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 ロヒンギャの起源に関し、南アジアの著名な歴史家故・カリム教授はつぎのように語っている。

「実際、ロヒンギャの先祖は記憶にないくらいの遠い昔、アラカンにやってきました。ロヒンギャがアラカンに定住してから千年以上の時が流れているのです」

 インドのベンガル、あるいはオリッサに起源を持つアラカンの褐色の肌のネイティブ、クラー(Kular)あるいはカラ(Kala)の子孫として、この土地に根付いたのは、最後に外部からやってきて定着した仏教徒アラカン人よりはるかに昔だった。

 歴史家D・G・E・ホールは書き記す。

「ビルマ人がアラカンに定住したのは、早くても十世紀である。それゆえ初期の王朝はベンガルの人々を支配するインド人であったと考えられる。歴史上知られるいくつかの都は北にあり、現在のアキャブ(シットウェ)に近い」[原注:アラカンの都アキャブはバングラデシュの南端コックスバザールから100キロしか離れていない。アキャブはペルシア語から派生した]

 ロヒンギャが外国人であるという主張が、歴史の歪曲にすぎないことが容易にわかるだろう。

 歴史家A・P・フェアはつぎのように述べる。

「アラカン王の歴史の中で、マハティン・チャンダヤ王(780810)の時期、外国船が難破してラムリー島に漂着した。船に乗っていた数人はクラ、すなわちイスラム教徒だった。アラカン王は命じて彼らをアラカンの村々に住まわせた」

 アラカンにアラブ人ムスリムの居留地を作ったことで、アラカンのイスラム教徒の数が増加しはじめたのである。徐々にこれらのイスラム教徒たちは地元の人々との調和のとれた、いい関係を築くようになり、地元の女性と結婚することも増えてきた。

 D・G・E・ホールはさらにつぎのように述べる。

「彼らはアラカン人とは異なっていたが、宗教や宗教から生まれる社会習慣を除くとほとんど同じだった。書くのにビルマ語を使ったが、彼ら同士で会話をするときは先祖と同じ言葉を用いた」

 ビルマにおけるイスラム教の浸透はベンガルに隣接するアラカンで終わりというわけではなかった。実際はるかに東の方へ伝播していったのは、当時の旅行家や年代記作家の記録から明らかだった。東方へ旅をした(1470年)ロシアの商人アタナシウス・ニキティンはペグーのスーフィー(イスラム神秘主義)の活動に言及している。ロシア人商人はペグーについて「インド人ダルウィーシュ(イスラム聖者)が住む重要な港」と記している。

 すでに述べたように、アラカン王国は1430年以来、ベンガルの属国となり、国王たちはムスリム名を名乗り、硬貨にはカリマ(神はアッラーのみであり、神の使者はムハンマドであるという宣言)を刻印した。

 この慣行は17世紀前半までアラカン国王の間でつづけられた。というのは、王たちがスルターンとして認められたかったというだけでなく、臣民の中にイスラム教徒が増加していたという事情もあった。A・P・フェアが言うには、ムスリム名をつけることと、硬貨にカリマを刻むという慣行は、モン・ソー・ムワンが約束を果たすために導入されたが、のちにはチッタゴンの統治のしるしとして続けられた。このとき以来、ムスリムとアラカン仏教徒との関係はより親密になり、およそ二世紀の間、彼らはイスラム世界との友情を保つことができた。イスラム文明のインパクトの結果として、アラカン文化は進歩し、アラカン史における黄金時代の幕開けとなったのである。

 

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