(3)いつのまに彼らはムスリムになったのか 

 いつのまに彼らはイスラム教を信仰するようになったのだろうか。ベンガル全体がイスラム化するずっと前、8、9世紀には、アラカン(ラカイン)沿岸部に種が蒔かれるように、イスラム教信仰が点在するようになった。

 伝説によれば、7世紀後半、ムハンマド・イブン・ハナフィーヤ(預言者ムハンマドの従兄弟であり、娘婿アリーの息子)率いるアラブ人たちがアラカンに定住した最初のムスリムとなった。彼は女王カイヤプリと結婚し、彼女はムスリムに改宗した。アラカンの民も集団でムスリムに改宗したという。彼らが住んだ山は、今もハニファ・トンキ、カイヤプリ・トンキと呼ばれている。[ハニファは部族名] 

 クルアーンの時代の主要人物がアラカンに来たとはとうてい信じられないが、海の覇者であったアラブ人が早い時期にアラカンに来たとしても、それほど不思議なことではない。この年代が正しければ、女王カイヤプリはもともと仏教徒だったであろう。もう少しあとの8、9世紀であればヒンドゥー教徒であったに違いない。いずれにしてもアラカンの民はインド人(ベンガル人)だった。

 こうした伝説が示すように、ムスリムのアラブ人商人がイスラム教の運搬役になっていた。そのことを端的に表すのが、788年、アラブ船がラムリー島沖で難破したエピソードである。

[注:第二次大戦中、日本軍が英国軍と戦って敗れ、一説には千人の兵士がワニの餌食となったことで知られるラムリー島。現在は中国の支援でチャウピュー港が建設され、雲南省昆明までの中緬原油ガス・パイプラインが通された。数はわからないが、ワニは現在も相当数棲息している]


Photo: Mikio Miyamoto
ラカイン沿岸部はのたうち回る蛇のような川だらけ。機内より撮影 

 アラブ船の船員たちはウェータリーの王宮に送られ、そのあと近郊の村に定住させられた。当時の王朝は、ヒンドゥー教を信仰していた。一方国民は、ヒンドゥー教徒、仏教徒が入り混じっていただろう。そこに一滴のイスラム教のしずくが落とされたにすぎなかった。しかしそれから四百年後、インド系の先住民の多くがムスリムになっていた。

古代ビルマの偉大なる王として知られるバガン国アノーヤター王(10141077年)は、アリ仏教と呼ばれるタントラ仏教を含む大乗仏教を排除し、モン族が信仰するテーラワーダ仏教(上座部仏教)を国教として採択した。アリ仏教はインド色が強く、インド寄りの政治的な勢力に飲み込まれることを恐れたのではなかろうか。あるいは、タントラ仏教が初期の仏教から逸脱しすぎたと感じ、より原始仏教に近い形態を選択したのかもしれない。アラカンの仏教は、タントラ仏教を含む大乗仏教とテーラワーダ仏教の混在であったと思われるが、後者が次第に優勢になっていった。こうしてビルマ系のラカイン人はほとんどが仏教徒で、インド系のアラカン人はまだヒンドゥー教徒も相当残っていたが、ムスリムが目立って増えていた。

 11世紀後半、アノーヤター王を継いだチャンシッタ王は、ラムリー島から3000人のインド人捕虜を連れ帰った。そして彼らをミンチャン(Myint Kyan)とミッティラ(Miktilla)に分けて定住させた。ラムリー島にさえこれだけのインド人がいるのなら、ラカイン全体にはどれだけインド人がいたのだろうか。

  ベンガルが本格的にイスラム化したのは1202年頃と言われる。この年に何があったのだろうか。具体的には、中央アジアのテュルク系民族出身のムハンマド・バフティヤール・ヒルジー率いるヒルジー部族(Khilji ハルジーとも)によって、ベンガルが征服された年であった。これによって、ベンガル全体が一挙にイスラム化したのである。[註:これはベンガルのイスラム化の第一波にすぎず、第二波、第三波とつづく] 別の言い方をするなら、ベンガル領内の仏教が絶滅した年であるともいえる。アラカンにおいても、ベンガル人(ロヒンギャ)の多くはイスラム教に転向し、インド系の仏教徒はいなくなっていた。

 21世紀に入り、アルカーイダやISなど原理主義テロリスト・グループによるテロが横行するようになると、古い時代のイスラム教はより原理主義的だったのではないかと誤解されがちだが、実際はその逆である。イスラム教の普及に、原理主義者の目の敵にされることもあるスーフィズム(神秘主義)が役に立っていた。[註:最近では2022年4月、ラマダン期間中、アフガニスタンで原理主義テロリストグループISKが二つのスーフィー・モスクで自爆テロを行っている] 

 神との合一をめざす神秘主義者は、エクスタシー体験を重視した。
旋舞するダルウィーシュやカッワーリー音楽もエクスタシーを得る方法である。もっとも一般的なスーフィーのトランス会得法に、「神を思い出す」ズィクル(Dhikr)という(通常は集団の)瞑想法がある。こういう神秘体験に魅力を感じてイスラム教に入った人もかなりいたのではないかと思われる。[註:現在スーフィーの伝統は途絶えてしまっているように思える。ロヒンギャの主流はデーオバンド派である] 

