(2)南詔にやってきた天竺僧はアラカン僧なのか 

 私が個人的に長年気にしてきた謎について検証したい。それは8、9世紀頃、現在の雲南省に栄えた南詔国(738902)にやってきた何人かの天竺僧(アチャリヤ僧)が実際どこから来たか、という謎である。

 当時、百数十年にわたって、アジアの大きなプレゼンスであった唐、吐蕃、南詔は、同盟を結んだり、戦ったりしながら(たとえば唐と南詔は四度交戦している)、歩を合わせたかのように興隆し、ほぼ同時に衰退していった。この時期はインドの大宗教である仏教が生き残りをかけて、周辺国で布教活動を進めた時期でもあった。とくに大乗仏教(マハーヤーナ)から発展した新しい形態であるタントラ仏教(ヴァジュラヤーナ)は、すさまじく勢いがあり、精力的に吐蕃や南詔で新しい信徒の獲得をめざした。

 8世紀は間違いなく吐蕃(tubo)註1、すなわちチベットの仏教文化の第一次黄金期と言えた。タントラ僧パドマサンバヴァは国中の魔物を鎮め、平安をもたらし、タントラの力を民衆に示した。学僧シャーンタラクシタは密教の教義と哲学を伝えた。[註1:吐蕃の蕃はチベット(bod)の音を反映して番(fan)でなく蕃(bo)と読むと最近は考えられるようになった]

 時の国王ティソン・デツェンとそれに続く国王らの統治のもとで、チベットは領土を何倍にも拡張した。一時期は唐の都長安を占領したほか、敦煌などいわゆるシルクロード沿いの都市国家を支配下に置いていった。そして現在のパキスタン北部(当時の大ボロール国、小ボロール国)までもチベットの領土に組み込んでいった。

 チベット仏教の宗教哲学の面から言えば、吐蕃時代の仏教は四大宗派の一つ、ニンマ派が引き継いでいる。とくにゾクチェンの教えは今も人気があり、多大な影響力を持っている。註2[註2:サムイェー寺で行われた中国仏教僧とインド仏教僧の論争(サムイェーの宗論)はインド側の勝利に終わったと伝えられるが、ニンマ派およびゾクチェンの教えはなぜか、中国的な「頓悟派」である] 

 ただし現在の主流派のゲルク派やカギュー派、サキャ派などは11世紀以降に形成されたものだ。西チベット出身の翻訳官リンチェン・サンポ(958―1055)が厖大な経典を翻訳し、パーラ朝の仏教僧アティーシャ(982―1054)がインドで勢いを失くしつつあった仏教を、チベットに伝えた功績は大きいだろう。そして瞑想システムであるマハームドラーのような実践面も、サキャ派のラムデーやゲルク派の開祖ツォンカパの中観論に見られる哲学面も、チベットで大いに発展し、花開くことになったのである。

 中国が晋朝(265―420)の頃、(てん)、すなわち雲南には(さん)と呼ばれるチベット・ビルマ語族(イ族の祖先)が分布していた。隋朝(581-618)の時期には東と西に分かれたという。おそらくこれらの中から、洱海周辺に群雄割拠していた部落群から六詔(註3)が有力になり、最大勢力の巍山の蒙舎詔が、他の五つの詔を併呑して統一して南詔となった。
[註3:六詔は蒙舎詔、蒙嶲詔、施浪詔、
邆賧詔、越析詔、浪穹詔。これらはチベット・ビルマ語(おそらくイ語)の音に字を当てたもの。音読みしても意味がない。特殊な発音に特殊な漢字をあてている。なお詔は「王」あるいは「王国」を意味するチベット・ビルマ語の語彙に字を当てたもの。六詔はどれもチベット・ビルマ語族と考えられる。]

 蒙舎詔は細奴邏が王位に就いた649年に興隆し、皮邏閣の738年に唐朝からお墨付きをもらって南詔国が成立している。
[イ族の文献では、南詔国は瑪史茲(マシツ)という名で呼ばれている(マシツに漢字を当てたのが蒙舎詔だろう。私見だが、マシツのマシはモソと関係があるかもしれない。チベット・ビルマ語族は古来よりモソ蛮と呼ばれてきた。ラフ族は現在も自称ムッソーだが、ムッソーとモソは同根だろう)]
 
