(3)アラカン・ヒンドゥー王朝 


アラカン最初の王城 

 かなりはっきりしているのは、10世紀にバガン朝のビルマ人がやってくるまで、アラカン(ラカイン)の支配民族がインド人であったことだ。チャンドラ(サンドラ)朝はヒンドゥー王朝であり、王族も民もインド人だった。国王の名も、川の名称など地名の多くもインドの言葉だった。考古学的な遺物、とくにウェータリーに残る神像は彼らがヒンドゥー教を信仰していたことを示していた[考古学的な発見でいえば仏教関連のもののほうが多い]。ムラウーのシッタウン寺院に残るガーウディ文字(ベンガル文字の祖型)で書かれたアナンダ・サンドラ石碑の碑文は、ロヒンギャ語に近いインドの言葉で書かれていた。

 問題は、古代アラカンのインド人と現代のアラカンのインド人(ロヒンギャ)との間に直接的なつながりがあるかどうかだ。ロヒンギャを外国人とみなしたい人々は、両者はまったく関係がないと見る。わたしに言わせてもらえるなら、古代インド人と現在のロヒンギャの間に血のつながりがないのなら、前者がいつ、どのようにアラカンの地から消えたか、証明しなければならないことになる。よほどのことがなければ、人は住んでいる地を離れようとは思わない。しかしこれについてはあとで詳しく検討することにしよう。

 4世紀、アラカン・チャンドラ王朝の最初の都がダニャワディに建てられた。この名はゴータマ・ブッダのシャーキャ国の王城にちなんだものである。ここに宮殿があり、その北東にマハムニ寺院があった。ここから5世紀頃の仏教の神像が出土している。それらはナーガラージャ、ローカパーラ、ボーディサットヴァなどである。


ウェータリーに遷都。仏教、ヒンドゥー教信仰ともさかんに 

 6世紀、王朝は都をウェータリーに移した。これ以降を第二次チャンドラ王朝と呼ぶ。ダニャワディから西へ(すなわちロヒンギャが集中的に住む地域の方向へ)8キロほど行くと、カラダン川沿岸向かい側にチャウトーの町がある。チャウトーの対岸の丘が聖地セラギリであり、ここから7世紀頃の赤い砂岩で作られたレリーフが出土している。仏教美術として見ると、その様式はインド北部の仏教文化の中心地やビルマのシュリー・クシェートラ(タイェーキッタヤー)と関係があった。ここは伝説によれば、ブッダ本人が上陸した聖なる場所である。レリーフにはブッダの生涯(ブッダの悟り、第一結集、涅槃など)やボーディサットヴァが彫られている。セラギリは仏教の伝教団が上陸した場所なのではなかろうか。

 ウェータリーから出土したこの時代の代表的なブロンズの仏像が二つある。これらはセラギリより少しあとの時代といわれる。一つはパドマーサナ(蓮華座、結跏趺坐)に坐り、(手がもげてしまっているが)ヴィタルカ・ムドラー(説教の印)を示した仏像。もう一つはアバヤ・ムドラー(施無畏の印)を示した立像。これらはベンガルの仏教センター、マイナマティと深い関係にあると考えられている。もしかするとこれらはマイナマティで作られたのかもしれない。

 もう一つ、ウェータリーから出土したものに、プラバヴァリー(枠組み)に入った菩提(ボーディ)の木の下に立つブロンズの仏像がある。これもヴィタルカ・ムドラーのポーズを取るマイナマティ様式の立像で、8世紀頃の作と考えられている。また同時期(7-8世紀)と考えられるボーディサットヴァ・マンジュシュリー(文殊菩薩)の座像がダニャワディの城壁のストゥーパから見つかっている。

 第1章で触れたウェータリーのヒンドゥー教の神々も、7-8世紀に作られたと考えられている。これら赤い砂岩の神像のなかで目につくのはヴィシュヌ像である。頭部も上の腕二本も失われているが、下の腕二本はそれぞれチャクラデーヴァとガダ・デーヴィの上に置かれている。この子供ふたりをつれているような立像のポーズは、サマパーダスターナカと呼ばれる。子供ふたりに見えるのは、じつは武器(右手の下はチャクラ、左手の下はガダ)である。ほかにも女神ガンガーや門神などの立像が確認できる。

