ばけ猫オパリナ あるいは九度転生した猫の物語 

ペギー・ベイコン 宮本神酒男訳 

 

第八の生(1932 ペティジョンとクラッカージャック 

 

 つぎの晩、物質世界にあらわれたとき、オパリナは妙にニコニコしていました。

「なにニヤニヤしてるんだい、オパリナ」フィルが問いただしました。

「モンタギュー家のあとにここにやってきたヘンテコな人々のことを思い出していたんです」

「モンタギュー家の人たちには何があったの?」エレンは心配そうにたずねました。

「まあ、いろんなことがありましてね」

 

 モンタギュー家の七人の子どもたちはみな成長し、結婚し、一族はとても大きくなりました。ジャスパーだけが農場にとどまり、ほかの子たちはみなそれぞれほかの地域に引っ越していきました。オースティンとエミリーは長生きしました。かれらは17人のひ孫に恵まれたのです。でもかれらが亡くなったとき、この古いカンバーランドの屋敷には、ひ孫のだれも住んでいませんでした。そのあと何年か空き家になっていたのですが、ミドルクラスの独身女性に売られました。

 ミス・クララ・パンキーはとても上品なかたでした。あたしは好きでしたよ、だって大の猫好きなんですもの。二匹の子猫を飼っていました。ペティジョンとクラッカージャックです。あたしにとってこの二匹は遠い子孫でした。わが美しい娘ダフィーとつながっているんです。あたしの最後の子どもたち、ダフィー、ダウニー、ディリーのこと、覚えているかしら? ほんとにかわいかったわ! ミス・パンキーの子猫たちは、完璧なわが三つ子と比べるべくもないけど、あたしの肉と血を受けついでいるのよ。だからどうしてもこの子たちを守りたいって思うの。

 ミス・クララ・パンキーはお金をかきあつめて、なんとかこの家を買うことができました。でも彼女は家を買えただけで、お金は残りませんでした。最初のプランでは、下宿屋を開いて、生活をやりくりしていくはずでした。この家は、その計画にはぴったりだったのです。寝室がたくさんありましたし、一回にはいくつかの広い部屋、大きな台所、食料貯蔵室、食器洗い場、倉庫、隅には使用人のための間もありました。そこで彼女はひとりのシェフ、助手のコック、皿洗い、四人の下女、三人のウェイトレスを雇い、つぎのような看板をかかげました。

 

   下宿屋パンキー 

   ルーム&ボード(部屋と下宿)

   年中無休 

 

 荒れ野原村にはひとつだけ下宿屋がありました。それは「ブルーディ・ヘン(タマゴ抱きたがりのメンドリ)」という18世紀なかばにもどったかのような、きたなくて、ボロボロの、居心地のわるい、古くからある下宿屋でした。下宿屋パンキーは村人が待ち望んでいたものだったのです。ミス・パンキーはうまくやっていきました。下宿屋の部屋はとても清潔で、雰囲気はとてもよく、食べ物もとてもおいしかったのです。オープンしてすぐに下宿希望の人が押しかけてきました。

 村人はこの屋敷がおばけ屋敷とはみなさなくなっていました。なぜなら、もう何年もあたしの姿が見られなかったからです。エミリー・カンバーランドが大きくなってからあたしの姿を見たものはいませんでした。アンドリューのウサギ、ホミニーはあたしを見ましたが、見た者あつかいはしません。ウサギはうわさを広めることができないからです。下宿屋パンキーのだれもあたしがここにいることに気づきませんでした。あたしはそれでいいと思っているのです。人間は幽霊のことなんか気にしません。あたしは人をこわがらせたいなんて思いませんし、下宿屋に悪評が立つことも望んでいませんでした。その反対です! 下宿屋パンキーには繁盛してもらって、ミス・クララ・パンキーのもとで、二匹の子猫にはしあわせな生活を楽しんでほしかったのです。

