折々の  Mikio’s Book Club  

   宮本神酒男 

 

第6回 チベットを騒がす“反ダライラマ”シュクデン問題 
Western Shugden Society『大いなる欺瞞』
(A Great Deception) 

 

シュクデン派はチベット仏教主流派の中の異端だった 

 河口慧海がニンマ派およびパドマサンバヴァを痛烈に批判していたことを知ったとき、頭に浮かんだのはシュクデン派だった。この派は、慧海と同様、ニンマ派に批判的であるだけでなく、恐れ多くもダライラマ法王に反旗を翻す、いわばゲルク派原理主義者というべき人々である。

 シュクデン派は、チベット仏教の外側にある異端ではなく、獅子身中の虫、すなわち内部に潜む異端である。逆説的だが、異端を嫌うあまり、異端になってしまった行き過ぎた正統派ともいえる。彼らが激しく憎悪の刃を向ける対象のひとり、著名なチベット学者のロバート・サーマン(一般的には娘のハリウッド女優ユマ・サーマンのほうが知られているだろう)は、シュクデン派を「チベット仏教のタリバン」と評した。

彼らは純粋なチベット仏教主流派であり、ゲルク派の教えを護持し、他の要素、とくにニンマ派の要素が入ってくることを激しく嫌う。原理主義的な信仰を守るためには手段を厭わないという彼らの姿勢が「タリバン的」だとサーマンは言いたいのだろう。もっとも、実際に彼らがテロ行為を行ってきたかといえば、噂の域を出ないとしか言えない。1997年、ダラムサラで高位の僧侶2名が殺害されたが、これはシュクデン派による犯行とみられている。しかしこれがそうだからといって、歴史上の不審な死がすべてシュクデン派によってもたらされたというのは言い過ぎだろう。


シュクデン派は何を主張しているのか 

 『大いなる欺瞞』はダライラマやチベット亡命政府にたいする罵詈雑言のオンパレードである。彼らの主張からいくつかを書きだしてみよう。

●ダライラマ選定に当ったレティン・ラマのやりかたは間違いだった。間違いによって選ばれたのだから、現在のダライラマ14世は偽ダライラマである。

●ダライラマはイスラム教徒の村に生まれた 

●ダライラマは独裁者である。ゲルク派の守護神であるシュクデンを信奉しただけで、多くの僧侶が自由な活動を奪われた。2008年2月には900人の僧侶がインドのチベット仏教寺院から追放された。

●そのシュクデンをダライラマは悪霊と呼んだ。しかし1959年に中国人民解放軍の攻撃を受けたとき、ダライラマはシュクデンに助けを求めていたのではないか。

●ダライラマはオーム真理教から4年間で200万ドルの献金(布施)を受け取った。そのとき麻原彰晃をブッダのようだとほめたたえている。(この金額はオーストラリアの新聞記事がもとになっている。あまりに多すぎる)

 

ダライラマ14世はイスラム教徒の村に生まれた? 

 このなかで、多くの人が驚くのは、ダライラマ14世が生まれたのはイスラム教徒の村であるという主張だ。

「タクツェル(ダライラマが生まれた村)はムスリムの村である」と『大いなる欺瞞』の著者は述べている。そんなことがありえるだろうか? それが事実でないとしたら、なぜそのようなウソを並べる必要があるのだろうか。

 私(宮本)がタクツェルを訪ねたのは1994年のことだった。取材とか調査とかそんなだいそれたものではなく、たまたま青海省の西寧にいて、「そういえばダライラマ法王が生まれた村はそんなに遠くないはずだ。そこはどんなところだろう。そうだ、行こう!」と軽い気持ちで行ったのである。

 ホテルの前にたくさんのタクシーが客待ちしていたが、ほとんどの運転手がイスラム教徒(回族やサラ族)で、チベット人はいなかった。しかたなく人のよさそうな回族運転手を選び、半日タクシーをチャーターした。タクツェル村が紅崖村と呼ばれているとは、そのときは知らなかったので、運転手にだいたいの場所を説明して、とにかく行ってもらうことにした。

