リチャード・シェイヴァーの生い立ちと彷徨と入院歴 

 シェイヴァー家の先祖をさかのぼると、1762年にウィーンに生まれたフィリップ・シェイファー(Shaeffer)にたどりつくという。他のルター派ドイツ人の移民とおなじく、名声と幸運と救いを求めて、1780年前後に新世界へやってきた。ニュージャージーに到着すると、彼はアメリカ人らしいシェイヴァーという名前に変えた。そして1800年頃、家族(妻と4人の子ども)とともにペンシルベニアのルザーン郡に移住した。彼は製材業者として成功し、町(ダラス)で最初の製材所を作った。彼はダラスの郊外の土地を入手し、そこは発展してシェイヴァー・タウンと呼ばれるようになった。しかし不運なことに1826年、リンゴ粉砕機に腕を巻き込まれ、そのときの傷が悪化して死亡してしまった。

 フィリップの息子ウィリアム・G・シェイヴァーは1816年にレイチェル・アン・ロビンスと結婚し、ふたりから14人の子どもが生まれた。14番目の子ども、ウィリアム・ペリー・シェイヴァーは南北戦争に参加したが、今でいうPTSD症候群のような状態になってしまった。それでも戦争から戻ってきて3年後の1868年、ローダ・マーガレット・アンダーソンと結婚した。ローダはリチャード・シェイヴァーの祖母ということになる。

 リチャードの父親ズィーバ・ライス・シェイヴァーは、ウィリアムとローダの間に生まれた二番目の子どもだった。ズィーバの名は、隣人でウィリアムの親友ズィーバ・ベネット・ライスからもらったものだった。このズィーバ・ベネット・ライスはじつはフリーメイソンで、ダラスのロッジではグランドマスターを務めていたという。

 問題は、ローダを襲った悲劇である。ズィーバを産んだあと精神を病み、ダラスの郊外70マイル(100キロ)のダンヴィル精神病院に入院することになったのである。産後うつというより、もっと深刻な、幻覚や幻聴を伴う産褥期精神病なのではないかと思う。なぜなら彼女は死ぬまで退院することがなかったのである。

 精神病は、遺伝することはないが、その気質は受け継がれることがあるという。ローダが幻聴に悩まされていたとすると、その気質が孫のリチャードに現れたのかもしれない。

 ズィーバ・ライス・シェイヴァーは1898年に、紙貼り職人トマス・テイラーの一人娘グレース・テイラーと結婚した。大切に育てられたグレースは、当時学校の教師をしていた。彼女は作家でもあり、多くの時間を割いて詩や韻文を書いていた。翌年、ズィーバはペンシルベニア州ベリックにある鉄鋼工場、アメリカン・カー・アンド・ファウンドリー・カンパニーに職を得た。彼は頑張って働いてお金をため、1901年にはベリックに家を見つけ、引っ越した。キャサリン(1902)、テイラー(1904)、リチャード(1907)、イザベル(1915)ら子供は全員、ベリックで生まれた。

 鉄鋼工場の契約が満期を迎えると、父ズィーバはペンシルベニア州ブルームズバーグの「ビーハイブ・カフェ」という名のカフェ・レストランを買い、家族を引き連れて引っ越した。リチャードは皿洗いをしたり、オイスターの殻を取ったり、ニワトリを殺したりするなど、家族経営のレストランの手伝いをした。慕っているすぐ上の兄テイラーが地元の高校に入学すると、リチャードもあとを追うように同じ高校に入学した。1925年の高校の年鑑を見ると、ディック(リチャード)はアメフトやテニスが得意な、冗談好きの陽気な少年だったようだ。のちシェイヴァー・ミステリーで世間を騒がすことになる人物としては、凡庸な高校生であったように見える。

 兄テイラーは卒業後電気技師になるが、一度やめて大学に一学期だけ通い、テキサスの空軍学校に入学したあと、フィラデルフィアに行ってふたたび電気技師の仕事についている。リチャードも兄を頼ってフィラデルフィアに出ると、兄の二部屋のアパート部屋に転がり込んだ。