 この板張りの部屋は、ご存知のように、屋敷の中心部から切り離されたようなところにあります。ミス・パンキーは子猫たちと彼女自身の専用の部屋にしました。ベッドの横にかごを置き、そこに子猫たちをいれたのです。彼女はここで子猫たちにエサをやりました。子猫たちは日々、ここで行儀よく、ゴムボールを追い、猫じゃらしをつついて遊んだのです。あたし自身が子どもを育てたときから182年の月日が流れました。ペティジョンとクラッカージャックを見たとき、久しぶりに母性本能が戻ってきたように思いました。

 子猫たちはやや早めに親から引き離されたので、ホームシックになりがちでした。はしゃぎまわっているようでも、ときおりどちらかが動くのをやめ、悲しそうな鳴き声を発しました。それはあたしの心をしめつけました。夕方、薄暗くなると、子猫たちは母親に会いたくてたまらなくなるのでした。かれらはかごにこっそりと入り、世間のことを何も知らない赤ん坊のように、ちぢこまって寝ました。

 ある晩、たまたま子猫たちの寝つきがいつもより悪かったので、あたしは輝いて姿をあらわしました。暗くなってすぐには、輝くことができなかったのです。あたしの姿が見えると、子猫たちは驚き、また喜びました。あたしが母親に見えたのでしょう。驚いたことに、かれらは転げながらかごから出てきて、その小さな釣り針のようなツメを引っかけて、この古い赤いイスにはいのぼってきたのです。

 かれらは発光体であるあたしに抱きつこうとしました。あたしはといえば、やさしい霧となって子猫たちを包みこみ、母親らしく耳元で声にならない声をささやきかけました。完璧ではないかもしれないけれど、気分よくなったとは思うの。その証拠に、子猫たちはゴロゴロとのどを鳴らし、ストーンと眠りに落ちていたから。

 そのとき以来、ペティジョンとクラッカージャックは毎晩あたしのやわらかい霧につつまれるようになって、しあわせを感じるようになったの。そのころ、屋敷のこの一角は電気が通じていなかったから、ミス・パンキーが二階に上がってくるときは、ケロシン・ランプを手に持っていました。その明かりはまぶしくて、当然、あたしの姿は見えなくなりました。あたしはベッドの下で丸くなっていたんですけどね。彼女には姿を見られないようにと気をつけました。子猫たちがいつも心地よいあたたかいかごではなく、古い赤いイスの上を好むのを見て、ミス・パンキーは不思議に思ったにちがいありません。

 すべてがうまくいきました。下宿屋パンキーはとても評判がよかったのです。屋敷のおおかたは下宿人でごったがえしていました。ミス・パンキーは豊かになったように思われました。ある日、とても年をとったウィケット夫人という女性がやってきました。夫人はひとりでは生きていけないほどからだが弱ってきたので、じぶんの家を売り、残りの人生をここ下宿屋パンキーですごすことに決めたのです。しかしミス・クララから、すべての部屋がうまっていると告げられたとき、夫人はあわてふためき、ひどくがっかりしました。ミス・パンキーはその様子を見て気の毒に思いました。屋根裏にはひとつ部屋があるのですが、ここは古くボロボロで、貸せるようなしろものではありませんでした。そこでミス・パンキーは老女を追い払うよりは、じぶんが屋根裏部屋に住み、板張りの部屋をミス・ウィケットに貸すことに決めたのです。こうしてミス・パンキーと子猫たちは屋根裏部屋に引っ越し、年老いた夫人がこの部屋に住むことになりました。

 あたしにとってこの決定はとんだ迷惑でした。あたしを頼りにしている子猫たちを、夜、慰められなくなってしまったのですから。玄関や廊下、階段によって隔てられてしまったのです。それにもしあたしがふわふわ漂っているところを下宿人や使用人に見られてしまったと考えてみてください。商売にどれほどの悪影響を与えてしまうでしょう。それにあたしの子孫の子猫たちに屋根裏部屋はふさわしくないのです。日当たりが悪く、風通しもよくありません。遊ぶボロ布も、居心地よいイスもありません。ここは住むにはひどい場所だったのです。

