(14)ロヒンギャから生まれたテロ組織 


ムジャヒドの反乱 

 第9章で述べたように、ムスリムと仏教徒の証言が食い違うので、どちらが正しいと安易に言うことができない。ただはっきりしているのは、ビルマ独立軍(BIA)に煽られた各地のラカイン人仏教徒の武闘集団がムスリムの村々を襲い、家屋を焼き払い、女子供を含む多数の人を殺害したことである。難を逃れた一部のムスリムは北部のマウンドーやブーティダウンなどロヒンギャが集まる地域で多くの仏教徒を殺し、復讐を果たした。このとき北はムスリム、南は仏教徒という住み分けが確立された。

 ムジャヒドが立ち上げられたのは、それからまもない、国が独立したばかりの1948年だった。彼らは日本軍と戦うために、厳しい訓練を受け、武器ももらっていた。また日本軍から略奪した武器もあった。ムジャヒドとはジハード(聖戦)を実行する者のことをいい、複数形がムジャヒディーンである。ソ連軍と戦ったアフガニスタンのムジャヒディーンがそうである。

 1948年の時点では国軍は東部のカレン族との戦いに忙しく、その隙を狙ってムジャヒドはブーティダウンやマウンドーを完全に支配下に収めた。その後の六年間は南進し、ラカイン人仏教徒の村々を襲い、仏教徒、ムスリム双方の村々に重い租税を課した。そうしたところに国軍の軍隊がラカインに入ってきて、村やモスクを焼き払った。そしておよそ3万人が難民となって東パキスタンに逃げ込んだ。

 ムジャヒドとかムジャヒディーンと聞いただけで震えてしまう人がいるかもしれない。しかし、当時のムジャヒドによる独立の要求が、植民地政府や独立したばかりの政府を動かすことはなかった。それほど多くの支持者がいるわけでもなく、兵力も乏しかった。彼らの兵士は多い時でも千人程度だった。ラカイン人仏教徒がBTF(ビルマ国防義勇軍)を結成して迫ってくるので、それに対抗するためにムジャヒドが結成されたのである。しかしムジャヒドの反乱が起きたのには、複雑な要因がある。モシェ・イェガルは四つの要因を挙げている。

1 インド難民キャンプの何千人もの難民の帰還が許されなかった。
2 帰還が許された者ももともと住んでいた場所に戻ることが許されなかった。
3 ムスリムの政府スタッフは解雇された。
4 所有の土地は没収されラカイン人の間で分配された。

 ムジャヒドは1961年に降伏した。ムジャヒドは一般に考えられるような過激なテロ・グループではなかった。

 その後も1974年にはロヒンギャ愛国戦線(Rohingya Patriotic Front)が結成され、1982年にはロヒンギャ連帯組織(Rohingya Solidarity Organisation)、すなわちRSOが引き継いだ。それは本部をバングラデシュに置き、ロヒンギャの市民権の確保と政治的権利を求める団体だった。80年代、90年代と、彼らは国境を越えてラカイン州北部の警察や軍の施設を攻撃することもあった。とはいっても安全上の脅威となることはなく、90年代後半には活動を停止した。


ロヒンギャ初の本格的テロリスト・グループ 

 2016年10月9日、ARSA(アラカン・ロヒンギャ救世軍)は広範囲にわたって警察施設を襲った。重要なことは、この襲撃を彼ら自身がジハード(聖戦)と呼んだことである。つまり、アルカーイダやISとおなじく、国際テロリスト・グループとしてデビューを飾ったことになる。クルド人の独立国家樹立をめざす組織PKK(クルディスタン労働者党)のように、弱者の中から生まれたテロ組織であり、悲惨な状況に置かれたクルド人やロヒンギャを支援する人権活動家を悩ませてしまう存在である。同情の余地はあるが、過激なテロリズムに走ってしまうと、擁護できなくなってしまう。

 このARSAについてもう少し調べよう。指導者は60年代の生まれのアタウッラー・アブ・アンマル・ジュヌニで、ロヒンギャ難民の両親のもと、パキスタンのカラチで生まれた。その後メッカに移り、マドラサ(神学校)で学び、15万人の弟子を持つイマーム(導師)にまでなった。その後2012年、ロヒンギャ迫害の実体を知り、メッカを出て、パキスタンで組織を立ち上げた。彼はパキスタン・タリバン運動(TTP)のトレーニングキャンプで訓練を受けたという。

 この年の7月、TTPはロヒンギャ虐殺を非難し、ミャンマーに攻撃を加えると宣言した。さらにパキスタン政府に、ミャンマーとの国交を断つよう主張している。こうした動きと、アタウッラーがテロ組織を作ったことにはつながりがあるだろう。TTPはアルカーイダやIS(イスラム国)とも深い関係があった。

 2017年8月25日は記憶に残る特別な日となった。この日の未明、ロヒンギャの武装集団ARSAは、ラカイン州北部の警察施設三十か所や国軍の施設を一斉に襲撃した。彼らはそのあとバングラデシュに逃れた。

 待ち構えていたかのように、ラカイン人仏教徒の協力を得た軍隊は殺戮の限りを尽くした。国境なき医師団によると、少なくとも6700人のロヒンギャが殺された(うち570人は五歳以下の子供)という。そしてマウンドーを中心とした288の村が消失したという。アウンサン・スーチーは、9月5日に作戦が終了したと述べたが、村の破壊はそのあとも行われていた。ノーベル平和賞受賞者アウンサン・スーチーに対する国際的批判が高まったのは当然のことだろう。このことは、彼女が最高責任者でありながら、十分に国軍をコントロールできていないことをはっきりと示していた。

 しかしロヒンギャから本格的なテロ組織が生まれたからといって、これまで長年にわたっておこなわれてきたロヒンギャ迫害、弾圧、ジェノサイドがないことになってしまうわけではない。また捏造ともいえる「ロヒンギャは外国人」という物語も、突然事実になってしまうわけでもない。



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