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 さてつぎに、ベンガル文学におけるアラカンの影響について考察したエナムル・ハク教授とアブドゥル・カリム・シャヒティヤ・ビシャラドの傑作『Arakan Rajshavay Bangla Shahitya』(1935)から引用したい。[原注:ムスリムの年代記作者、歴史家、詩人、文学者がアラカンに言及するときのアラカンの呼び名はロシャン(Roshang)だった]

ロシャンとチャッタグラム(今のチッタゴン)におけるムスリム(イスラム教徒)の影響は古代以来ずっと顕著だった。アラブ商人は、8世紀から9世紀にかけて、イースト・インディーズ[訳注:発見の時代におけるアジアの総称]との交易網を確立していた。この時期、東インドの孤立した海港であるチッタゴンは、アラブ人の憩いの地かつコロニーとなっていた。

スライマーン(851年には生きていた)やアブ・ジャイドゥル・ハサン(スライマーンと同時代)、イブヌ・フラドバ(912年に死去)、アル・マスーディ(956年に死去)、イブヌ・ホウカル(976年に旅行記を書いた)、アル・イドリシ(11世紀後半に生まれた)を含む古代、中世のアラブ人旅行家や地理学者の記録から、アラブ商人がアラカンとメグナ川東岸の地域で活動的であったことがわかっている。

 私たちはまたこれについてロシャン民族史から学ぶことができる。すなわちロシャン王マハ・タイン・チャンドラ(788―810)が治めていた9世紀、ムスリム商人が乗っていた船が難破し、ロンビー島(ラムリー島)に打ち上げられた。彼らがアラカン王のもとに連れられていくと、国王は彼らを国の(僻地の)村に住まわせるよう命じた。

 ほかの歴史家たちは、イスラムおよびその影響が9世紀から10世紀のアラカンにおいて発展した事実を認識している。この時期よりあと、アッサムからマレーにかけての沿岸地方には、イスラム教徒だけでなく、仏教徒や華人からも敬意を表されたブッデルモーカンとして知られる奇妙なモスクが点在するようになった。

 10世紀半ば、チッタゴンではアラブ人の影響が日増しに強くなっていた。この地域に小さなムスリム王国が立てられ、王国の支配者はスルタンと呼ばれた。おそらくメグナ川からナフ川にかけての領域がスルタンの統治下にあった。わたしたちはロシャン民族史のなかでもこのスルタンの存在を確認することができる。

 953年、ロシャン王スラタイン・チャンドラ(951―957)は国境を越えてバングラ(ベンガル)に攻め込み、トゥラタン(スルタンの訛り)を征服した。そして勝利のシンボルとして「チャイッタゴン」と呼ばれる地に勝利の石碑を立てた。宮廷人や友人からの要請で彼は家に戻った。このチャイッタゴンは勝利の最後の国境となったが、ロシャン民族史によると、チャイッタゴンとは「戦争は起こされるべきものではない」という意味だった。現在のチッタゴン地区の名前の由来はチャイッタゴンだと多くの人は考えている。

 このように8世紀から9世紀にかけて、イスラムの宗教は伝播していき、ムスリムの影響はゆっくりとメグナ川の東岸からロシャン王国に達した。インドまで旅をした14世紀のエジプト人旅行家イブン・バトゥータと、16世紀のポルトガル人海賊の記録から、ムーア人やアラブ人の影響が大きくなっていたことがわかる。ムスリム民族が13世紀にベンガルに国を建てる前に、イスラム教はこのベンガルのはずれに達していた。イスラムがベンガル内に確立される前に、すでにイスラム教がこの地域に広がっていたという結論は、容易に導き出せる。だからこそベンガル文学は最初この地域のムスリムのなかで育まれたのである。15世紀以降、この地域のイスラム教徒はベンガル語の勉強をはじめていた。その証拠はたくさんあるのだ。

 ムスリムはベンガル文学の勉強に熱心に取り組み、ロシャン国王の宮廷人の支援を受けて、完璧の域に達した。ロシャンの宮廷はこれ以前からムスリムの影響のもとにあったことは言うまでもない。幸運にも、15世紀のはじめからロシャン国王の宮廷は、ムスリムの影響を心から受け入れていた。

 ビルマ史ではナラメイッラの名で知られるロシャン王メン・ツァウ・ムウン(1404―1434)は、1404年に王座に就いたあと、アナン・ティウという名の首領の妹、ツァウボンジョという婦人の所有物を無理やり自分のものとした。

 復讐を誓った兄はアヴァのメン・ツワイ・ミンカウン(1401―1422)の宮廷へと向かった。しかし三万人の兵士を擁したミンカウンはロシャンを攻撃し、1406年、マン・ソー・ムワンを倒した。マン・ソー・ムワンは逃げて、ガウル(ガウドとも)のスルターンのもとに庇護を求めた。当時イリヤス・シャヒの系統のスルタン・シャムスッディン二世がガウルを治めていた。彼はロシャン王マン・ソー・ムワンの亡命を受け入れ、安住の地を与えた。ロシャン王は1430年までの24年間、そこに暮らした。

 (……)ジャラールッディーン・ムハンマド・シャー(1414―1431)はガウルの王座に就いた。

 (……)ジャラールッディーン・ムハンマド・シャーは、1430年、その地を取り戻そうと、将軍ワリ・ハーン(ロシャン史ではウル・ケン)を、マン・ソー・ムワンとともにアラカンへ送った。ワリ・ハーンは信頼を裏切り、アラカンの封建領主ツェンカ(あるいはフェアによると、ツェウカ)と手を組み、マン・ソー・ムワンを幽閉した。ロシャン王はうまく逃げて、ベンガルにのがれた。スルターンはまたもアラカンを取り戻すべく、ロシャン王とともにふたりの将軍を送った。ふたりの将軍は裏切り者ワリ・ハーンを殺し、1430年、マン・ソー・ムワンをロシャン王の座に就かせた。ロシャン王は王国に戻ることができた。しかしガウルのスルターンの国の属国になってしまったのである。彼のイスラム教徒の信者たちはムロハウン(ムラウー)にサンディカン・モスクを建てた。

 (……)力強いムスリムの影響は、15世紀のロシャン国王の宮廷にまで及んでいた。それは数世紀あとにまで残ったのである。この影響はだんだんと強くなり、17世紀にはピークに達した。この世紀のベンガル文学の影響は、ロシャン国王の宮廷にまで及んでいたことが示される。(アラカン・ラジシャヴィ・バングラ・シャヒティヤ 1935) 

 

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