(15)センサス(人口調査)は語る、あるいは語らない 


真実と捏造は紙一重 

 ミャンマー政府の側に立つ識者の代表格がキン・マウン・ソーだ。彼は言う。
「アラカン(ラカイン)は当時(英植民地が始まった1826年頃)人口過疎地域でした。それゆえ英国は何万人ものチッタゴン・ベンガル人をアラカンに呼び込んだのです。アラカン人は今日までこの外国人という重荷を背負わなければなりませんでした。この外国人どもはあらゆる手を尽くして、ビルマ全体とまでいかなくても、アラカンをイスラーム化しようとし、今もしているのです」

 ハビブ・シディキによれば、この言葉は実際に起きたことと矛盾している。ビルマがアラカンを占領した四十年間(1784-1824)に、何万人もの仏教徒、ムスリム、ヒンドゥー教徒のアラカン人が殺された。征服者のビルマ人がモスク、仏教寺院、ヒンドゥー寺院を破壊し、マハムニブッダを含む多くの宝を盗んでいった。二万人の住人は囚人として都のアヴァへ連れていかれた。1798年までボードー・パヤー国王はパゴダ建設のための奴隷労役と徴兵を求めつづけた。こうしてヒンドゥー教徒、ムスリム、仏教徒の住人の三分の二がチッタゴンに難民として脱出することになった。ファルーク・アフメドによれば、ベンガルに逃れたムスリム難民の数は二十万人にも及んだ。

 「さらに悪いことに」とシディクは指摘する。「ビルマがアラカンを植民地とした(支配した)つぎの四十年の間に、実質的に、文化的にイスラーム的だったすべてのものが、徹底的にそぎ落とされてしまった」

 そもそもなぜラカインに来たインド人だけが不法移民とみなされるのだろうか。二十世紀はじめにミャンマーに移住したインド人は百万人だった。現在も二百万人以上のインド系の住民が居住している。ラカイン以外のミャンマー国内で不法移民と呼ばれることはない。[註:わたしは移民自体が言われているほどには多くなかったと見ている。季節労働者が多かったこと(ラカイン・ムスリムの人口が増えたため季節労働者の需要は減っていった)、労働者の多くがラカイン出身の難民の子孫であったこと(つまり移民でなく帰還)、人口の自然増加(難民キャンプでもロヒンギャの出生率は日本の5倍以上と非常に高い)などから人口増加の説明ができる] 

 われわれ外部の者には「ラカイン(アラカン)対ビルマ」「ラカイン人仏教徒対アラカン・ムスリム」「ビルマ人仏教徒対アラカン・ムスリム」の対立構造が見えにくい。キン・マウン・ソーの言葉も、もっともらしく聞こえるが、ラカイン人仏教徒、アラカン・ムスリムからすると、暴論なのである。アラカン・ムスリム、すなわちロヒンギャからすると、ビルマ人(ミャンマー人)はムスリムを外国人に仕立て上げて、駆逐しようとしているのだ。ラカイン人仏教徒はムスリムを追い出すのは大賛成だが、その隙をついてラカインをビルマ人に制覇されるわけにはいかない、ということになる。

 さらには英国がおこなったセンサス(人口調査)を「アラカン・ムスリムが外国人である証拠」として使うな、とムスリム側は考えている。あとで述べるように、先住民のムスリムとベンガル人の区別すらできていない調査を信頼することはむつかしい。

センサスが語ること 

 センサス(人口調査)は植民地政策の根幹をなすもので、植民地を管理し、監視するには不可欠な方法であった。それは植民地税制の基礎でもあった。英国は植民地で定期的に、何度も、一けた台まで正確に人口統計を取っていた。この調査によって、英国の植民地となったあと、アラカン(ラカイン)の人口が急激に増加していることがわかり、大量のベンガル人労働者が流入し、不法移民となったのではないかと推測された。

 一見すると完璧な理論のように見えるが、これは一種の数字のマジックである。調査は非常にこまかいが、同時にお役所仕事的だった。アラカン以外のビルマ本土にインド人先住民はいないが、アラカンにはいたということが、考慮されなかったのである。アラカンにもっとも古くから住んでいたのは、まちがいなくインド人だった。千年前にビルマ系のラカイン人に統治権を奪われたあとも、多くのインド人はそのままアラカンに残り、次第にイスラム教を信仰するようになっていった。ムスリムとなったインド系の先住民をロヒンギャと呼ぶなら、ロヒンギャはこうして誕生したともいえるだろう。