 彼がフィラデルフィアで最初に見つけた仕事は肉屋だった。「スウィフト・アンド・カンパニー」という肉屋で肉を切ったり売ったりするのが仕事の内容だった。ここでの仕事はそんなに長くは続かなかった。肉を吊り下げるフックで手を怪我してしまったからである。その少し前、鉄道工事の仕事をしていた父(ズィーバ)が事故に巻き込まれたということが書かれた手紙を母(グレース)から受け取った。これを機に兄弟は五つ部屋のアパート部屋を借り、両親やほかの兄弟を呼んで、いっしょに暮らすことにした。

 リチャードがあらたに得た仕事は造園業だった。「デイヴィー・ツリー・エキスパート・カンパニー」という造園会社に採用されたのである。リチャードにとって相性のいい仕事だったようで、はじめてやりがいを感じた。

 その頃、兄テイラーは公務員の試験に見事合格し、デトロイトの移民局に勤めることになった。そして1930年、両親(ズィーバとグレース)とイザベルもデトロイトに引っ越し、テイラーといっしょに住んだ。両親はまた、ふたたびレストランを開業している。

 しかし1931年、大恐慌がやってくる。リチャードは仕事を失い、やはり結局デトロイトの家族のもとへ行く。しばらくはブルームズバーグのときのように両親のレストランを手伝った。

 驚くべきことに、リチャードは肉体を資本に小銭を稼ぐ。デトロイトのウィッカ―美術学校でヌードモデルをつとめたのである。彼ははじめ時給35セントを得ていたが、のちにみずから別のヌードモデルを日給10ドルで雇ったという。そしてアーティストたちからひとりあたり1ドルを徴収し、ヌードを描かせるようになった。それによって彼は一日30ドルから40ドルを稼ぐことができた。意外だが、商才はあったようである。

 リチャードはこの美術学校で非常勤教師ソフィー・グルヴィッチと運命的に出会い、恋に落ちる。

 ソフィーに画家としての特殊な才能があったことは、唯一残っているリチャードを描いた彼女のドローイングを見ただけでわかる。エゴン・シーレ並みの画家になっていたとしても不思議ではなかったと思う。

 ソフィーは1903年、ウクライナ(当時は帝政ロシア)の町ミルゴロドに生まれたユダヤ系ロシア人だった。彼女の父、銅細工師のベンジャミン・グルヴィッチは、ツァー(皇帝)政権がユダヤ人に対して弾圧を強め、虐殺を始めたとき、国を脱出する決意を固めた。1904年に彼がまず米国に渡り、それから妻アンナ・ミンツと娘ソフィーを呼び寄せたのである。彼らはデトロイトに落ち着き、ベンジャミンは金物屋の「スター・ハードウェア・アンド・ペインツ」を開いた。

 グルヴィッチ一家は1911年に市民権を得ることができた。一方で共産党がロシアの皇帝を滅ぼしたことを聞いて彼らは喜んだ。スターリン時代以降に米国に亡命してきたユダヤ系ロシア人は共産主義嫌いが多いが、それ以前はツァー(皇帝)嫌いで、むしろ共産主義シンパだったのである。ベンジャミンとアンナは第一世代の共産党メンバーとなった。ソフィーは成長すると共産党青年団(ヤング・コミュニスト・リーグ)のメンバーになった。意外なことに当時(20年代)、米国に共産主義支持者は少なくなかった。冷戦時代がはじまり、レッドパージが断行されて共産主義者は絶滅していくが、それはずっとあとの話である。

 ソフィーはこうして自由思想家、フェミニスト、婦人参政権論者(サフラジェット)になった。また社会主義者の同志やボヘミアン芸術家が集まったキャリッジ・ハウスというコミューンで共同生活を送った。

 1930年にクー・クラックス・クラン(KKK)に支持されたデトロイト市長が誕生すると、赤派の人が激増した。そこに大恐慌の波が押し寄せ、大量に解雇が出ると、資本家と労働者の対立はいっそう激しくなった。このような時世でふたりは出会ったのだった。ガールフレンドに感化されたリチャードがコムラッド(共産党同志)になったのは自然な成り行きだった。

 リチャードが熱心な共産党員であったとは言い難い。活動に身を入れていたソフィーに付き合っていただけだった。しかしYCL(青年団)のリストに載った名前を消し去ることはできなかった。