 あたしにはもうひとつ困ったことがありました。老いたウィケットさんは不眠症に悩まされていたのです。夜の半分は起きていて、せわしなかったのです。彼女はベッドから出て、動き回り、窓から外を眺め、コップ一杯の水を睡眠薬といっしょに飲みます。これらはすべて暗闇の中でおこなわれるのです。このあいだ、あたしはベッドの下にいることができませんでした。ベッドの下から光がもれたら、彼女が警戒するにちがいないからです。あたしは跳びあがったまま、なんとか身を隠したので、彼女はあたしのことに気づきませんでした。でもあたしはいつもたっぷりと眠っていたので、こうしたことをつづけるうちにひどく疲れてきました。

 ウィケット老嬢がここに来て一週間とたたないころに、あたしは弱り切って、下に落っこちてしまいました。でも熟睡していたものですから、ウィケットさんがベッドから起きてうろつきはじめたことに気づきませんでした。彼女はすぐにベッドのひだ飾りの下からもれている光を見つけました。そしてすぐにそれが何であるか調べ始めたのです。彼女は腰を曲げてベッドのひだ飾りをあげると、ぐっすり眠っているあたしを発見しました。「きゃっ」鋭い叫び声があがりました。

 彼女の顔が間近にありました。あたしのゴージャスな目で彼女の目を見ると、彼女は声をあげ、それから思い切り叫びました。彼女は後ずさりし、ドアまでダッシュし、ドアをあけはなつと、力の限り悲鳴をあげました。悲鳴は壁にあたりながら廊下のなかを響いて伝わっていきました。

 叫び声を聞いたご婦人方が、部屋着のまま、あるいは髪にカールをつけたまま、懐中電灯をもってあつまってきました。ウィケット夫人の話にはみな驚きました。かれらは懐中電灯でベッドの下を照らしたり、部屋の隅々まで調べたりしましたが、燃える猫は見つかりませんでした。かれらは夫人をなだめ、落ち着かせました。夢でも見たんじゃないかとかれらは考えました。

「悪夢でも見たのよ」

「あたしゃ、起きてたよ」

「ウトウトして、おかしな幻覚を見ることもあるわ」

「ディナーで食べたチキン・ア・ラ・キングがこってりしすぎたのね。あなたは認めたくないかもしれないけれど」

「そんなの食べてないよ! あたしゃ起きてたんだから! いま言っただろう」ウィケット夫人はいらいらしながら言いはりました。

 夢を見たのだと納得させることはできませんでしたが、夫人をベッドに送ることはできました。下宿人の女たちはたがいに目配せし、笑みを交わし、それぞれの部屋に引き上げました。

 下宿屋パンキーにとって幸いなことに、みなが燃える猫の話で盛り上がり、笑い飛ばしてこの件は終わりました。あわれな老いぼれウィケット夫人は頭の中が混乱をきたしてしまったようでした。あたしにとってもこのできごとは、都合がよかったのです。ショックを起こしたウィケット夫人は結局荷物をまとめ、下宿屋を去りました。その後高齢女性用の老人ホームにはいったようです。ミス・パンキーと二匹の猫、ペティジョンとクラッカージャックは、屋根裏部屋から板張りの部屋に戻ってきました。子猫たちとあたしはふたたびいっしょになったのです。

 とはいっても、田舎の下宿屋ですから、落ち着くといった状態になることはなかなかありません。人々は、やってきては去り、ときには部屋を変えてしまいます。下宿人によってはじぶんの部屋に満足せず、となりの部屋を欲することがあるのです。あるとき、ある下宿人は欲しいものを手に入れようとして、大きな騒ぎを起こしました。彼はドクター・ナタニエル・トップルゲイトと言いました。

 トップルゲイト医師は、医学の現場からすでに引退した年老いたやもめで、ミス・パンキーにとっての悩みの種でした。彼は自分勝手で、ほかの下宿人とよくもめごとを起こし、使用人たちをまるでじぶんの奴隷であるかのように扱いました。ドクター・トップルゲイトは何に関しても満足しなかったのです。いつも不満のことばをぶつぶつつぶやいていました。食べ物について不満をのべ、客間の騒音に文句をいい、なんといっても、じぶんの部屋に関してたらたらと苦情をならべたてたのです。

