかわすと、前に進み出て、相手をじょじょに後方に押しやりました。

 空が明るくなるにしたがい、あたしの姿はぼんやりしていきました。地平線上に赤い筋があらわれました。そしていま、霧のかたまりは分裂しはじめました。それは小川から立ちのぼり、靄(もや)は木々のあいだを漂っていました。つぎの瞬間、日は高く昇り、あたしも光になったかのように消えました。

 ホーレスは押し込められながらも、激しく、絶望的に剣をふりまわしました。顔からは汗が噴き出しています。そしてあたしがしゃしゃり出る、絶好の機会がやってきました。漂う蒸気のスカーフに姿をかえたあたしは小川から立ち昇り、急に向きを変えて彼のほうへ向かい、クモの糸みたいに彼の肩甲骨にからみつきました。

 この「クモの糸」すべてがあたしでした。透きとおった霊体、亡霊のなかの亡霊です。ホーレスの肩の上、耳の横にあたしはじぶんの顔を置きました。そして光のすべてをじぶんの目にあつめて、ジェレミー・グリーンをにらみつけました。

 彼はひどく驚いた様子でした。押し殺したような叫び声をあげ、剣をふることを忘れてしまったほどです。一瞬のすきをついて、ホーレスは彼の腕を剣でさしました。そのとき太陽が姿をあらわしました。あたしは見えなくなりました。介添人たちがあいだに踏み込み、決闘を中断させました。血が流れたのです。決闘はおわりでした。

 ほかの人たちは闘いのほうに集中していたので、「准男爵」があたしの顔を見たことには気づきませんでした。彼が「魔法をかけられた」とぶつぶつ不平をもらしても、それがまともに受け取られることはありませんでした。彼はふらふらしていました。ドクターは彼の腕に包帯を巻きました。ドクターと見知らぬ紳士は彼を宿まで送りました。

「ホーレス、いったいなにがあったんだろうか」とベン。「あいつは手ごわい相手だった。それなのに突然集中力がきれ、取り乱してしまったんだ」

「ぼくは防戦一方でした」と額の汗をぬぐいながら、ホーレスはこたえました。「つぎの一突きで、ぼくのとどめを刺すこともできたんです。たぶん激しく闘いすぎて、力がつきてしまったんじゃないですかね。それにしてもあんなふうに突然倒れてしまうのは奇妙なことです。幸運の女神がほほえんだとしか思えません」

 アンジェリカも、ベンとホーレスが腕を組んで家にもどってくるのを見たとき、喜び、安堵しました。子どもたちもホーレスがハンフリー・ポム・ド・テール卿に勝ったときいて、興奮しました。彼らはヒーローのまわりで踊り、手をたたき、キーキーと声をあげました。やりすぎだと感じた父親にしかりつけられるまで、喜びのダンスは終わりませんでした。

「ばか騒ぎはいい加減にしろ」とベンは叫びました。「ヘンリー、ケイト。ホーレスが決闘をせざるをえなくなったのは、おまえたちのせいだぞ。ハンフリー卿は冷酷な剣の達人だったんだ。ホーレスはあやうく殺されるところだったんだぞ。もしものことがあったら、おまえたちのせいだったんだぞ。反省しているのか」

 ホーレスが無事であったことをだれよりも喜んでいたのは、セリーナおばさんでした。でもじぶんの求婚者が傷を負ってブルーディ・ヘンに横たわっていると考えると、いてもたってもいられなくなりました。

「ああ、なんてことでしょう! たったひとりで痛みにさいなまれているなんて! あのいとしい腕を痛めているなんて!」

「かすり傷程度のケガにすぎないですよ、おばさん。そんなに痛くないはずです」とベンはいいました。「心配するにはおよびません。保証しますよ」

「ああ、なんてことでしょう、いとしい人! どうすればいいのかしら」セリーナおばさんは泣きじゃくりました。

「なにもする必要はないですよ」とベン。彼は准男爵にうんざりしていましたが、セリーナおばさんにたいしても、いい加減にしてくれ、といった気分になっていたのです。

 ハンフリー卿とトランブル家のいさかいとホーレスとの決闘のあと、准男爵がやってきてセリーナおばさんに会うこともできなくなりました。セリーナおばさんが宿を訪ねるのもはばかれました。とはいっても裕福なやもめ狙いをあきらめたわけではなく、ブルーディ・ヘンに逗留しながら情熱的なラブレターを書き続けたのです。それはおつかいの少年によって日に二度おばさんのもとにとどけられました。

 これらのラブレターはそれまでの彼のさまざまなプロポーズよりも、はるかにセリーナおばさんの多感な心を突き動かしたのです。しかしラブレターは誤字だらけで、字はいびつで、ぐじゃぐじゃしていて、とても読みづらいものでした。「英国の貴族がこんな教養の感じられない文字を書くはずがないわ」と彼女は気づきました。でもそれは彼がいつもいっているように、セリーナにたいする「狂おしいまでの愛のため、心がかきみだされているのだわ」と都合よく解釈したのです。

 彼は愛し崇拝する人から離されていることの苦しみと、彼女のために耐え忍んでいるケガと腕の痛みについて書き連ねました。そしてじぶんの貴族の地位および彼女と分かち持つ称号を思い起こさせようとしました。彼はセリーナおばさんなしには生きていけなかったのです。