 平安という町を過ぎたあたりで右折する。勘勝負である。未舗装の道を上ってしばらくすると、道は二つに分かれていた。おそらく右の道を進んで山を上って行くべきなのだろうが、確信を持てない。運転手はこちらが目的地の村の名さえ知らないことに気づき、あきれた顔をするが、それでも道を歩いている人を見つけては行き方を聞いてくれた。そのときの質問は「ダライラマの生まれた村に行くにはどの道を行けばいいか」であったはずだ。しかしほとんどの人が「知らない」「わからない」と答えていた。

 正直なところ、タクツェル周辺はチベット人の村ばかりだと思い込んでいたので、近づけば近づくほど、簡単に場所がわかるだろうと考えていた。実際は、運転手が何回も見るからに回族の人たちに道を聞かねばならなかった。なぜならあたりはすべて回族の村だったからである。

 タクツェル村は回族の村であるというシュクデン派の主張は、荒唐無稽なものではなかったことになる。ダライラマ法王の転生児童が発見されるまでの経緯については本で知っていたけれど、まわりがイスラム教徒の村だらけということについての記述は記憶がない。これは隠されてきたのだろうか? それとも60年の間に回族の村が増えたのだろうか? 

 いずれにしても、どれだけまわりがイスラム教徒だらけだろうと、タクツェル村がチベット仏教徒の村であるなら、それでよいのである。現在、ボン教を含む各教派が数多くの転生ラマを認定しているが、ある地域に転生ラマが生まれれば、その地域にその教派が勢力をのばすきっかけになるという、隠れた意味合いがある。

 ダライラマ法王の生家は文革のときに壊され、紅崖小学という学校が建てられた。そのとき建物(校舎)は残っていたが、すでに使われなくなり、廃墟になっていた。生家の敷地の一部には、新しく小さな廟のようなものが建っていた。鍵を持ち、扉をあけてくれた管理人は、ダライラマ法王の甥だった。外見がとくにダライラマ法王に似ているとは思わなかったが、声がそっくりだったので驚いてしまった。

 

シュクデンとはそもそもどういう存在か 

 そもそもシュクデンとはどういう存在なのだろうか。ラマ・チメ・ラダによると、ドルジェ・シュクデンはペハルとならぶゲルク派の守護神であり、神託である。(<Oracles and Divination>1981

 デプン寺のロセリン僧堂の住持(転生ラマ)にペンチン・ソナ・タクパという名の僧侶がいた。ある日ドルジェ・シュクデンが現れ、「あなたはもっとも聡明な僧侶であり、教えもすばらしい。だからあなたの守護者となりたい」と申し出た。つぎの住持は偉大なるダライラマ5世の時代、宗教面でも政治面でも力を発揮したトゥルク・ダクパ・ギェルツェンだった。しかし彼の周囲の嫉妬はすさまじく、多くの政敵を作ることになり、その結果彼は白いカタで窒息死した。おそらく首を吊ったのである。このすさまじい死に方によって、彼の意識は悪魔の領域に達し、ドルジェ・シュクデンになったという。ペハルが中央チベットの仏法と教えの筆頭守護神でいられるのも、ドルジェ・シュクデンの許可があってのことだという。

 ダライラマ13世の教師だった高僧パボンカパ(Pha bong Khapa 1878-1941)によると、トゥルク・ダクパ・ギェルツェンの自殺後、怪異現象が起こった。住持の遺体はストゥーパのなかに入れられ、それは彼の部屋に安置されていた。一か月後、部屋から泣き声や叫び声が聞こえてくるようになった。そして壁や天井が崩れ、ストゥーパは倒壊し、部屋から白い水が流れ出してきた。

 その後中央チベット全体に災害が発生し、人や家畜の命が奪われ、家や田畑も損害を蒙った。ダライラマ5世や高僧ラマはこれらの災害がドルジェ・シュクデンによるものと認定したが、どれほど悪霊をなだめる儀礼をおこなったところで効果はなかった。

そこでサキャ・ソナム・リンチェンに依頼したところ、彼は火の儀礼をおこない、怒りの霊をなだめることに成功した。ドルジェ・シュクデンはいくつもの目を持った僧侶の姿で現れた。