 ソフィーはシカゴ芸術学院やニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで学んだことがあった。とくに後者はジャクソン・ポラックやマン・レイが通ったとされる名門中の名門だった。しかし大恐慌がやってくると、経営者のウィッカ―氏は1932年、ウィッカ―美術学校を閉じてしまい、ソフィーは収入源を失ってしまった。

 しかし苦境に陥ることによってふたりの絆はかえって深まり、グルヴィッチ家、シェイヴァー家両者の強い反対を押し切って、この年に彼らは結婚した。

 ソフィーはコマーシャル・アートの仕事を探しにニューヨークへ行った。一方でリチャードはデトロイト郊外ハイランド・パークのブリッグス車体工場に雇われた。ここではフォード車の車体を作っていた。のちにシェイヴァーが「声」を聞くとき、溶接銃(溶接機)を持っているが、ここではじめてその使い方を教わったのである。

 ソフィーは望んだ仕事を見つけることがでず、デトロイトに戻ってきた。そして翌年、彼女は妊娠した。この年、リチャードにとってショックだったのは、愛する兄テイラーが肺結核で死去したことだった。テイラーを失った両親のズィーバとグレースは、ペンシルベニア州のバルトに引っ越す決心をした。彼らはここで数エーカーの小さな農場を買い、「ビタースウィート・ホロウ・ファーム」と名づけた。「甘辛空洞農場」といった意味である。

 この時期、リチャードの精神は異常をきたしつつあった。テイラーが殺されたのではないかと疑い始めたのは、その兆候だったかもしれない。

 疑う根拠がまったくないわけでもなかった。死の数か月前、テイラーは弟に、カナダ国境の問題について話していた。当時米国内では禁酒令が発せられ、酒を造ることも売ることもできなかった。しかしカナダでは自由に造ることができたので、密造酒(カナダでは密造ではない)の密輸が後を絶たず、しかもここから巨大な犯罪組織が生まれるようになったのである。デトロイトの移民局に勤めていたテイラーにとっては頭が痛い重大な問題だった。しかしだからといってテイラーが犯罪組織かだれかに消されたという論理は、おかしなものだった。

 彼はこの頃ソフィーに「人々に監視されている」「あとをつけられている」「だれかに思考を読まれている」などと話すようになった。

「いつもずる賢いことを考え、反応しているけど、それはぼく自身の考えではないんだ」と彼は語ったという。「ぼくの話を盗み聞きし、監視し、考察している奴らがいる。ぼくの精神に徐々に溶け込もうとしている精神がある。ぼくの若者としての夢はずっと秘密にしてきたのだけれど、侵入者は静かに、ずけずけと、情け容赦なくあばこうとしている。こいつは勝手に入ってきたのに、妙に反抗的で、怒りまくっているんだ」

 「声」についての話がとまらなくなり、ソフィーは次第に不安になっていった。何かが狂い始めていると彼女は感じた。一方リチャードは溶接機を通じて「声」がやってくるのだと考え始めていた。張り巡らされた電線が受信器となり、たまたま捉えられた他の工場労働者の会話が聞こえているのだと信じていた。しかしその「声」が帰宅するまでついてくると、はじめて彼は重大な事態に陥っていることに気がついた。

 「声」は大きく、やわらかく、ときには他の音に覆われ、耳の中でハエがぶんぶん唸っているように聞こえることもあった。あるいは機械の騒音のなかにまぎれこむこともあった。彼自身の思考と不思議な光線機械によってテレパシーのように送られ、心に挿入された思考との判別が次第に困難になっていった。テレパシーの話し方は電話で話しているかのようだった。よい光線は、朝語りかけてくる鳥の歌のようだった。「声」は彼ら(声)のことを知らない人々には話しかけてこなかった。つまりリチャード以外にこのことを理解することはできなかった。

 混乱に陥ったリチャードはソフィーのもとを離れ、両親が暮らすビタースウィート・ホロウ・ファームに身を寄せた。身重の状態でひとり残されたソフィーは父親に相談し、近況を知らせた。

 娘(イーヴリン・アン)が誕生する1934年8月31日より少し前に、彼はソフィーのもとに戻ったが、パラノイアの症状はいっこうに収まらなかった。彼の心の中では恐怖がいっそう大きくなっていった。はじめは「声」がどこから来るかが問題だった。ついでなぜ「声」が自分のところにやってきて、他の人のもとではないのか、その理由が焦点となった。そして彼らの目的が何であるかが残りの謎となった。

