(13)センサス(人口調査)は語る 


 あらためてセンサスなどの数字について考えてみよう。英国は植民地で定期的に、何度も、一けた台まで正確に人口統計を取っていた。そのことから、英国の植民地となったあと、アラカン(ラカイン)の人口が急激に増加していることがわかり、大量のベンガル人労働者が流入し、不法移民となったのではないかと推測されたのである。

 一見すると完璧な理論のように見えるが、これは一種の数字のマジックである。そもそもアラカンに古くから住んでいたのは、まちがいなくインド人(ベンガル人)である。千年前にビルマ系のラカイン人に統治権を奪われたあとも、多くのインド人はそのままアラカンに残り、次第にイスラム教を信仰するようになっていった。そのような歴史をふまえると、数字の意味合いも異なって見えてくる。

 R・E・ロバーツ少佐は『アラカンの考察』(1777)のなかで、ムスリム(ロヒンギャ)の人口はアラカンの全人口の4分の3だと述べている。つまりムスリム:ラカイン人は3:1の割合だったことになる。もしこの数字が正しいなら、アラカンがビルマに征服される1785年より前、少数のラカイン人仏教徒が多数のムスリム(ロヒンギャ)を支配する構図があったことになる。

 少数が多数を支配することは、よくあることだ。ルワンダ虐殺を思い返してほしい。もともと少数のツチ族が多数のフツ族を支配していた。ところが宗主国のフランスがフツ族を支配者に据えたところ、積年の恨みを晴らそうと、フツ族によるツチ族の虐殺が始まってしまったのである。このように少数のビルマ系ラカイン人が、多数のインド系(ベンガル系)ロヒンギャを支配していたとしても驚くことはない。

 ビルマ軍が侵攻してきたとき、何万人ものラカイン人、ムスリム(ロヒンギャ)が隣のチッタゴン地区に逃れた。ムスリムのほうがはるかに多く難民となったのだろう。第一次英ビルマ戦争で英国がビルマに勝った1826年以降、アラカンの人口が増大しているが、それはよく言われるようにベンガル人労働者が大量に流入したからとはかぎらなかった。 

 英国がアラカンを制圧したばかりの1826年、ペイトンのレポートが発表されている。それによるとアラカンの10万人足らずの人口のうち、6万人がラカイン人、3万人がムスリム、1万人がその他ビルマ人などとなっている。このあともだいたいこの割合がつづいていく。上述のように、もともとムスリムのほうが人口が多かったとすれば、三割強しかいないということは、チッタゴンに逃げたムスリムの数は相当多かったということである。ビルマのボードー・パヤー国王はアラカンのモスクや聖者廟などをことごとく破壊したと伝えられているので、最近の国軍による弾圧のルーツはここにあったと言えるかもしれない。

 またペイトン・レポートのアラカンの人口がわずか10万人にも満たないのも気になるところだ。この時期は人口が減っていたのだろうか。3分の2がチッタゴンに逃げたとしても、なお少なすぎる。おそらく英国のセンサスは人頭税を取るために行われた調査であり、調査がアラカン全土に及んでいなかったのではなかろうか。カウントされるということは、税金を払うということを意味する。たとえば東インド会社が農地開発を進め、その田畑で働けばお金がもらえるのであれば、人々は人頭税を喜んで払っただろう。

 アラカンの特殊事情についても考慮しなくてはならない。つまりマグ人(ラカイン人)の海賊がチッタゴンをはじめとするベンガルから連れてきた奴隷の人口を軽視することができないということだ。アーサー・フェアによると、英植民地時代初期において、奴隷はアラカン全体の人口の15%を占めていた。マンリケによると、17世紀前半、奴隷はムスリムとは限らず、ヒンドゥー教徒もかなりいた。奴隷は主人の宗教に合わせて改宗する傾向があった。しかし二百年のち、奴隷の大半はムスリムだった。この割合が正しいとすると、ロヒンギャの半数近くはベンガル・ムスリムの出自ということになる。ただし一部はアラカン・ムスリムの難民であったかもしれない。