彼(シュクデン)はソナム・リンチェンに向って「私はゲルク派の守護神の破壊的な面である」と語った。はじめシュクデンはサキャ派の寺院に、守護神として置かれた。その当時、だれかがこの守護神の儀式道具を盗んだところ、その人は即座に謎の死を遂げたという。

 パボンカパによると、ドルジェ・シュクデンが仏法の守護者となる前、怪異現象が多く発生し、人々を恐怖のどん底に落とした。デプン寺の近くのナムジェ・タツォンでは、多くの人が「手の影」を見た。そうするとかならず見た人は死ぬか病気になった。また首が驢馬で胴体が人の僧侶の幽霊が出ると、見た人は死んだ。治療を求める病人の姿をしたドルジェ・シュクデンが訪ねてくると、その僧侶やラマは死んだ。

 ダライラマ5世はジェドゥンに手紙を持たせ、密使として霊界のドルジェ・シュクデンのもとへ送った。ジェドゥンは霊的な力を持ち、悪魔や幽霊、精霊を見ることができた。そしてかぶると透明人間になる魔法の帽子を持っていた。ジェドゥンはなんとか霊界に入り、ドルジェ・シュクデンの王宮に達することができた。王宮の入り口でふたりのインドの悪魔が邪魔しようとしたが、ジェドゥンは帽子をかぶって姿を見えなくし、彼らの横を抜けてなかに入ることができた。

 王の間に入ると、玉座に坐っていたのはデプン寺の住持の姿をしたドルジェ・シュクデンの霊だった。多くの霊魂が部屋に入ってきて、王の前に跪いた。彼らは生前、彼らにひどいことをした人々にたいし、復讐するのだという。ドルジェ・シュクデンが彼らに白い芥子の種を渡すと、彼らはそれを地上に向って投げた。地上に降ると、それらは雹となり、農作物を破壊した。

ジェドゥンは帽子を脱ぎ、ダライラマの手紙をドルジェ・シュクデンに渡した。その手紙はやさしい慈愛たっぷりの言葉に満ち、ドルジェ・シュクデンにゲルク派のために仏法の守護神となるよう説いていた。そして甘い言葉が功を奏し、ドルジャ川(キチュ川)近くにダライラマ5世によって新しく建てられた寺院に移り住むことをシュクデンは決めたのである。

 

 このように、トゥルク・ダクパ・ギャルツェンの死は悲劇的であったけれど、それに関わるさまざまなエピソードは伝説的、仏教説話的である。シュクデンがゲルク派の守護神であることはたしかであるし、悪霊であったときに強烈な破壊力を持っていたこともまちがいない。しかしだからといって、ゲルク派の純粋性を守る役目が圧倒的に大きいとはかぎらないだろう。
 ニンマ派の儀礼を取りいれた、あるいは取りいれようとしたダライラマ5世、13世、14世がシュクデン派の非難の対象となっている。しかしチベット文化が存続の危機に瀕しているとき、しかもせっかくリメ(超教派運動)の気運が盛り上がっているときに、教派の純粋性にこだわるのはいかがなものかと思ってしまう。



<補遺> 

 シュクデン派はゲルク派の純潔を保ちたいのであって、ダライラマ制度そのものを否定しているわけではない。とはいえ、ダライラマ制度を含む転生ラマ制度がいつまでもつづくとは考えにくい。*ダライラマ法王自身が輪廻転生制度の廃止の可能性を示唆している。輪廻転生制度廃止を 自分の死後とダライラマ 

よく知られているように、法王選びにこの制度を最初に導入したのはゲルク派ではなく、カルマパ(カギュ派)で、14世紀のことである。ゲルク派が転生ラマ制度を取り入れたのは、ダライラマ3世ソナム・ギャルツェン(15431588)のときで、モンゴルに仏教を広めるのに功績のあったソナム・ギャルツェンはアルタン・ハーンからダライラマの称号を授与された。

つまり転生第一号はダライラマ4世ヨンテン・ギャツォ(15891616)であり、モンゴル人なのである。ツォンカパの高弟であったダライラマ1世とそれを継いだ2世は、あとで追認された。