 チャンドラ朝の王族はシヴァ神の後裔と称していた。出土しているコインの柄からもわかる。そこには寝そべる牛(シヴァの牛ナンディーだろう)が描かれ、サンスクリット語で王の名が刻まれる。裏面にはシュリーヴァトサという吉祥を表わす王の紋章が描かれている。

 こうして見ると、ヒンドゥー教信仰は早くから始まっているが、仏教信仰もつづいていたように思われる。またバガン朝の仏教徒の人々がやってきてアラカンを支配下においたが、ヒンドゥー教信仰はあいかわらずさかんだった。これはまだ被支配者のインド人が多数派だったからかもしれない。ムスリムの人口比が飛躍的に大きくなるのは、ベンガルにムスリム王朝が成立する1202年以降のことだろう。

 ダニャワディ朝時代(4世紀ー6世紀)、ウェータリー朝時代(6世紀ー10世紀)とムラウー朝時代(1404-1794)の間にレムロ谷の王朝時代があり(都はピンサ、パレイン、クリ、ラウングレ、そしてトウング・ネインザラと移っていった)、その時期の12世紀に作られたヴィシュヌとラクシュミー像のレリーフ(レムロ様式)がセラギリから出土している。これはアラカンではビルマ人がもたらした仏教が優勢であったが、先住民のインド人がまだ多く残っていて、彼らが引き続きヒンドゥー教を信仰していたことを示している。


シッタウン寺院の石碑はインド人の王朝があった証拠 

 ムラウーのシッタウン寺院の石柱は、8世紀にアナンダ・サンドラ(アーナンダ・チャンドラ)国王によって立てられたものである。これにはガーウディ文字(ベンガル文字の古体)で、ベンガル語に似た(つまりロヒンギャ語に似た)文体で書かれた65の詩篇から成る碑文が刻まれている。欠損が多く、文字からは発音がわからないので、正確なことは言えないが、古代ベンガル語に近く、古代ロヒンギャ語に近いであろうと推定はできる。古代アラカン(ラカイン)を統治していたのがインド人であったのは間違いないだろう。

 詩篇64には、アーナンダ・チャンドラはシヴァ・アンドラ王朝の後裔であると記されている。その王国は、ベンガルのゴーダヴァリ川とクリシュナ川の間にあり、ベンガル湾に近かったという。王朝の始祖はヴァジュラ・シャクティ(在位649-665)で、その後を継いだのがシュリー・ダルマ・ヴィジャヤ(在位665-701)だった。このダルマ・ヴィジャヤはテーラワーダ仏教ではなく、大乗仏教を信仰していた。つぎの王がナレーンドラ・ヴィジャヤ(在位701-704)で、そのつぎがアーナンダの父親であるシュリー・ダルマ・チャンドラ(在位704-720)だった。アーナンダ・チャンドラは大乗仏教とヒンドゥー教の両方を保護した。


碑文の言語はロヒンギャ語に近い 

 パメラ・グトマンはつぎのように述べる。
「今日でもなおアラカン北部の人々、とくにバングラデシュ国境に近い人々は古代碑文とおなじ言葉を話す」と。サインダン(Saingdan)やブーティダウンに近いドゥダン(Dudan)に住む人々は碑文の言語カーレー(Khale)語をすらすらと水が流れるようにしゃべるという。マハムニ碑文やアナンダ・サンドラ碑文(シッタウン碑文)の言葉は現在のロヒンギャの言葉に近い。ビルマ系ラカイン人が入ってきた10世紀半ば以前からアラカン(ラカイン)に住んでいたインド人が、そのまま住み続け、イスラーム信仰を持つようになったと考えるのが自然である。

シッタウン寺院 

ではシッタウン寺院とは何なの 
 シッタウン寺院がいかに重要であるかは、宣教師マンリケの旅行記やそれについて書いたモーリス・コリスの著書を読めばあきらかである。マンリケがアラカンに着いた頃、(国王ではなく12人の王の)戴冠式がおこなわれたが、その第一会場は宮殿で、第二会場が宮殿から数百メートル離れたシッタウン寺院だった。戴冠式のセレモニー自体はこの寺院でおこなわれたのである。宮殿からシッタウン寺院への華麗なる行進は庶民の目に触れる数少ない機会だった。ムスリムの部隊はたくさんあったようだが、その司令官たちはこの仏教寺院に入るのが許されなかった。また片腕を戦闘中になくしていたポルトガル人船長は、招待されていたにもかかわらず、その身体的障害を理由に入るのを拒まれてしまった。