チベット人は南詔をジャン・ユルと呼んでいた。のちにジャン・ユルは麗江(雲南省北部)の木氏が統治するナヒ(ナシ族。旧名麽些、モソ)の国の領土を指すようになった。 

 南詔と古代ビルマの関係で気になるのは、現在では失われてしまった音楽である。南詔音楽は、ピュー国(驃国)の仏教音楽の影響を受けて成立した音楽だという。「驃国は雲南の西にあり、天竺に近い。ゆえに楽曲はみな釈氏(釈迦)の経典のことばに合わせて奏される」と宋代の書にも書かれている。南詔の宮廷で宴が催されるときは、驃国楽が奏された。奏者は196人もいたというから、規模の大きな、荘厳な音楽が奏でられたにちがいない。この驃国楽という音楽は、仏教の中心地バガンで栄えた仏教音楽だろう。

 バガンの土台を築いたのがインド人仏教徒の可能性もあるだろう。その場合、インド人とはアラカンからやってきたインド人のことかもしれない。あるいは、もしかしたら、驃国楽というのは古代アラカン楽かもしれない。雲南からやってきたビルマ族の親戚のピュー族がすでに高度な仏教文化と建築技術を持っていたということは、当地に相当数のインド人仏教徒が定住していたことを意味している。

 さて、天竺僧はどのルートを通って南詔にやってきたのか。「ビルマの道」(中緬公路。英国植民地時代に作られ、第二次大戦中に完成した。しかし古代よりルートはあった)を通ってやってきたのだろうか。アラカンが起点ということはないだろうか。現在と同様、アラカンを出発すると、南詔までは、タイ語族を除くと、住民の多くがチベット・ビルマ語族だった。それは現在のビルマ族、ジンポー族、リス族、アチャン族、ラフ族、ハニ族、イ族などであり、似た言語を話す人々だった。天竺僧は、彼らをガイド兼通訳として雇えば、途中で人材を探す必要がなかっただろう。

 当時のエーヤワディー川流域、とくに仏教の一大中心地となるバガンは、遺物のレンガの特徴から、9世紀までピュー族の統治下にあったと考えられている。9世紀前半に南詔軍が一時的に支配し、そのあとビルマ族がやってきたと考えられている。彼らは異なる民族だが、おそらくみなチベット・ビルマ語族であり、言語的にも民族的にも近親関係にあっただろう。

 バガン南東のサマティにはアリ仏教と呼ばれるタントラ仏教(ヴァジュラヤーナ)らしき仏教が存在した。一説には性力派(シャークタム)も入り混じっていた。このアリ仏教こそ、天竺僧が南詔国にもたらした密教(のちのアチャリ教)と同一ではなかろうか。[アチャリは阿闍梨、すなわちアーチャーリヤ、つまり伝法灌頂を行える僧侶のこと] そうすると、バガンに最初伝わったアリ仏教は、アラカン、あるいはベンガルからインド僧によって伝えられたタントラ仏教なのかもしれない。このサマティあたりには、もしかするとタントラ仏教を信奉するインド人の集団のコロニーがあったかもしれない。

 南詔と同時代に、ベンガルには、現在のダッカの南東100キロに、マイナマティ(ベンガル語でモイナモティ。8世紀から12世紀頃。つまりパーラ朝の時期)という密教の一大中心地があった。天竺僧は決まり文句のように「マガダ国から来た」と呼ばれるが、実際はマイナマティから来たのかもしれない。[たとえば11世紀のモンゴル系契丹人の国、遼の国師慈賢は「摩伽陀(マガダ)国三蔵法師」と呼ばれている] アラカンの可能性だって十分にあるだろう。いずれにしても天竺僧はインド文化の東の果て、仏教がさかんだったアラカンで準備を整えたことだろう。

 雲南タントラ(密)の中心となる神格は、大黒天と観音、毘沙門天だった。伝承によれば、大黒天(マハーカーラ)は南詔国が建てられるよりずっと前に入ってきていた。保山市北西の棲賢山に、漢代、大黒天廟が建てられ、南詔の時代に報恩寺と改名されたという。漢代、すなわち遅くとも3世紀初め頃というのはとうてい信じがたいが、8世紀頃に建てられたとするなら納得がいく。なお八十年代の時点では、大黒天廟は昆明だけでも130座あり、省全体では千座を軽く超えたと言われている。