 ダライラマやカルマパ、パンチェンラマだけが転生ラマではない。いまでは各教派が数多くの転生ラマを擁している。最近はボン教さえも転生ラマ制度を取り入れている。

以前私が青海省西寧の民族学院の居住スペースに滞在しているとき、ひとりの中年のチベット人男性が生まれたばかりの赤ん坊の名前をリストアップする光景に出くわしたことがある。彼はどこかに生まれたはずの転生ラマ(霊童)を探していたのだ。

 伝統が途絶えるどころか、転生ラマだらけになってしまった。しかし数が多いからといって、これからも安泰とはとうてい思えない。この『大いなる欺瞞』にも挙げられているように、青い目の転生ラマが問題点を浮き彫りにすることになった。

 昔、ダラムサラのトゥシタ・メディテーション・センターで、コパン寺の創設者のひとり、ラマ・イェシェ(19351984)の生前の活動を収めたビデオを鑑賞したことがある。欧米人のチベット仏教徒から愛されただけあって、その慈愛に満ちた、愛くるしいラマの笑顔は深く印象づけられた。ビデオのなかで彼はスペインを訪ね、チョルテン(ストゥーパ)を建立している。スペインはずいぶんと気に入っている様子だった。この部分は、彼自身の転生がスペインに誕生することの予兆であった。

 『チベット 奇跡の転生』(ヴィッキ・マッケンジー)に詳しいが、イェシェ・ラマの没後、その転生がスペインのグラナダで発見される。それがウーセル・イタ・トーレス、のちのテンズィン・ウーセル・リンポチェである。両親はラマ・イェシェの弟子だった。彼の成長と動静は逐一欧米人のチベット仏教徒の間に知らされたが、長じたときに、彼がこの運命を受け入れるかどうかみな心配していたことはまちがいない。

 しかしその不安は現実のものとなった。2009年、ウーセルは、自分が「外側から押し付けられた偽の存在」のような気がすると言って、転生ラマの地位を放棄すると発表したのである。

 優れた僧侶たちが彼のために英才教育を施しただろうから、彼はすでに相当のチベット語能力と学識を会得していただろう。しかしゲルク派のリンポチェであるということは、結婚もせず、厳しい修行と学習の日々を送らねばならないのである。それにスペイン人の彼がチベット人の生まれ変わりであるとは、本人がとうてい信じることができなかったのかもしれない。何か無理がある、不自然であるという感覚に苛まれたのかもしれない。

 人権問題を持ち出すのは野暮かもしれないが、転生と認定されれば、通常の生活を送る権利さえ剥奪されてしまうのである。中国内であろうと、インドであろうと、ネットの発達した現代社会において、転生ラマ制度を信じ、地域や教派で支えていくような社会がどれだけ存続するだろうか。

 シュクデン派はパンチェンラマ選びの際のダライラマ法王のやりかたにもクレームをつけている。ダライラマ法王の判断が早すぎたというのだ。中国政府が実際にそうしたように、伝統的な金瓶掣籤(きんべいせいせん)によって選ぶべきだったと主張するのだ。しかしこの方法は清朝が押し付けてきたものだし、不正を排除するには有効であるとしても、かならずおこなわれてきたわけでもないのだ。中国政府の介入を阻止するためには、やむをえない判断であったと考えるべきだろう。シュクデン派が中国の側に立つからこそ、中国との関係をあやしまれるのである。もちろん、シュクデン派は中国からの援助をきっぱりと否定している。中国政府はダライラマ法王を「僧侶ではない、政治家だ、そして分裂主義者だ」と批判するのにたいし、シュクデン派は(とくにダライラマ5世にたいし)「宗教と政治両面の絶対的権力をにぎった神王(God-King)になろうとしている」と批判しているのである。

 新しい転生ラマをどうやってみつけるかは、これからも問題となっていくだろう。中国からの介入をどうやって防ぐか、ふたたびパンチェンラマ転生霊童選びのようなことが起きないか、注視していく必要があるだろう。