 前述のように、アラカンの人口は121288人(1829年)、195107人(1832年)、246766人(1842年)と飛躍的に伸びている。この時期に農地開発が進み、耕作地は二十年間で4・5倍にもなったという。耕地面積が増えたので、チッタゴンから労働者が大量に押し寄せてきたのだろうか。

 人口増加の原因の一つは、カウントされる人が増えた、という数字のトリックがある。実際の人口は数字より多かったはずである。第二に、チッタゴンの難民がかなり戻ってきたことが挙げられる。ビルマ人の支配下にある間は、アラカンに戻れなかったのである。第三に、人口の自然増加が考えられる。我々は、経済的環境、家庭環境がいいときに人口が増加すると考えがちだが、貧困にあえぐときのほうが増加する。中国では、餓死者が何千万人も出た大躍進の頃に異常な人口増加が起こった。アラカンでは農地が開発されたとはいえ、まだ貧困家庭が多かったのではないか。そして労働者の流入。日本の江戸時代初期も、各地で新田開発が行われ、耕地面積は一挙に拡大した。しかしそれでどれだけの労働者が外国から流入しただろうか。またチッタゴンからアラカンに来た労働者は基本的に季節労働者だった。

 1871年のセンサスによれば、ムスリムの人口は64000人だった。ムスリムの人口はたしかに倍増しているが、全体の人口が2・5倍に増えているので、割合としては減っているのだ。これで不法労働者が激増したと言えるだろうか。

 ロヒンギャという言葉を用いなかったことから「ロヒンギャは存在しない」の根拠とされたバクスター・レポートを編纂したジェームズ・バクスターだが、彼は鋭くムスリムを分類している。「アラカンのムスリム共同体はきわめて長く(アラカンの)アキャブ地区に定住している。どう見ても彼らは先住民である。またアラカンにはわずかながらカマンと呼ばれるモハメダン(ムスリム)がいる。そしてモウルメンあたりには小規模だが長い間定住してるムスリム共同体がある。彼らはインド人ではない」。ブキャナンにならって、ルインガという言葉を用いるべきだったかもしれない。しかし彼にとっては「先住民のモハメダン」で十分だったのだろう。

 ジェームス・バクスターは1940年に、ラカインには6万人のムスリムがいると述べている。1921年のセンサスでは、アラカンのムスリムを24000人としているのに。これは英国人が、アラカン生まれと季節労働者のインド人をごっちゃにしていたせいだろう。

 1921年と1931年のセンサスが行われた頃、アラカンに来ていたインド人の大半は季節労働者だった。アキャブ地区のビルマ・ガゼッティアの中で、R・B・スマートは「チッタゴンから来る人々は定住者ではない。彼らは季節労働者である」とはっきり述べている。リチャード・アドルフとヴァージニア・トムソンの『東南アジアの少数民族問題』(1955)によると「ビルマ本土に来るインド人は永住することが多いのに比べ、アラカンに来るチッタゴン人は季節労働の仕事のあと故郷に戻る」。

 1939年の調査では、インド系移民のビルマ各地における「ビルマ生まれの割合」が調べられている。ビルマ生まれが多いほど、定着が進んでいることになる。これによると、他地域と比べて、ラカインではビルマ生まれが多く、定着が進んでいるのがわかる。しかし見方を変えるなら、英国人はラカインにもとからインド人が住んでいたことを十分認識していなかったことがわかる。ラカイン以外のビルマ国内のすべての場所はインドから離れているので、刈り入れが終わったら故郷に帰る、なんていうことはできない。一方、チッタゴンから出稼ぎでアラカンに来ているインド人がいるとすると、彼らは徒歩と舟で家に帰ることができるのだ。先祖代々ラカインに住んでいるインド系の人に向かって、内地のインド人と同じ質問をすること自体、知識不足を露呈していると言えるだろう。少なからぬ人が「アラカンのムスリムは先住民」と述べているのだから、まず先住民かどうかの調査をすべきだった。