 10世紀以前から、スーフィーは信仰の拠り所となるダルガー(聖廟)を各地に、とくにアラカン内の沿岸部に多く建てた。ベンガルのパーンチ・ピール(五人のスーフィー聖人)信仰もスーフィズムだった。この伝説に歌われるピール・バドルは、実際にアラカンの宮廷にやってきたとされ、たとえばバドル・ダルガーのように、その名がダルガーに冠されている。(パーンチ・ピールに関しては次章で詳述)

 ベンガルを中心に見た場合、ベンガル・スルターン朝(1352―1576年)の時代に、アラカンのインド系のムスリムになっていない人々もイスラム教に改宗し、支配者層(ビルマ系)も一部はイスラム教を信仰した、あるいはビルマ名のほかにイスラム名を持つなど、ムスリムのふりをした。アラカンの王族もまたスルターン国と呼ばれたかったのかもしれない。また一部の歴史家は、当時チッタゴン地区はアラカンの一部だったと主張している。つまり百年間以上にわたって、チッタゴン地区とアラカンは一つの国であり、民族もかなり混じり合ったということである。一方、アラカンはベンガルの準属国だったと主張する歴史家もいる。つまり、アラカンはチッタゴン地区を併せて大きな国になっていたが、同時にベンガルの準属国になっていたということだろうか。

 このようになる経緯は以下のごとくである。アラカンのイスラム化を促進したのは、アラカン王ナラメイッラ(ミン・ソー・モン)のベンガル亡命だった。1404年、ビルマ(アヴァ朝)からの圧力に屈し、アラカン王はベンガルの都ガウルに庇護を求めた。しかし亡命中、新しい戦術を示してジャウンプールからの侵略を撃退することに成功し、イリャス・シャヒ朝のスルターン・ギヤスッディンから高い評価を得た。

 イリャス・シャヒ朝第一期と第二期の間のスルターン・ジャラールッディンは、ワリ・ハーン将軍率いる5万人の軍隊をアラカンに送った。しかしワリ・ハーン将軍はビルマ軍を駆逐すると、自ら王となった。スルターン・ジャラールッディンはサンディ・ハーン率いる第二の軍隊を送り、ワリ・ハーンを失脚させ、亡命していた君主ナラメイッラを復位させた。これは1430年頃のことである。サンディカン(サンディ・ハーン)・モスクがムラウーに建立されたのもこのときだった。しかし問題は、アラカン王が傀儡になってしまい、ベンガルに操られるようになってしまったことだった。ナラメイッラ国王がアラカンに戻ってきたとき、1万人のパタン人(パシュトゥーン人)の随行員もいっしょだった。彼らが新たにスタートしたムラウー王朝に大きな影響力を持ったであろうことは、想像に難くない。[註:パタン人とはパシュトゥーン人、すなわちアフガン人のこと。現代のタリバンもまたパシュトゥーン人から生まれた原理主義組織。インド史てはしばしばベンガルなどにスルターン国を樹立した] 

 16世紀はじめ、ムラウー朝第9代国王ザラタ・ミン・ソー・モンは、ウー・カディル、ハヌ・メアー、ムサ率いるインドから来たムスリム布教団にイスラム教の宣教を許可した。彼らはさまざまな場所にモスクを建て、さらにインドから新たに宣教師を招いた。この布教団は何十年も活動し、その成果は大きかった。驚くほどたくさんの人々がムスリムに改宗した。

 ムラウー王朝の第11代国王ミン・バジ・ザバウ・シャー(在位1531-1552)のとき、年長の仏教徒が警告を発した。国王は朝廷でこの問題を論じ、布教活動を停止させた。しかしすでに数十万人ものムスリムが生まれていたという。

 ベンガル・スルターン朝の最後の王朝、アフガン人(パタン人、パシュトゥーン人)のカララーニー(Karrani)朝は、1576年にムガル帝国のアクバルに滅ぼされ、ベンガルはムガル帝国に併呑された。この時期、ムガル帝国の版図はベンガルからアフガニスタンに及ぶ世界的な大帝国であり、ベンガルの準属国的な地位にあったアラカンは、そのままこの大帝国の準属国に横滑りしたことになる。

 17世紀には二人のベンガル詩人がアラカン朝廷に重用された。ダウラト・カズィは、ティリ・トゥダンマ王のときに『サティマイナ・ロル・チャンドラニ』という詩文集を編纂した。カズィが急逝したため詩文集は完成しなかったが、代わりに完成させたのがアラオルだった。
彼の代表的な作品は『パドマワティ』だった。これはメワル国の女王パドマワティの生涯について北インドのスーフィー詩人ジャヤシが書いたものを詩文で表したものである。このようにムガル朝の洗練された華やかなイスラム文化がアラカン王朝を満たしていたのである。彼らはムガル文化、ベンガル文化に強くあこがれていたが、ビルマ文化に対してそのような気持ちを抱くことはなかった。


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