 何週間も彼はもっと大きな部屋をくれるようミス・パンキーに激しく要求しました。でもすべての部屋がふさがっていました。しかし彼女自身の大きな部屋をウィケット夫人に与えていることを知った医師は激怒しました。

「どうしてあとから来た者がこんな特権をもっているのだ?」彼はきびしく要求を口にしました。なぜじぶんでなく、夫人に与えるのか? 

「だって、夫人を落ち込ませたくなかったのよ」とミス・パンキーはこたえました。「夫人はもうすぐ90歳です。あなたよりずっと年上なのですよ」

「そりゃずいぶん年だな! ま、年寄りにはちがいないな」ドクター・トップルゲイトは語気を強め、それまでよりも怒りを大きくしました。ドクターはじぶんの年を隠していました。実際は62だったのですが、じぶんは45歳以上に見えないだろうと思い込んでいました。「だがな、パンキーさん、年は関係ないだろ。わしのほうが先に来たのだ。優先権はこっちにあるぞ! どっかのしわくちゃばばあのために、なぜ押しのけられねばならんのか」

「トップルゲイトさん、あなたはいつでも出て行ってもいいのですよ」ミス・パンキーは冷静にいいました。このお医者さんが消えてしまえばいいのにと思いながら。でもドクター・トップルゲイトはこの下宿屋を出て行くつもりはありませんでした。彼は鼻を鳴らし、きびすを返すと、ゆっくりと部屋に戻っていきました。

 さて、ウィケット夫人が去ったので、ドクターは夫人が出て行った部屋を見たいと思いました。じっさい、部屋を見たことはなかったのです。部屋を見たドクターは、それまで以上にこの部屋に住みたいという思いをつのらせました。そこは住み心地がよく、空間がたっぷりあって、プライバシーが保たれ、古風の板張りもエレガントでした。部屋はとても静かでした。キッチンやダイニングのおしゃべりや騒音も届きませんでした。ドクター・トップルゲイトは、ミス・パンキーがこの部屋に移ってこないよう抵抗しました。彼女はしかたなく子猫たちといっしょに屋根裏部屋に戻りました。 

 ドクター・トップルゲイトは退屈な人間でした。ですからあわれな老いぼれのウィケット夫人とのあいだに起こったようなトラブルはありませんでした。彼は一晩中ぐっすり寝て、規則的にいびきをかきました。ですからいびきが止まったら、あたしはびっくりしてはね起きたでしょう。ドクターに見つかるかもしれないなどと思ったことはありません。ベッドの下でいつも気持ちよく寝ていました。屋根裏部屋のあたしの血をひく子猫たちのことは心配でしたけどね。

 子猫はあっという間に成長します。ドクター・トップルゲイトが板張りの部屋に移ったころには、ペティジョンとクラッカージャックは身をかがめて楽々と階下におりていけるようになりました。こうして子猫たちは幾晩も、下に降りたり、客間に上ったりと冒険しました。そして猫の帰巣本能というのでしょうか、喜ばしいことに、この部屋へのルートを発見し、もどってきたのです。

 部屋のドアはあいていました。子猫たちは部屋にはいると、ベッドの下のあたしを見つけ、いっしょに遊びました。そのときドクターは階下で電気の明かりが足らないことに関してミス・パンキーに文句を言っていました。そしてランプをもって部屋のベッドまでやってきました。ドクターは服を脱ぎ、明かりを消してベッドの上に横になると、すぐにいびきをかきはじめました。最初の夜、子猫たちは発見されませんでした。しかし翌朝、見つかってしまったのです。