 「ビルマの道」沿いの町、保山付近に廟が建てられたということは、大黒天信仰がこれに沿ってやってきたことを示している。この道を逆にたどっていくと、現在の中国からミャンマー国内に入り、エーヤワディー川流域を越えて、アラカン山脈(ヨーマ)に達するのである。この自然の障壁ともいうべき山脈の向こうには、インド人仏教徒が住む古代アラカン王国があった。しかし7世紀から8世紀頃、私にとってなじみ深いカシミールやスワートと同様、重大な変化が訪れていた。仏教が衰退し、ヒンドゥー教王朝(ベンガルは仏教主体のパーラ朝)が登場していたのである。(註4)
註4:たとえばパキスタン北部のスワート(ウディヤーナ)は、マウリヤ朝のもとで仏教国となり、バクトリア、シャカ、パルティアの支配を受けたあと、紀元2世紀頃、クシャーナ朝のもと、ガンダーラ仏教文化の中心地のひとつとなった。その後ササン朝ペルシアの一部となり、5世紀に白フン(エフタル)の侵略を受けた。このとき仏像などが破壊された。8世紀から10世紀にかけてはヒンドゥー・シャーヒ朝に支配された。支配者は何度も変わったが、紀元前2世紀から9世紀までの千年以上、この地に仏教は栄えた。1001年にガズニのマフムドが侵攻し、それ以降はムスリムの国となった。1519年からムガル朝の支配を受けた。

 しかもタントラ仏教とヒンドゥー・タントラは急接近し、ときには見分けがつかないほど似ていた。大黒天神もマハーカーラであり、それはヒンドゥー教のシヴァ神の化身でもあった。ただの大黒天は、唐密由来であるというパラドックスがある。彫像に描かれる姿は、不空の弟子、神恺が選定した『大黒天神法』に忠実なのである。おそらく早い時期にはバガンやアラカンから何人もの天竺密教僧が雲南にやってきたが、途絶えてしまい、その穴埋めにするために唐密の密教経典が用いられたのだろう。

雲南の青と赤が基調の大黒天。日月迦羅(カーラ) Photo: Mikio Miyamoto

 一方で、大黒天神、観音、毘沙門天(チベットでは財神として知られる)がチベット人好みであることから、これらの天竺僧はチベット経由でやってきたのではないかという説もある。

 8世紀はインドでヒンドゥー教が躍進した時代でもあったので、それに対抗して仏教(とくにタントラ仏教)の布教も積極的に行われていた。上述のチベットに仏教を広めた第二のブッダ、グル・リンポチェとして親しまれるパドマサンバヴァ(蓮華生)もその一人と考えられる。

 南詔においてパドマサンバヴァの役目を負ったのは、マガダ国から来た大灌頂師チャンドラ・グプタ(賛陀崛多)である。彼は南詔にやってくると、国師となり、第十代国王豊佑の妹を妻にめとり、王侯貴族全体を密教信徒に引き入れていった[伝説によれば、チャンドラ・グプタは醜く、国王の妹に嫌われていた。しかし呪術が功を奏したのか、彼女のほうから彼のもとにやってきた]。

 あくまで伝説的存在だが、チャンドラ・グプタより前に、観音大士と呼ばれる長い髯を生やしたインド密教僧が雲南にやってきた。名前から判断すると、彼は観音信仰を広めたのだろう。四川では(資中県重竜山摩崖窟、安岳県石窟、重慶市大足北山石窟などに千手観音像が残っている)観音崇拝がさかんで、それが雲南にまで広がったのかもしれない。ともかく、この伝説的な観音大士は、多くの弟子を率いて南詔の都大理にやってきた。

 観音大士の第一弟子の楊法律は「本天竺人」と記されていることから、インド人であったと考えられている。彼を含めた七名の「南詔七師」は灌頂国師であり、精力的に密教の教えを伝授した。明代の『雲南通志』によると、楊法律のほか、董奨匹、蒙閣皮、李畔富、段道超の五人は鬼神を使い、風雨を招き、竜水を征し、災難や疫病から(人々を)守った。(七人のうち残る二人の)張子辰と羅邏倚は西インド人と考えられている。