 ソフィーの父ベンジャミン・グルヴィッチはただでは転ばないタイプの人間だった。帝政ロシアの虐政を生き抜いた生命力は並々ならぬものがあった。いま、あらたなトラブルを起こしているのは義理の息子であり、そのためにピンチに陥っているのは娘と孫娘だった。現実的な人間である彼は、家族を守る決意を固めた。彼はまずデトロイトの新聞記者、ルイス・テンドラーに相談した。テンドラーはおなじユダヤ系ロシア人で、1906年に米国に亡命していた。彼のアドバイスはシンプルで的確だった。

「あきらかに気が触れているから、精神病院にぶちこめ」

 リチャードの入院手続きは法的手続きを取って行われた。1834年7月27日(娘が生まれる一か月余り前)、ソフィーはリチャード入院の申し立てを裁判所に提出した。リチャードの精神病(おそらく統合失調症)は父親のズィーバにもショックを与えたが、母親の記憶がよみがえり、ある意味では納得できるものでもあった。

 リチャードを診断したジャック・エイギンスの診断書によると、彼は「二重人格障害者」、今でいう解離性同一性障害者だった。彼は文末を(さまざまな理由から)「入院措置を取るべきである」で締めくくっている。8月17日に公聴会が開かれ、裁判官マーフィーから手続きが執られることが述べられ、20日にリチャードはイプシランティ州立病院に搬送されたのである。

こうした強制手続きが取られたことからも、リチャードの当時の精神状態がいかにひどかったかがわかる。のちの「シェイヴァー・ミステリー」はまさにこの解離性同一性障害から生まれたのである。

 当時のイプシランティ州立病院には二つの代表的な治療法があった。ひとつは水治療法(ハイドロセラピー)であり、もうひとつは理学治療法(フィジオセラピー)である。水治療法はいわゆる水攻めである。映画『ビューティフルマインド』で見た人も多いだろうが、拷問のように圧力のかかった大量の水を浴びせかける療法のことだ。また理学療法には、電気高熱部屋や電気高熱照射、紫外線放射、各種外科手術などが含まれていた。これらのどれもがショック療法であり、真の意味での治癒は望めそうになかった。なお、当時の病院の収容者数は900人だが、922人の患者を受け入れていた。

 リチャードは審理も経ずに牢獄にぶちこまれたような気分を味わった。しかし実際、精神病患者が増大し、つねに定員オーバーの状態だったので、出たり入ったりは案外自由だった。ペンシルバニアの両親の農場にしばらく滞在することも許されることがあった。ソフィーは保護観察者でもあったので、自宅にはたびたび戻ることができた。

しかし両家の対立は深まる一方だった。両家のあいだで板挟みになったことからリチャードの精神の病が発症したようなものなのに、発症したことによって溝はいっそう深くなった。

そんなおり、悲劇が訪れる。ソフィーが感電死してしまうのである。事故のもとになったヒーターは、家族の友人であるルイス・テンドラーが善意で贈ったものだった。お湯の入ったバスタブに足半分つかった状態でヒーターを動かそうとしたとき、手が濡れていたため、電流が身体の中を走ったのだという。電流に関する知識が乏しく、電気製品も安全に対する配慮が十分でない時代だからこそ起きた事故だった。

残された幼い娘をどうするかが問題となった。父親はいるものの、精神病院のなかであり、扶養どころか生活能力もなかった。結局ベンジャミン・グルヴィッチが奔走し、手続きを取って、孫娘を自分たちの養子とし、育てることにしたのである。このときリチャードに、娘に対するすべての権利を放棄させ、罪悪感に苛まれていたルイス・テンドラーをリチャードの保護観察人に指名した。また娘イーヴリン・アンは母方の苗字を取り、シェイヴァーという苗字は捨てることになった。

 それからリチャード・シェイヴァーのもっとも謎めいた時期がはじまる。両親の農場に滞在したあと、イプシランティ州立病院には戻らず、逃走したのである。彼は完璧な浮浪者であり放浪者だった。彼はすぐにデトロイトに立ち寄っているが、そのあとどうやら、インディアン式の毛布とマッチとポケット・ナイフだけを持って、ミシガン上部、オハイオ州アクロン、ピッツバーグ、フィラデルフィア、ニュ−ジャージー、ニューヨークと、各地を転々としていったらしい。浮浪者は現代の日本にもたくさんいるが、同時に放浪者であることはあまりない。リチャードにはエネルギーがありあまっていたのかもしれない。

