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 1660年、ムガール皇子シャー・シュジャがアラカンに亡命してきた。この重要なできごとをきっかけとして、アラカン王国にムスリム移民の新しい波がやってきた。欲深いアラカン国王による皇子の殺害は、しかしながら、不安定な時代を招き寄せた。1665年から1710年にかけて、カマン・ムスリムはアラカンのキング・メーカーだった。

 シャー・シュジャ殺害の復讐のために、1666年、ムガール軍はチッタゴンとラムーをラカインのマグ人から奪い取った。ムロハウンに退却するとき、マグ軍部隊は地元のムスリム軍の襲撃を受けた。マグ人はカラダン川の東側のムロハウンに移動し、ムスリムはカラダン川の東からマユ谷の側(北側)に移動した。こうしてカラダン川とナフ川の間のマユ谷全体が純粋にムスリム(イスラム教徒)地区となった。ムスリムは南部の地域をマグ人に取られてしまったのである。(A・F・K・ジラーニ 『ロヒンギャ文化史』) 

 1785年、ビルマ国王ボードー・パヤーがアラカンを征服したとき、ムスリムであれ、非ムスリムであれ、住人の多くが国境を越えて当時英領インドの一部だったベンガル側に移った。1798年までにアラカンの人口の3分の2が生まれ育った地を放棄した。コックス将軍は彼らの一部をある場所に定住させた。それがのちにチッタゴンの南方のコックスバザールとして知られるようになる。

 アラカンのムスリムのアイデンティティを削除するために、ボードー・パヤーは多くのモスクやイスラム教の廟堂などを破壊した。このプロセスは、ビルマが英国から独立したあとも、仏教徒のリーダーたちによって続けられてきた。[原注:たとえば歴史的建造物である1433年に遡るサンディ・ハーン・モスク、バダル・モッカン、その他アラカンやビルマの有名なモスクがジュンタ(軍事政権)によって破壊された。一部のモスクは先祖伝来の宗教用具などが仏教風に模様替えされて、アイデンティティを喪失したものもあった。ボードー・パヤーもまた、多くのムスリムを奴隷化し、徴兵し、アラカンから遠いところに定住させた。

 1825年、英国がアラカンを占領したとき、ペイトン氏のレポートはアラカンの人口を6:3:1に分類した。6万人はアラカン人仏教徒、3万人ムスリム、1万人ビルマ人である。最初の英国行政府によるレポートは、二人のアラカン人仏教徒に対して一人のムスリムがいることを示したのである。ボードー・パヤーの統治下、政治的動乱と宗教的迫害のため、ベンガルに四十年前に逃げていたムスリムの一部は、アラカンのもともと住んでいた場所へ帰還しはじめていた。このためアラカンの人口は急増し、北アラカンのムスリムの人口は全体の90%を占めるにいたった。

 ラカイン人側から繰り返し反対意見が出されてきた。つまりどうしたらロヒンギャの人口が何倍にも増えて、今日のような百万人を越える大所帯になるかということだった。あきらかにそのような告発が出るのには、人口統計学にプラス社会学や数学(複利計算の原理)の基礎理解を欠いている。二千年前、12人(ユダを除けば11人)に過ぎなかったイエスの弟子が今は世界中に25億人もいることに疑問を抱かないならば、アラカンのロヒンギャの人口が多いか少ないかなど、とるに足りないことだろう。

 以上の情報があれば、ロヒンギャ・ムスリムが仏教徒ラカイン人よりも「よそ者」ということはありえないことが理解されるだろうと信じる。千年以上暮らしてきた土地に対する権利を拒絶されるということは、基本的人権が奪われるということである。

 上記の情報や資料によって、ビルマ人、ラカイン人社会の中の偏見を持った人々の中から、ロヒンギャの正しい歴史に敬意を表し、対等な存在としてビルマ人社会に受け入れてくれる人が出てくるのを願うばかりである。



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