「身勝手な親族から、どうか逃げてくらさい。あいつらは、あんたをちばりつけようとしているんです。ひとつにあわさったふたつの心をわげようとしているんです。どうかほうぜきと天国のあんたをもってきてくらさい」そして彼はせかします。「駆け落ちしましょう!」

 駆け落ち! なんてロマンチックな響きかしら! セリーナおばさんがは、寝室の窓にはしごがかけられ、月下のもと、ハンフリー・ポム・ド・テール卿の腕にかかえられておりていく光景を思い浮かべました。もちろん宝石をめいっぱいかかえています。それを置いていく愚かな人間はいないでしょう。豪華な服や装飾品がつまった薄板箱も持ち運びます。

「それにガブリエル。ガブリエルだけでなく、メイドも必要だわ。それにトッツィー。獣医のところからあのかわいそうな犬をつれもどさなくちゃ。ああ、でも、しずかな夜のあいだに、こうしたこと、みんなできるかしら?」そうセリーナおばさんは思いました。 

 さらにいろいろな考えが交錯しました。

「ひそかに駆け落ちするなんて! じゃあ親愛なるアンジェリカ、親切なベンやホーレスにどうやって別れをつげるの? もてなしてくれたかれらにどうやって感謝のことばを伝えたらいいの? かわいい子どもたちにお別れのキスをして、使用人たちにチップを渡すことはできないの? そうして礼儀もなしに去るのは、薄情で、恩知らずで、ひどく無作法だわ」

 残念ながらハンフリー卿と駆け落ちするという輝かしいアイデアは実行されることがありませんでした。セリーナおばさんはハンフリー卿と逃げるかわりに使いの少年を送り、辛抱強く待ってくれるようにというメッセージを伝えました。ふたりでボストンにもどったときに結婚できること、またそれほど長く待つことにはならないことがメッセージに含まれていました。そしてガブリエルにはすぐ荷物をまとめ、家族のもとにもどるよう伝えました。

 トランブル家の人々はこのセリーナおばさんの突然の決定におどろきました。家族内で論議がまきおこったのはいうまでもありません。

「ハンフリー卿は手紙でおばさんを困らせていたのよ」とアンジェリカはいいました。「彼とこの家で会えないからといっておばさんが出ていくものかしら」 

「ならず者は海の底にしずみやがれ、だ」とベン。「おばさんが行きたいというのなら、いけばいい。ぼくたちはひどい一か月を過ごすことになったのだからね」

 ほんとうにひどい一か月でした。あたしはトッツィーに殺されたのですから。ホーレスもあやうくジェレミー・グリーンに殺されるところでした。ガブリエルは使用人たちをきらうようになりました。子どもたちもやっかい者になりました。セリーナおばさんはさまざまなトラブルの原因をつくり、トランブル家の平穏をかき乱したのです。

 翌日セリーナおばさんは見事なスピーチとキスとチップでトランブル家に別れを告げました。こうしたことによって、おばさんは駆け落ちする気が失せたのです。彼女は世渡り上手ではなく、むしろかなりつつましやかなほうでした。この上品さこそが彼女を救ったのです。彼女とガブリエルは獣医のもとからトッツィーをつれもどし、それから馬車に乗って北方へ向かいました。

 セリーナおばさんは准男爵がすぐにあとをおってくるものと期待していました。しかしじっさい、ジェレミー・グリーンは彼女からのメッセージを受け取ると、数時間もしないうちに宿を出ていたのです。彼が向かったのは、逆の方向でした。裕福な未亡人のカネはほしかったのですが、さまざまな噂が耳にはいってきたので、これ以上彼女を追うのをあきらめたのでした。ボストンで彼の顔が見られることは二度とありませんでした。

 セリーナおばさんは家にもどったとき、すべてを知ることになります。ボストンの社交界は怒りの声に満ちていたのです。イーグル夫人の娘は、あるナイト爵の夫だったのですが、英国からボストンの母親にあてた手紙のなかで、ポム・ド・テールという名は聞いたことがないと書いていたのです。そんな名の准男爵は存在しないのです。イーグル夫人の娘、レディ・モードは生まれ育った土地を軽蔑し、人をはずかしめるようなことばを添えました。

「植民地の愚鈍な人々は、身分の低い生まれのペテン師やニセ貴族、文無しのごろつきにコロッとだまされるのね」

 ハンフリー卿と酒を飲み、食事をともにし、彼にお金を貸し、敬意をもってもてなした善良な人々は、苦虫をかみつぶしたような顔をしました。彼がへつらったご婦人がた、あるいは彼におもねったご婦人がたは、彼をうらめしく思いました。セリーナおばさんはほかの人とくらべると楽観的にとらえました。失意の涙はたしかに流しましたが、それは限定的なことでした。不幸中のさいわいは、ボストンのゴシップ界が彼女のハンフリー卿との関係を知らなかったことです。彼女はすぐに、本来の元気をとりもどすことができました。

 しばらくしてトランブル家に吉報がとどけられました。セリーナおばさんは再婚したのですが、相手は准男爵ではありませんでした。新しい夫はコネティカットの谷でタバコを育てる年上の陽気な入植者でした。彼はセリーナおばさんがいままで会ったなかで、もっともやさしく、もっともかわいらいレディで、もっともヘンテコな女性だと思いました。彼はおばさんをとてもかわいがり、甘やかし、ともにいるとよく笑いました。かれらはユーモアを忘れず、すえながくしあわせに暮らしました。トランブル家もまたもとの平穏さをとりもどしました。

 


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