ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕  

3 民主主義への回帰(20082015) 


969運動 

 仏教僧の重要なグループのひとつが、1988年の暴動から生まれた969運動である。この運動は今、ビルマ人とは十分に見なせない人々に対するキャンペーンと関係している。彼らの原則的、イデオロギー的原理は、仏教が仏教徒である国家によって守られるべきという誇張されたパラノイアの形態である。というのも、その国家におけるほかの宗教の存在は、仏教が存続しつづけるためには、永遠に脅威となるからである。その結果、969運動は、宗教的に純粋な国家をめざして、すでにミャンマー中に居住しているにもかかわらず、信仰心のあついムスリムを攻撃したのである。

 重要なリーダーのひとり、アシン・ウィラトゥ師は、その極端な考え方から、仏教のビン・ラディンと呼ばれた。彼の擁護者はときに、このレッテルはメディアの嘘に基づいて貼られたものである、というのも、「メディアはすべてムスリムの所有で、彼らは彼のことを悪く描こうとしている」からである。しかしながら、彼の公にされたスピーチやユーチューブ・チャンネルは、疑いなく彼の本当の考えであり、暴力を扇動していることを隠し立てしていないのである。ウィラトゥ師はしばしば969運動のリーダーとして紹介されているが、おそらくより正確には、テーラワーダ仏教において、すべての伝統を活用した、複数の権力の中核を持った運動の、とくに影響力の大きい派閥を率いていると目されているのだ。

 2008年以来ミャンマーの政治の発展に大きな影響を与えながら、969運動は反リベラルの法と非仏教徒の抑圧を推し進めている。彼らはNLDUSDPがより人間的な政策に動くのを妨げている。そして最近はNLDが十分に反ムスリムでないことを、またもはやミャンマーが純粋な仏教国、かつビルマ人の国でないことを非難し始めた。

 過激民族主義者である969運動は、本来の位置からはるか遠くに移動してしまった。もはや正統派仏教の模範的存在として見られることはない。実際、そのことを、そしてパラドックスにおける名誉を認識している。こうしてウィラトゥ師はムスリムの商店主を批判し、信者たちに商店に対するボイコットを呼びかけた。このような行為は「差別行為ではなく」、むしろ「人々の利益を守るために」おこなわれたのである。彼はまた、ムスリムはすでに仏教徒の商店に対してボイコットをおこなっていると主張した。同様に、最近の異宗教間の結婚の禁止は、仏教の教えとしてではなく、仏教徒コミュニティを守るために必要な方策として正当化された。

 969運動はスリランカのおなじ信徒からインスピレーションを得ていた。暴力と差別は受け入れられる目的があるかぎり正当であると彼らは主張していた。両者とも仏教を「守る」ためなら、異なる宗教の、民族のコミュニティの迫害は正当化されると考えていた。こうして969運動のリーダーたちは、たとえ鼓舞していたとしても、暴行の責任を取ること拒否した。彼らの心の中では、唯一の目的は仏教を推進し、保護することだった。そして、上述のように、犠牲者は真の意味での人間ではなかった。

 もちろんこのように彼らは恐ろしい残虐行為を推奨しているときも、彼らはそうしていないと主張していた。実際、暴力行為を推奨していたのだが。僧侶たちは、暴力を推奨していたわけではないと言うことによって、起きているできごとの責任を負うのを拒絶している。しかし実際に起こった暴力は受け入れられると主張しているのだ。

 彼らがしばしば引き起こす論争は、もし暴力を推進する意図がないなら、つまり話すだけなら、話したことが暴力につながったとしても、道徳的な責任はないのではないかということである。これは重要なことである。というのも、ミャンマーの多くの人は僧侶が言うことに耳を傾け、彼らの意見を尊重するからである。現代の西欧社会では理解しがたいとしても、僧侶の言葉は重要だとみなすのである。以下に論じるように、過激民族主義的な仏教徒運動は、少なからず、多くの貧しい人たちに基本的な教育を与えてくれるのである。

 969運動の過激民族主義を除いても、ミャンマーは宗教的に不寛容になりつつある。仏教の過激民族主義者からの圧力によって、テイン・セイン大統領は人口抑制保険法を成立させた。それは家族の人数に制限を設け、批判されたように、ムスリムにのみ適用されるものである。

 2014年、野党政治家ヒン・リン・オーは969運動を批判したとして刑務所に送られた。そして2015年前半、仏教を侮辱したとして、ひとりのニュージーランド人とふたりのビルマ人に三十か月の重労働刑が言い渡された。彼らはバーのためのオンライン広告を作ったのだが、そのなかでヘッドフォンをしたブッダを描いただけだった。

 

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