 彼はついにボストンに着いた。しかし大都市に入ると、洞窟の種族から送られる人を苦しめる光線に悩まされることになった。そこでバーモントに脱出するが、身体が弱ってしまい、保護施設に収容された。

 彼はバーモントでカナダ・ケベック州行きのバス・チケットを買うが、国境で拒絶される。それでもあきらめず、もう一度今度は徒歩で国境に向かい、だれにも気づかれずにカナダに越境した。彼はモントリオールが気に入って数週間滞在し、そこから汽船に乗ってハリファックスに着いた。彼はその港に寄港していたノヴァ・スコティア号に勝手に乗り込んだ。この船の行先は英国リバプールだった。しかし最初の寄港地、ニューファンドランド島のセントジョンに着いたところで船員に見つかってしまう。このとき彼はアイルランド生まれの「レナード・ホーガン」を名乗っている。逃げようとしたときに怪我をしたのか、彼はかかとの骨を骨折していた。彼は結局2、3か月の間、地元の小さな病院で療養生活を送ることになったようだ。

 彼の存在があきらかになるのは1938年4月9日だった。この日裁判所で「ホーガン」は浮浪罪の罪に問われている。しかし4月28日の布告には、アイルランド出身のリチャード・シェイヴァーという名前が記載されている。どうやら本名はばれてしまったが、国籍がウソであることはまだばれていないらしい。結局彼は米国へ追放されることになった。彼は1938年4月30日に、ハリファックス経由ボストン行きの汽船ニューファンドランド号に乗船した。

 1938年5月4日、汽船ニューファンドランド号はボストン港に到着する。彼が上陸すると待っていたのは、移民局の検査官J・W・デイリーとBSI(特別審問委員会)の執拗な取り調べだった。彼は出身地や両親の住まいの住所など情報を提供しているが、彼がイプシランティ州立病院を脱走したことはしゃべらなかったようだ。しかし言動があきらかにおかしかったので、グラフトン州立病院に収容されてしまう。

この時期、ほかの人には見えなかったが、洞窟の住人スーと盲目の少女ニディア(ブルワー=リットン『ポンペイ最後の日』の登場人物)、またデロの尾行人マックスがいつも彼のそばにいたという。このことを話したからこそ精神病院に入院させられることになったのだろう。

 もっとも謎めいているのは、彼がこのあとミシガン州のアイオニア州立病院に入院していることだろう。ここは犯罪者的な患者のための精神病院なのである。いったい彼は何をしたのだろうか。カナダに密航したことが罪に問われたのか、それとも彼が明かしていない重大な罪を犯したのか。1938年から入院し、43年には退院しているので、重大な罪を犯したとは考えにくい。おそらく保護観察者のルイス・テンドラーとソフィーの父ベンジャミン・グルヴィッチが遠すぎるグラフトン州立病院からアイオニア州立病院へ移送させたのだろう。グルヴィッチは孫娘には父親がすでに死亡していると告げ、できるかぎり会わせないようにするため、抜け出すのが(イプシランティ州立病院よりも)困難なアイオニア州立病院に閉じ込めたのだと思われる。

 

⇒ つぎ (声の秘密) 




妻ソフィーが描いた精神を病みつつある頃の
夫のリチャード・シェイヴァー。 
エゴン・シーレ級の才能を感じさせる 


妻ソフィー 





アメリカン・カー・アンド・ファウンドリー・カンパニー 






造園会社デイヴィー・ツリー・エキスパート・カンパニーの仕事仲間と (リチャードは中央) 










イプシランティ州立病院 
最初に入院した精神病院。比較的自由に出入りできた 




グラフトン州立病院 
ボストン郊外の精神病院。ここでは盲目の少女ニディアの存在感が増している。ということは症状が悪化したのか 




アイオニア州立病院 
デトロイトに比較的近い精神病院。ここでの5年間の動静はあまり伝わってこない。症状が悪化し、水攻めや電気療法のようなショック療法が施されていたのかもしれない