 ドクター・トップルゲイトが服を着がえているとき、ベッドの裾の下から子猫が出てきました。子猫たちは何も気にしないふうで、背伸びをし、あくびをしました。彼は子猫たちを部屋からシッシッと追い払いました。でも子猫たちにとってはどうってことありませんでした。ダイニングルームと同様、屋根裏部屋も朝食の時間でした。ミス・パンキーがいつでもあたたかいミルクのはいったお皿を出してくれることを子猫たちは知っていたのです。

 ドクター・トップルゲイトは動物が好きではありませんでした。とくに猫が嫌いだったのです。ですからそのあとの数日間、出て行こうとしないペティジョンとクラッカージャックにたいして激高したのです。

 なつかしい我が家を発見した子猫たちはここにとどまることにしました。一方でドクター・トップルゲイトは子猫を追い出すことにしたのです。彼は部屋にいるときはドアの鍵を閉め、外に出るときはドアを閉めてから出ました。でも賢い子猫たちはうまいぐあいに部屋に入り込んでいました。彼がダイニングルームで朝食をとっているとき、メイドがはいってベッドをととのえます。そのときペティジョンとクラッカージャックも部屋にはいったのです。ドクターが部屋にもどってくると、子猫たちはあちこちでピョンピョン飛び跳ねていました。

 ほめちぎってしまいますね! 子猫たちはまるでトンボのようにあらゆる方向にビュンビュン飛びまわっていたのです。子猫たちは運動神経抜群で、うれしそうにすばやく動いていました。一方のドクターは真逆。彼は鈍重で、すばしっこさのかけらもありませんでした。彼は二匹の子猫をつかまえようと、あたりに体をぶつけてとびまわる虫みたいに、躍起になってよろめいたり、しりもちをついたりしました。ついには息切れしたドクターは、わめきながらミス・パンキーを呼びにいきました。

「おれの部屋からあんたのいまいましい猫どもを追い払え!」ドクターはわめきちらしました。ミス・パンキーはなにをやっていたとしても、手をやすめ、ドクターの機嫌を取る必要がありました。でなければ子猫たちがなにをされるかわからないからです。

 同様に、毎晩食事時になると、メイドが部屋から部屋をまわってベッドカバーをととのえ、シーツを伸ばしました。子猫たちは廊下で作業が終わるのを待ち、メイドがドアをあけると、なかにかけこんだのです。かれらはタンスの下のすきまにもぐりこみました。ここなら見つかりっこありません。あとでドクターは部屋中猫を探し回ったのですが、じぶん以外だれもいないという結論にいたりました。でも子猫たちはいたのです。朝になると子猫たちは背伸びをしながら、そしてあくびであいさつしながら出てきたのです。

 ドクター・トップルゲイトはますます不思議に思うようになり、怒りもおさえられなくなりました。それでも子猫たちを追い出すことができず、あたまがおかしくなってしまいそうでした。猫はすばらしい生きものですが、ドクターは見るだけでうんざりするようになりました。彼はすやすや眠る子猫たちの首根っこをつかみ、客間にもっていってほうり出しました。それを見たあたしの気持ちもおだやかではありませんでした。とはいっても子猫たちにとってはどうでもいいことでした。客間ではゴムボールで遊べたのですから。でもあたしは気分を害しました。怒りが増したあたしは、ちょっとした仕返しをすることにしました。ドクター・トップルゲイトに仕返しをするのです! いつか罰してやろうと考えていたのですが、それまではできませんでした。

 それは秋の日のことでした。夜遅く、突然寒くなったので、ドクターはベッドから出て窓をしめました。そのピシャリという音で、子猫たちは目を覚ましたのです。好奇心でいっぱいのクラッカージャックが見境なくベッドの下から飛び出し、ドクターの足にぶつかってしまいました。

 ドクター・トップルゲイトはののしりながら子猫を思い切り蹴飛ばすと、子猫は部屋のはしまで吹っ飛びました。クラッカージャックはあまりの痛さにニャン!と叫びました。いたたまれなくなったあたしは、子猫を助けるためにすっとんでいったのです。

