ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕  

3 民主主義への回帰(20082015) 


テーラワーダ仏教の伝統 

 すでに述べたように、仏教はビルマ史において複雑な役割を果たしてきた。バガン国王とその後継者たちはある意味、国家と宗教を実質的に融合させ、テーラワーダ仏教の後援者のようにふるまってきた。しかしおなじように、彼らは少数民族や非仏教系のグループに概して寛容でもあった。英国の植民地支配に関する批判のひとつは、仏教界を守ることに本腰を入れなかったことである。それは合法的でない政権であったことを示していた。

 今日の仏教僧の指導者たちは、英国植民地支配より前の国王たちとの間に築いた関係を振り返る。実際、ミャンマーの仏教は、国家と双方向の関係を持ちながら、国家に頼り切った長い歴史を持っていた。国王たちは仏教を強化する必要から国家権力を与え、仏教徒は国に正当性を与えた、「彼らが支援し、庇護し、命じるために、究極的に暴力をおこなう者として。国王たちは、そのような高い道徳性のある見方がもたらす大衆的な正当性を僧侶たちが付与するのを期待した」

 テーラワーダ仏教は、スリランカ、ミャンマー、タイでは一般的である。同様に、この三つの国では地元の仏教徒の指導者たちが他の宗教的な少数民族に対して不寛容である例が数多く見られた。そしてその理由の一つは、この宗派の仏教の解釈にあった。テーラワーダ仏教がつねに極端な愛国主義であったわけでも、他の宗教に対して不寛容であったわけでもない。しかし信仰システムのなかに要素があり、それらは脆弱で、排他的で信条的に純粋な政治形態を組み立てようとする人々に捕らえられてしまっていた。

 こういう状況下で、テーラワーダ仏教のシャーサナ(教え)のなかで重要なのが、宗教と国家権力を結びつけるものだった。前章で述べたように、パガンの支配者は正当性を求めて、慎重に仏教に保護を与える名目で、仏教が広がっていくのを許した。非仏教の宗教に寛容などんな国も、国家と宗教の両方の存在を脅かすと考えられた。

 テーラワーダ仏教徒は是認するかたちでタミルの侵攻勢力を打ち負かしたスリランカの仏教王の行動を引用している。シャーサナを守るために防衛戦争を戦ったので、人命の損失に関するいかなる責任も免れた。彼は実際死んだのは1・5人の「人々」にすぎないと確信していた。ひとりは完全に仏教徒に改宗した敵兵士だった。もうひとりは部分的にしか仏教の戒を受けていなかった。残りの死者はみな非仏教徒だった。彼らは人間ではなく、憐れむ価値すらなかった。彼らの死は彼の永遠の品性に瑕疵をつけることはなかった。

 シャーサナの防衛はいつも受動的とは限らない。1784年のアラカンへの侵攻の際、それは口実に利用された。というのも、民族集団としてラカイン人は根本的に仏教徒であるにもかかわらず、王国は十分に仏教的とはいえなかったからである。大規模なムスリム集団の存在が仏教文化をつねに脅威にさらしていたのである。ここに皮肉は必要なかった。1784年の侵攻は部分的には、アラカンのムスリムの人口がきわめて大きかったからである。このことは、軍事政権や過激主義仏教徒が推し進めてきた、1826年の英国の征服前、アラカンにはムスリムがほとんどいなかった、そしてロヒンギャがここに来たのは英植民地時代という空想物語と矛盾していた。

 しかしながら異なる信仰の人々を通常の道徳的感覚で人間として扱わないなら、この教義はほかの集団への大量暴力を簡単に引き起こしてしまう。多くの過激主義運動に関していえば、基本的な考え方は、ほとんどすべての行動が最終目標で判断されるということである。969運動の場合、目標はミャンマーの統治の中心に着実に仏教を置くことである。

 この意味において、テーラワーダ仏教のこの解釈は、どこかイスラム過激主義のジハーディストの教義と共通するところがあった。彼らもまた、国家にとって、特別な信仰を持つ人々のみ受け入れるのが重要であり、狭い教義からはずれた人々の存在は政界全体への脅威だと主張しているのだ。結果として、ジハーディスト運動にとって、過激な暴力を、彼らの言い方では道徳的には正しい、最終目標として正当化するのは簡単なことだった。