 こうしてタントラ仏教は国(南詔)の命運を握るほどの権力を持つに至った。しかし、現在も活きた宗教として世界中に信徒を持つチベット仏教に対し、(民俗宗教として同化したものを除くと)雲南密教()は、剣川(剣川県石鐘山)の石窟や磨崖仏のような遺物としてしか残っていない。伝わった密教も初期のものだけであり、『秘密集会タントラ』『へーヴァジュラタントラ』のような後期密教の経典は伝わらなかった。9世紀後半以降は、雲南にやってくる天竺僧そのものの存在が消えていたのである。

 ここで唐密(唐代の密教)にも触れておきたい。というのも、南詔の寺院が唐僧摩伽陀によって建立された、という記述があるからだ。唐で長年活動していた(西域経由の)インド人密教僧が南詔にやってきた可能性もあるだろう。

 唐では8世紀、不空(705―774)という偉大な高僧の登場によって、密教は隆盛を見る。不空の翻訳した経典は『金剛頂経』のほか、持明経典、瑜伽法経典、陀羅尼経典、真言経典、大乗経典など数百にものぼる。そして多くの寺院を建て、広州の法性寺には灌頂道場を開き、数千人を弟子に取り、教えを広めた。不空の六大弟子のうちもっとも知られるのは恵果である。その恵果に804年、西安の青龍寺で面会したのが空海だった。空海は灌頂を受け、胎蔵界法、金剛界法を授かる。そして阿闍梨の位を得ることができた。こうして密教が日本に伝わったのである。(空海より二十年以上前の781年に、新羅僧恵日が恵果から灌頂を受け、密教の灯は朝鮮半島にも伝わった) 

 話を雲南に戻そう。大理国の時期(938―1254)になると、密教儀礼がさかんにおこなわれている。毘盧遮那(大日如来)を中心とする儀礼について記した『広施無遮道場儀』、大黒天の儀礼について記した『大黒天神道場儀』は今でも残っている。さまざまな密教経典は唐の不空が訳したものが多かったかもしれない。マイナマティで発展した後期密教は結局根付かず、あるいは伝播せず、中国密教(四川密教)の影響が圧倒的に強くなった。アラカンの王朝がヒンドゥー教を信仰するようになったのも、天竺僧が来なくなった要因の一つだろう。

 フビライ・ハーンのモンゴル軍によって大理国が滅ぶと、雲南でもチベット密教が優勢になっていく。雲南北部はチベット人が分布し、明代以降はいくつか寺院が建てられた。またナシ族にもチベット仏教徒が増えた。ただしチベット自治区の塩井(ツァカ)から雲南省の徳欽(デチェン)にかけてのチベット族の多くはカトリック教徒である。一方、雲南密教はアチャリ教(阿吒力教)と呼ばれる土俗化した宗教として残っていく。そして主に白族が信仰する「本主教」と呼ばれる土俗宗教に吸収されていった。

 ところで南詔にイスラム教は伝播していたのだろうか。清朝康煕三十三年に記された昆明の永寧清真寺の石碑によれば、この清真寺(モスク)が建てられたのは、唐代初め、すなわち南詔の初期だという。すると8世紀には、南詔にある程度のムスリムが存在したことになる。また『新唐書』「南詔伝」によると、801年、唐と南詔連合軍は吐蕃、康国(サマルカンド)、黒衣大食(アッバース朝)連合軍に大敗を喫している。これがタレスの戦い(751年)と同一かどうかはわからない。一部の専門家は、この時期にはじめてイスラム教が南詔に入ってきたと考えている。一方ビルマ年代記によれば、9世紀半ば、中国(南詔?)とビルマの国境地帯にムスリムが定住していたという。

 いずれにしても雲南に大量のムスリムがやってくるのは、モンゴル軍が侵攻してきた元代の13世紀のことだった。その後雲南はイスラム教徒の多い地域となり、19世紀半ばには杜文秀率いる回族軍が雲南全体を一時的に治めたことがあったほどである。

 さて、ここでもう一度古代アラカンの状況について考えてみよう。古代アラカンはインド人居住地域であり、また仏教の最前線地域だった。早ければマウリヤ朝の頃、すなわち(天竺僧と同名の)チャンドラ・グプタ王の紀元前300年頃、すでにアラカンにはインド人が住んでいたかもしれない。アラカン・インド人は仏教徒だったが、次第にヒンドゥー教が優勢になっていった。そして彼らの多くはイスラム教を信仰するようになった。彼らの子孫が現在のロヒンギャであっても不思議ではないだろう。




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