 あたしのちらちら燃える舌で子猫をペロペロなめてあげました。そして耳元でなぐさめのことばをかけつづけました。また霧の絆創膏(ばんそうこう)で傷口をおさえました。子猫はひざ掛けの上でくつろいでいましたが、よろよろと立ち上がったのを機に、ペティジョンも呼んで、二匹を古い赤いベルベットのイスに導きました。

 こうしているあいだ、あたしはベッドのはしにすわっているドクターのことを気にもとめませんでした。いまや子猫たちはまるくなってすやすやと眠っていたので、あたしは悪役の老人を照らすよう、身にまとった豪勢な光のジャケットを点灯したのです。すると彼はすわったまま、口をあんぐりとあけ、ビリヤードの玉のような目であたしたちを見つめたのです。あたしはしっぽを光らせて振り回し、だれがだれであるかを示すため、瞳孔をふくらませて、光り輝くかぎ爪をまげておどかしました。これは効果があったと思います。なぜなら、一晩じゅう、彼はおなじ姿勢のまま動かなかったのです。あたしは夜が明けるまでにらめつけ、いっぽうの彼は目をあけたままでした。あたしは明るくなるとじょじょに消えていきました。そうするとドクターは、やれやれといったふうに頭を振り、立ち上がりました。

 ドクターはお風呂にはいり、着替えをして、ふらふらしながら朝食のために下の階におりました。朝食を終えたあと、彼はミス・パンキーにもとの部屋にもどりたいと申し出ました。

「でもあの部屋はほかのひとがいるのよ。残念だけど、いまの部屋にいてください」

 ドクターはいまの部屋にもう一晩もいたくないと拒みました。ミス・パンキーが理由をたずねると、彼はもごもごと何かいっています。彼は見たことをしゃべることができませんでした。ウィケット老嬢のように頭がおかしくなったといわれたくなかったからです。電気の光がないと不便でしかたがないから、などとブツブツつぶやきました。

「そのことはあなたが部屋に移る前に警告したでしょう」

「まあ、そうだが。あとでこの部屋が好きでないとわかったんだ。おれはこの部屋にいられんよ」

「だったら出て行ってもらうしかありませんね、ドクター・トップルゲイトさん。空き部屋はありませんから」

 ドクター・トップルゲイトはそのとおりにしたのです! まさにその日、ドクター・ナタニエル・トップルゲイトは荷物をまとめ、あわれなウィケット老嬢とおなじように、出て行きました。使用人や下宿人、ミス・パンキー、ペティジョンとクラッカージャック、それにあたしは、喜んでドクターを見送りました。でもこのことは下宿屋の評判が落ちることを意味したのです。

 たしかに下宿人ふたりが板張りの部屋に短い間いただけで急いで出て行くというのは、奇妙な話でした。村の年老いた人々がかろうじて記憶していたのですが、カンバーランドの屋敷のどこかの部屋に霊が取りついているという伝承がありました。この伝承は人々の口にのぼるようになり、牛乳配達人が下宿屋の女中に話して聞かせました。そうして下宿人全員の耳にこの話がはいったのです。臆病な老夫婦はすぐに出て行くことにしました。年老いたふたりの姉妹は出て、いとこと暮らすことにしました。使用人もみな出て行きたいと思うようになりました。

 ドクターが去ったあと、ミス・パンキーはこの部屋に戻ってきました。噂はばかげた迷信のようなものだと意に介しませんでした。彼女はこの板張りの部屋で何日もすごしましたが、おばけを見ることはありませんでした。おばけなどいないと彼女が言っても、使用人や下宿人は恐ろしがりました。噂話はおさまりそうにありませんでした。

 それからルームメイドのひとりがやめました。そのかわりにリリーという名の少女がやとわれました。彼女は町からやってきたので、おばけの出る部屋については聞いたことがありませんでした。ほかのメイドたちはこの件については口をつぐみました。この部屋のことはリリーにまかせたのです。かれらはもうかかわりたくありませんでした。

 夜になり、ルームメイドのひとりが板張りの部屋に通じるドアをさして、リリーに向かって部屋に行き、折りたたみベッドをたたむように言いました。あわてていたものですから、ルームメイドはロウソクの明かりをもっていくようにと言うのを忘れていました。リリーは部屋にはいったとき、壁をさわりながら進んだものの、明かりのスイッチを探し当てることができませんでした。