 ティリ・トゥダンマ国王(在位1622-38 またの名をミン・ハリ、ムスリム名はサリム・シャー二世)の時代はシッタウン寺院を建てたミン・ビンの時代から百年がたっていた。この百年がアラカンの最盛期だとする論者も多いようである。ミン・ビンはベンガルに遠征し、チッタゴンを統治下に収めたあと、インド人工匠や建築家を連れて帰国した。

 モーリス・コリスに言わせると、シッタウン寺院にはヒンドゥー教のにおいがするという。考えてみれば、この時代はインド内ではすでに仏教美術や仏教建築に通じた人がいなくなっていたので、ヒンドゥー様式を採用したのかもしれない。ヴィシュヌ像などもあったというので、もしかするとヒンドゥー教信者のためにも造られたのかもしれない。

 シッタウン寺院の石柱は寺院の建築のときに作られたものではなく、都が遷るたびに石柱も移ったのではないかとパメラ・グトマンは述べている。ヒンドゥー・インド人が統べた時代とはいえ、アラカン王国の歴史が長いことをこの石柱の碑文が証明していて、国宝の価値があるといえるだろう。


碑文の読解(ロヒンギャの歴史家ウー・チョー・ミンによる) 

左面
1―40 idan maya Krtam    この愛し方 
1―41 iva damsadesa     この邪悪な国(?) 
1―42 Areka desa vijayam  勝利の国アラカ 

中央面 

Yaksapura ラクサプラの王 (インド人によるアラカンの古代名)

右側面 

Ha maharajah 
Ghya sri Govindra Candra  
Devatam karta  
Tattasya deva  

詩篇 4番 
石柱の言葉  ロヒンギャ  ラカイン   訳 
Tatori     Tarto     Tonauk    そのとき 
Jagata    Jagat     Kabba    世界 
Varsam    Vasar    Hnaik    年 
Satam    Shat     Thara    百 
Bhupalo    Bhupal    Aashin    強い者 

詩篇 5番 
 
石柱の言葉  ロヒンギャ  ラカイン      訳 
Tena     Tene     Thu        彼 
Krtm     Karten    Loukthi      ~をした(did
Rajyan    Rashtri    Oukchoukthi   統治 

詩篇 6番 

石柱の言葉   ロヒンギャ   ラカイン       訳 
Nama     Naame     Ameeshi     名づけた 
Raja       Rajah     Bayin/Min      王 
Jani a Sakat  Janatere    Oyithugo/Ludugo   公に 
Toto Raja    Raja Tara Jane Bayin Mya Thie Zi  王は知る 

詩篇 7番 

石柱の言葉   ロヒンギャ   ラカイン       訳 
Ikam     Ekk       Thaik       一 
Thasmad   Tharfar     Tohnauk     そのとき 

詩篇 8番 

石柱の言葉     ロヒンギャ  ラカイン       訳 
Nitiri Vikramap  Nitimote   Thara Thaaphyint   正当に 

詩篇 52番 

石柱の言葉   ロヒンギャ   ラカイン  訳 
Deni Deni   Deni Deni    Nezin    毎日 


 ウー・チョー・ミンはおそらく意図的にベンガル語を示していない。ロヒンギャとベンガル人はまったく異なるという主張に反するからだろう。私自身の考えでは、チッタゴン語(ベンガル語の方言)とロヒンギャ語は異なるが、おなじベンガル語に属している。しかしこのあたりのことは言語学者に任せたい。

 この石碑からわかることは、10世紀にバガン朝のビルマ人がやってくるまでアラカン(ラカイン)を支配していたのがヒンドゥー教徒のインド人王族であったことだ。考古学的な見地から、ヒンドゥー教徒よりも仏教徒のほうが多かったかもしれないことがわかる。仏教には大乗仏教とテーラワーダ仏教の両方があった。テーラワーダ仏教徒のビルマ人(のちのラカイン人)がアラカンを支配してからも、かなり多くのヒンドゥー教徒が残っていた。しかしベンガル人と同様に彼らの多くがムスリムに転向する。



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