(11)外国人扱いされるロヒンギャ 

  現代のロヒンギャが外国人とみなされた理由は、彼らの見かけがインド人であり、言葉がベンガル語の一種で、イスラム教徒であったことだ。主体民族であるビルマ族からすれば、真のミャンマー人は、モンゴロイドの顔立ちで、ビルマ語を話し、仏教を信仰していなければならなかった。もちろんこの論法で行けば、大半がキリスト教徒の少数民族は(多数はプロテスタントで、一部がカトリック)真のミャンマー人ではないことになってしまう[註:少数民族にクリスチャンが多いのは、長年にわたる数多くの宣教師の布教活動の賜物。代表的な宣教師はアドニラム・ジャドソン(1788―1850)。彼の影響で現在もバプティスト教会が最大教派]

 ロヒンギャはたんなる外国人ではなく、移民外国人(バングラデシュ人)、ないしは不法労働者と見なされてきた。だからこそ、迫害され、ジェノサイド(大量虐殺)の憂き目を見て、何十万人もの難民が国外へ脱出することになってしまったのである。

 不法移民説もどうかと思うが、ヘイト混じりのはなはだしいバングラデシュ人難民説というのがある。インドから東西のパキスタンが独立した後、1971年、ベンガルがパキスタンからの分離独立を求めて戦争を起こした。その際に何十万人ものベンガル人がアラカンに入ったとされる。ウー・キン・マウン・ソーはつぎのように述べる。

 1971年、東パキスタンで独立戦争が勃発した。150万人から200万人の難民がアラカンに発生した(アラカンに逃げ込んだ)。今日自分がロヒンギャだと主張している人々のほとんどは、バングラデシュから越境してビルマ内に(ラカインに)定住した人々の子孫である。その証拠は、この集団の人々がビルマ内で話されるいかなる言語も話せないという事実のなかにある。(2016)

 
不法移民説に加えて、こうしてついにバングラデシュ人難民説まで登場したのである。不法労働者ならまだ稼ぎがあるからいいものの、貧困地区でこれだけの難民を迎え入れるのは不可能だろう。1973年の調査でラカインの総人口は170万人、1983年の調査で210万人にすぎないのに(40万人の増加は自然増加だろう)どうやってそこに入り込むことができるだろうか。キャンプに収容されていた難民はバングラデシュに送還された。竜王作戦の頃、ロヒンギャ難民が発生しているが、バングラデシュ難民が話題にもならなかったのは、とっくに解決していたからだろう。 


 ロヒンギャ不法移民説やかつてのムスリムとロヒンギャ・ムスリムは別物と主張するのは、ミャンマーの歴代の軍事政権だけでなく、驚くべきことに、一部の欧米の歴史家や識者が唱える説でもあった。

 とくに影響力の大きかった知識人の一人は、英国の外交官デレク・トンキン氏である。彼はアラカンに長く定住するムスリムの存在を認めたものの、ロヒンギャは彼らとは別という見解を示した。そもそもロヒンギャという言葉が、いや概念自体が、ビルマ独立(1948年)以前には存在しなかったと主張した。彼はバクスターのレポートを引用しているが、バクスター自身が(ロヒンギャという言葉を使わなかったとしても)ロヒンギャを古くから定住する人々として認識していた。ロヒンギャという言葉・概念の存在と、ロヒンギャの存在の古さが無関係であることを、トンキン氏はなぜ認めようとしないのだろうか。論理を捻じ曲げてまでミャンマーの軍事独裁政権の味方をするのはなぜなのだろうか。


 
しかしトンキン氏以上にやっかいな存在は、ルクセンブルク出身のラカイン史、ミャンマー史の権威である歴史家ジャック・ライダー氏だろう。彼は、英国によるアラカンの植民地化(1826年)以前のアラカン・ムスリムとロヒンギャは同じ人々ではないと主張する。そうだとすると、古代アラカンに仏教をもたらし、ヒンドゥー教を信奉したベンガル人(ベンガル、あるいはバングラという言葉・概念は1000年頃生まれた)は、どこへ行ったのだろうか。

 ビルマ軍がアラカンを侵略し、併合した1785年から1798年にかけて仏教徒のラカイン人を含むアラカン人全体の3分の2がチッタゴン地区に逃げたと言われる。その多くはコックス大佐によって受け入れられ(そこは英領インドだった)定住した。そこはコックスバザールと呼ばれるようになった。現在ロヒンギャ難民キャンプとして知られるコックスバザールである。すぐ帰れる場所にいたからこそ、1826年の統計でアラカンに3割ものムスリムがいたのではなかろうか。1785年以前は、3割よりはるかに多かったのだろうけど。彼の主張が裏付けとなって、国軍による虐殺が起きたとするなら、この歴史学の権威は罪深いと言えるだろう。


 軍事政権だけでなく、仏教界(とくに一部の過激民族主義者)や2021年2月1日のクーデターまでの数年間、政権中枢部にいたアウンサン・スーチー氏をはじめとする
NLD幹部ら民主派の人々までもが、ロヒンギャを外国人と考えていた。一国の政権や国民が常識と考えていることに対し、外国人が異を唱えることができるだろうか。

 ロヒンギャ問題に関して沈黙を守ってきたことに対し、アウンサン・スーチー氏は国際的な批判を浴びてきた。彼女の言い分は、暴力の恐怖にさらされているのはロヒンギャだけでなく、仏教徒もおなじだということである。仏教徒である彼女からすれば、ロヒンギャの暴力のほうこそ「恐怖の風潮(climate of fear)なのである。コミュナル・バイオレンス(共同体間暴力)の連鎖を断ち切ることこそ重要なのに、彼女は動こうとしなかった。基本的に大半の仏教徒のミャンマー人がムスリムを嫌い、ロヒンギャに対してシンパシーを感じていなかったからである。人権侵害を問題にしてロヒンギャに同情を示すようなら、国民からそっぽを向かれる恐れがあった。それにおそらく彼女自身にイスラームに対する嫌悪感があったのではなかろうか。
 


 ラカイン人とビルマ族はをルーツを同じくする民族であり、同じ仏教徒なので、良好な関係にあると誤解されがちだ。しかし一方が他方を侵略するという行為は、やられた側に深い傷を残すことになった。魂の拠り所であるマハムニ・ブッダをも奪われたラカイン人も、カレン族(カイン族)やカチン族、チン族といった少数民族と同様、中央の軍事政権と長年戦ってきた。ラカイン人の反政府武装組織の仮の本部はラカイン州から遠く離れ、中国との国境地帯(カチン州)に置かれているという。[註:私自身、中国側から許可を得てカチン州に入ったことがあるけど、そのあたりは中央政府の権限が行き届いていなかった]ビルマによるラカインの併合は、いわば武力による強制的なものだった。仏教徒という共通項があるものの、共同歩調を取るのは難しいが、皮肉なことに、ロヒンギャ・ムスリムへの迫害に関しては息があっていた。



⇒ つぎ