 なお1953、54年の調査ではムスリムの割合が41・70%(仏教徒は56・75%)で、1973年の調査では29・2%(仏教徒は68・7%)である。1983年の調査には、バングラデシュ人(ロヒンギャを指しているのだろう)24・3%などと出てくるので、もはや数字を信頼することはできない。2012年の調査では、総人口3338669人のうち、仏教徒2333670人(67・4%)、ムスリム968726人(28・4%)となっている。ムスリム人口は減少の傾向にあったが、近年さらに大量のロヒンギャ難民が出ているので、この数字はもっと小さくなっているだろう。

 こうしたことからもわかるように、ペイトンが調査した1826年以来、ムスリムの人口の割合はずっと変わっていなかったが、最近になって難民の増加を反映し、小さくなっている。人数だけ見ると、何十万人もの不法労働者がラカインに居座っているように思えるが、実際、そんなにもいないのである。とはいえ、ペイトンの頃、数字上3万人にすぎなかったムスリムの人口が300万人以上に増えてしまっている(国内に残っているのは百万人弱)のはどういうことなのだろうか。私から言わせてもらえば、「数えられる人だけ数えていた」のであり、実際はもっとたくさんの人がいたということである。

 現在のラカイン州の総人口が300万人余り。ラカイン人200万人、ムスリム100万人で、ムスリムの国外難民が200万人。どう考えたって、数が合わない。ロヒンギャが国内外あわせて300万人なら、ラカイン人は600万人以上いるはずである。現在でさえ「数が合わない」のだから、英国の調査も数字を信じすぎないほうがいいということになる。

 また世界的に人口は自然に激増してきた。1820年代に10億人余りだった世界の人口は、いまや80億人である。世界最大級の都市であった江戸(東京)でさえ人口百万にすぎなかったが、今では一千万人を軽く超え、1396万人である。我々は数字のトラップ(罠)にひっかかり、知らず知らずのうちに歴史を捏造し、一つの民族を地獄に突き落としていたのである。ムスリムの割合が増えていない以上は、不法移民は存在しない。近年ムスリムの割合が減っているということは、難民の発生や虐殺によって実際に人口が減っていることを意味しているだろう。

 近年ロヒンギャ難民の出生率が高く、難民キャンプの人口が膨れ上がるという問題が発生している。2022年4月、バングラデシュのアサドゥザマン・カーン・カマル内務大臣は、難民キャンプの出生率が高くなり、毎日新生児35000人が誕生していると報告した。一日95人以上である。人口1000人当たりの出生率は35人にもなる。バングラデシュの17・87人のほぼ倍である。日本の出生率6・6人の5倍以上だ。避妊の知識がないというより、宗教的な理由から避妊を拒む人が多いという。現在の日本政府は出生率を高めるために、新生児が生まれた家庭に一律50万円の補助金を出すといった対策を講じている。しかし未来の明るい生活を保障することが出生率を高める一番の手立てではないことは、ロヒンギャのコミュニティを見ればわかる。

 それどころか、危機感がつのったときほど、子孫を残そうとする本能が働くのか、出生率は高まる傾向にある。上述のように、中国において数千万人の餓死者が出た大躍進(1958―62年)の頃に、異常なほどのベビーブームが起きているのだ。もちろん難民キャンプのベビーブームをかつてのロヒンギャ共同体に当てはめることができるかどうかは疑問だが、人口が増えたからロヒンギャはみなバングラデシュからの移民だ、と結論づけるのは早計過ぎるということだ。自然な人口増加も十分にありえる。統計数字だけで一つの民族を外国人扱いするのは避けるべきだろう。


⇒ 補遺