(4)

 関連のある歴史情報がいくつかある。それらは読者が、アラカンにおけるロヒンギャの正当な権利を理解するために大いに役立つものである。

「1000年前あるいは1200年前頃から、ムスリム(イスラム教徒)はアラカンにやってきて、定住した」(SLORCの刊行物)[原注:SLORCは現在のSPDC政権に先立つ軍事政権で、国家法秩序回復評議会のこと。SPDCとは国家平和発展評議会のこと。軍事政権に対する学生らの888民主化運動のあとの軍事クーデターによって成立した] 

 アラブ人ムスリムは最初、8世紀、交易や商業活動を通じてアラカンと接するようになり、そのとき以来この地域にイスラム教が広がった。当時のアラブ人は海上交易をさかんにおこない、「東」(イースト・インディーズ)の交易や商業活動を独占していた。(ムハンメド・アブドゥル・ラヒム 1963 

 マハタイン・サンダ王(788―810)統治の時代、多くのアラブ船がアラカン沿岸のラムリー島近くで難破した。この船に乗っていた船員や商人はみなムスリムだった。彼らはアラカン(の都)に送られ、村々に定住した。彼らは地元の女性と結婚した。歴史によれば、イスラム教はスーフィーや貿易商人によって海上を伝わっていった。アラカンやビルマの長い沿岸に点在しているダルガー(聖廟)がその証拠である。(英ビルマ・ガゼッティア 1879 

 これら卓越した徳性を持つ敬虔なムスリムたちによって、じつに多くの人々がイスラム教に惹きつけられ、大挙して信徒となったのである。(ウー・チー 『ビルマの歴史要点』) 

 ダッカ大学のABM・ラザウル・カリム・ファクワイアは、つぎのように書き記している。

 7世紀から12世紀にかけて、アラブ商人はイスラム教がベンガルを席巻するより前にベンガルのチッタゴン港やビルマの町アキャブを訪れていた。8世紀以降、バングラデシュのチッタゴンや隣接するビルマのアラカンなどの沿岸地域にアラブ人ムスリムの定住者に関する記述がいくつか現れていた。

 (……)こういったアラブ人たちはバングラデシュのチッタゴンやビルマのアラカンなどの地域の人々と混じり合った。チッタゴンやアラカンのベンガル人の中に消えてしまったけれど、一部の人は今もアラブ人の後裔だと主張している。(ファクワイア『アラカンとチッタゴンに消えたアラブ人ディアスポラを探して』)

 1430年にベンガル国王ジャラルッディン・モハンマド・シャーはアラカンを征服するべく、ワリ・ハーン将軍を長とする兵士五万人の部隊を送った。ワリ・ハーンはビルマ人を駆逐し、アラカンを自分の支配下に置いた。ペルシア語をアラカンの宮廷言語に採用し、ムスリムの判事(カジス)を指名した。(バングラデシュ地域ガゼッティア) 

 ジャラルッディンはサンディ・ハーン将軍指揮下の第二の軍隊を送った。彼らはワリ・ハーンを倒し、1430年、スレイマン・シャーをアラカンの国王の座に戻した。1430年から1638年までアラカンは現代文明を擁するムスリム国家だった。それはいわばルネッサンスをもたらしたのである。(ビルマ調査協会ジャーナル) 

 1430年以来、アラカンはイスラム教徒に統治されてきた。(ザヤ・チョー・ティン・ウー・バ・シン『ビルマにおけるイスラムの到来』) 

 14、15世紀において、アラカンのムスリム王国は独立していた。(ジェフリー・バランクロウ編『世界史アトラス』1979 

 アラカン人を母とするオランダ人の子供すべてがムスリムとして育てられた。(ビルマ調査協会ジャーナル) 

 アラカンのモハンメダン(イスラム教徒)のほとんどが戦争中にビルマ人やアラカン人の国王に捕らえられて奴隷となった人々の子孫だった。彼らはチャウトーやムロハウンの町に定住した。(R・B・スマート ビルマ・ガゼッティア 1957) [原注:マグ人海賊やポルトガル人奴隷ハンターによって連れて来られた数千人のムスリム捕虜は、ムラウー王朝の間にアラカンに定住した。彼らの多くは農業区域で強制的に働かされた。アーサー・フェアによれば、この奴隷の人口は、英植民地時代初期のアラカン全体の人口の15%を占めたという] 

 ベンガルや北インドからアラカンに連れて来られたイスラム教徒の囚人や奴隷に加えて、もっと多くの人々が、国王の警護としてだけでなく、アラカン軍の傭兵として働いた。(M・シディク・ハーン 『ムスリムとビルマの交わり』1936 

 マンダレー大学の学長で歴史学教授のタン・トゥン博士はつぎのように述べる。

 アラカンの国王たちはムスリムの称号を持っている。もし1442年の碑文に言及されているムスリム王たちがアラカンの王でないとするなら、彼らはマユ谷のロヒンギャ王に違いない。ロヒンギャの存在は、ムスリムがベンガルを征服した1202年に始まる。碑文には、一部のアラカンのムスリム王がアヴァ(王朝)の友人であると書かれている。彼らはよくアヴァを訪れていた。(タン・トゥン博士 カリャ・マガジン 1994 

 駐アヴァ(ビルマの都)英大使館付きの医師であるフランシス・ブキャナンはつぎのように書いている。

 ムスリムたちはアラカンに長い間定住している。彼らは自分たちをルインガ、つまりアラカンのネイティブと呼んでいる。(フランシス・ブキャナン 『ビルマ帝国内で話される言語の語彙の比較』1979 

 このブキャナンの所見は、まさに英国のビルマ植民地化以前に(植民地化は1824年以降のこと)アラカンにはロヒンギャを自認するムスリムがいたということを明らかにしている。このことは、明確に、ロヒンギャは英植民地期以降に定住したとする過激民族主義ラカイン人やビルマ人人種差別主義者による現在のキャンペーンとは矛盾する。

 A・F・K・ジラーニは『アラカンの人権』のなかでつぎのように述べている。

 現在はシッタウン寺院の入口に立つ、ウェータリー・チャンドラ王朝時代(788―957)の歴史的な石碑がある。石碑の北面の73行のうち69行がプロト・ベンガル文字によって書かれている。42行目には、アラカン国の名が「アラカンデーシュ」として登場する。(パメラ・グトマン『古代アラカン』1976 

 この碑文は、ロヒンギャがアラカン(アラカンデーシュ)に到達したのがチベット・ビルマ語族のラカイン人仏教徒の到達より前であったことを示している。

 

⇒ つぎ