 マシュー・ウォルトンが主張するように、「仏教と愛国主義は(ミャンマーにおいては)ほとんど分かちがたく、よりあわさっている」。この点で、ミャンマーにおいては、テーラヴァーダ仏教を信仰するたいへん多くの人々がビルマ族でないことは、特筆すべき点である。そしてまさに、この国の市民権のための共通の基礎を探し求める人々にとっては、魅力的だった。もしミャンマーを民族的にビルマ族だけの国にできないとしても、単一宗教信仰システムの国にはできるかもしれない。

 仏教が国粋主義者に、すべての国民を束ねるレッテルを与えるかもしれない。さらに、イスラム教は日増しに国粋主義者によって、理想的政治秩序とうまくいかない宗教と認識されるようになった。彼らはムスリムの真の目標が仏教に取って代わることなのではあいかと恐れたのである。この恐怖からつぎのような主張の表現が生まれることになった。「仏教徒がいる地域はアジアでもごくわずかになった。昔はインドネシア、バングラデシュ、アフガニスタン、そしてトルコ、イラクを含む多くの地域に仏教コミュニティがあった。しかしこれらはすべてなくなってしまった」

 ダライラマはこうした仏教の解釈に異を唱え、アウンサン・スーチーに、一般的なイスラム教徒やとくにロヒンギャに対する弾圧を終わらせるよう促した。彼は彼女の拒絶に関してつぎのように述べている。「たいへん悲しいことです。ビルマ人の場合、ノーベル賞受賞者のアウンサン・スーチーに何かをやってほしかった」。彼はのちにもう一度ロヒンギャの苦境について取り上げた。彼は言った。「もしこの瞬間、ブッダが現れたら、絶対にこのムスリムたちを助け、保護したでしょう」

 不幸なことに、ダライラマは違った宗派の仏教の代表者であり、彼の影響は限定されたものだった。彼の宗派はマハーヤーナ(大乗)仏教、すなわちヴァジュラヤーナ(金剛乗)であり、15世紀以降ネパールで支配的になった。[訳注:このあたりの記述はきわめて不正確。7世紀頃にインドからチベットに伝えられた仏教の発展したものがチベット仏教。その最大宗派ゲルク派のトップがダライラマ] 

 ヴァジュラヤーナ仏教は、社会的な無排除性(誰をも受け入れる)を強調する傾向にあるが、個人の行動に重きを置いている。ヴァジュラヤーナがマハーヤーナ仏教とも分かち合えるのは、個人の覚醒のための基本として個人の行動に焦点を当てることである。[訳注:このあたりも著者の考え方はずれている。個人の覚醒に重きを置いているのはむしろテーラワーダ仏教のほう。マハーヤーナ(大乗仏教。ヴァジュラヤーナも含む)は「思いやり」に重きを置き、もしブッダ(覚醒者)になりえたとしても、ならないで、菩薩(ボーディサットヴァ)として衆生を救う] 

 ヴァジュラヤーナは、テーラワーダ仏教がほかからの影響を受けるべきでないとして、政治にかかわるべきではないと考え、また精神的進歩のために、前提条件として、僧院内の生活の重要性を強調することはなかった。実践的な意図と目的において、テーラワーダ仏教が現在のチベット仏教徒と共通するものはほとんどない。西欧の目から見れば、ダライラマはすべての仏教徒に向かって語っているように見えるだろうが、現在のミャンマーにおいては、あるジャーナリストが主張したように、「ダライラマが考えを述べても、それは(近代ヨーロッパの宗教戦争のときに)教皇がプロテスタントに向かって話しかけているに等しい」のである。

 ダライラマだけが、仏教過激主義者と論じあおうとした国際的著名人ではない。いま、過激主義者たちは、彼らを国賊として扱い、彼らに賛同しない人々を特定しようとしている。この流れを懸念した当時の国連事務総長パン・キムンは、このようなグループが「ほかのグループに対して極端な感情を持ち、その潮流によって押し流される危険を冒している。(……)このことが宗教の開祖、ブッダの平和の教えに反しようとしている」と述べている。彼はまたこう主張する。「ミャンマーのリーダーたちは、軋轢を生じさせている誘因となっているものに対して声をあげなければならない。彼らは信仰内部の調和を促進しなければならない。扇動と暴動に巻き込まれないために、立ち上がらなければならない」

 

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