 あたしと子猫たちは古い赤いイスの上にいました。イスの背がドアのほうに向いていたので、ドアから見ると、皆既日食のように、やわらかい光の暈(かさ)が円形を描いているように見えました。光がどこからやってくるのだろうかとリリーが一歩踏み出したとき、イスの上にあるものがその目にとびこんできました。肺からしぼりだすように叫び声をあげながら、彼女は階下の客間まで走って逃げました。彼女がイスの上のおぞましいもの、おそらく悪魔そのものが炎につつまれているさまを述べると、下宿人たちは夕食をほったらかして、使用人たちも仕事をおっぽりだして、全員が走って逃げだしたのです。朝一番で出て行ったのはリリーでした。彼女は見たおぞましいものが脳裏に焼き付いて、一睡もできませんでした。

 翌朝、早朝の列車で下宿屋パンキーを去ったのはリリーだけではありませんでした。もうひとりのルームメイド、コック次長、ふたりのウェイトレスもいっしょでした。かれらが屋敷を出て行く前、スタッフが朝食の卓についているとき、元気あふれる若者がとびこんできました。彼は地元紙のレポーターで、リリーにインタビューしようと使用人のダイニングルームにはいってきたのです。彼はリリーが話したことを手短にまとめ、翌日発行の新聞にセンセーショナルなレポートをのせました。それは下宿屋パンキーにおぞましい霊がとりついているというものでした。リリーがおおげさに語ったので、あたしはたてがみをもち、火と煙を吐く巨大なケモノということになってしまいました。ドラゴンとサーベルタイガーを足したようなモンスターです。こんなふうに書かれてしまったため、ミス・パンキーはだれひとり納得させることができず、下宿屋の経営はむつかしくなりました。

 下宿屋パンキーは人手不足におちいり、残っている使用人はオーバーワークになってしまいました。疲れ切ったかれらは、ひとり、またひとりと脱落していきました。毎日ひとがいなくなり、荒れ果ててくるようなありさまで、下宿人も減っていきました。シェフも「もう終わりだ」と宣言しました。わずかに残っていた使用人や下宿人もいなくなり、気がついたら屋敷にいるのはミス・パンキーただひとりでした。

 静まり返ったとてつもなく大きな建物のなかに、ひとりきり! たくさんの寝室にも、大食堂にも、廊下にも、だれもいないのです。がらんとした客間も、うつろに響くだけでした。かわいそうなクララ・パンキーはひとりぼっちでした、ペティジョンとクラッカージャック、それにあたしをのぞけば。

 あたしは彼女のなんの慰めにもなりませんでした。おばけ話はまったく信じていなかったのだけど、リリーやウィケット老嬢、それにたぶんドクター・トップルゲイトがなにかをこわがったのはたしかでした。みんながいなくなって、ミス・パンキーははじめて板張りの部屋に寝ることが不安でたまらなくなりました。そこで彼女はその部屋にある自分の持ち物を屋敷の中心部にある寝室に移しました。

 夕暮れ時、彼女は気分転換に、大きなからっぽのキッチンに行きました。そこには作りかけのものはなにもありませんでした。彼女はペティジョンとクラッカージャックを呼び、あまりものを集めてお盆にのせ、また皿にミルクをそそいで出しました。じぶんは紅茶とトーストで我慢しました。そして彼女は客間の窓から暮れなずむ風景をながめました。子猫たちは二階へ駆けあがっていたので、彼女はひとりきりでした。

 雨が降りはじめ、いっそう陰鬱な雰囲気になってきました。彼女はそこにすわったまま、下宿屋が失敗したいま、どうやって生活の糧をかせごうかと考えました。この広大な土地をどう切り盛りしていくのでしょうか。あるいは、売ってしまったほうがいいのでしょうか。でもおばけが出る屋敷をだれが買うでしょうか。

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