 奴隷から生まれたムスリム人口も軽視することはできない。マグ人(仏教徒のラカイン人)とポルトガル人のいわば海賊事業の規模はわれわれが考えるよりはるかに規模が大きかった。彼らがベンガル湾で捕獲したベンガル人ムスリムやヒンドゥー教徒の数は信じがたいほど多かった。このような歴史をふまえると、数字の意味合いも異なって見えてくる。

 R・E・ロバーツは『アラカンの考察』(1777)のなかで「レケン(アラカン)の住民のおよそ4分の3がベンガル出身者、あるいはその子孫である。彼らはつねに英国人が部隊を送って彼らを奴隷の身から解放してくれることを、そして国(ベンガル)に帰してくれることを願っている。その場合、彼ら自身が全力を尽くして協力するつもりなのだ」と述べている。ここでも彼ら(英国人)はムスリムのどれだけがネイティブであるか、見誤っている。75%が奴隷のベンガル人なんていうことはありえない。

 しかしアラカン人の75%がムスリムということならありえるかもしれない。奴隷の占める割合が15%というのもありえないだろう。奴隷貿易の全盛期ならありえるが、奴隷貿易がなくなった瞬間から、割合は減少していたはずだ。奴隷はあくまで奴隷で、入植者ではないのだから。またこの75%には、カマンと呼ばれる人々(パタン人など)も含まれていただろう。彼らはムガル帝国の皇子が難を逃れて亡命してきたときに同行してきた部隊の子孫というのが妥当な解釈である。

 英国がアラカンを制圧したばかりの1826年、ペイトンのレポートが発表されている。それによるとアラカンの10万人足らずの人口のうち、6万人がラカイン人、3万人がムスリム、1万人がその他ビルマ人などとなっている。このあともだいたいこの割合がつづいていく。上述のように、もともとムスリムのほうが人口が多かったとすれば、三割強しかいないということは、チッタゴンに逃げたムスリムの数は相当多かったということである。

 前述のように、アラカンの人口は121288人(1829年)、195107人(1832年)、246766人(1842年)と飛躍的に伸びている。この時期に農地開発が進み、耕作地は二十年間で4・5倍にもなったという。耕地面積が増えたので、チッタゴンから労働者が大量に押し寄せてきたのだろうか。

 人口増加の原因の一つは、カウントされる人が増えた、という数字のトリックがある。実際の人口は数字より多かったはずである。第二に、チッタゴンの難民がかなり戻ってきたことが挙げられる。ビルマ人の支配下にある間は、アラカンに戻れなかったのである。第三に、人口の自然増加が考えられる。我々は、経済的環境、家庭環境がいいときに人口が増加すると考えがちだが、貧困にあえぐときのほうが増加する。中国では、餓死者が何千万人も出た大躍進の頃に異常な人口増加が起こった。アラカンでは農地が開発されたとはいえ、まだ貧困家庭が多かったのではないだろうか。そして労働者の流入。日本の江戸時代初期も、各地で新田開発が行われ、耕地面積は一挙に拡大した。しかしそれでどれだけの労働者が外部から流入しただろうか。

 1871年のセンサスによれば、ムスリムの人口は64000人だった。ムスリムの人口はたしかに倍増しているが、全体の人口が2・5倍に増えているので、割合としては減っているのだ。これで不法労働者が激増したと言えるだろうか。

 ロヒンギャという言葉を用いなかったことから「ロヒンギャは存在しない」の根拠とされたバクスター・レポートを編纂したジェームズ・バクスターだが、彼は的確にムスリムを分類している。「アラカンのムスリム共同体はきわめて長く(アラカンの)アキャブ地区に定住している。どう見ても彼らは先住民である。またアラカンにはわずかながらカマンと呼ばれるモハメダン(ムスリム)がいる。そしてモウルメンあたりには小規模だが長い間定住してるムスリム共同体がある。彼らはインド人ではない」。ブキャナンにならって、ルーインガという言葉を用いるべきだったかもしれない。しかし彼にとっては「先住民のモハメダン」で十分だったのだろう。

 1921年と1931年のセンサスが行われた頃、アラカンに来ていたインド人の大半は季節労働者だった。アキャブ地区のビルマ・ガゼッティアの中で、R・B・スマートは「チッタゴンから来る人々は定住者ではない。彼らは季節労働者である」とはっきり述べている。リチャード・アドルフとヴァージニア・トムソンの『東南アジアの少数民族問題』(1955)によると「ビルマ本土に来るインド人は永住することが多いのに比べ、アラカンに来るチッタゴン人は季節労働の仕事のあと故郷に戻る」。チッタゴン人にとって、ラカインは歩いて行き来できる近所なのである。

 
この1921年と1931年のセンサスをとくに批判しているのがモシェ・イェガルだ。彼は言う。「センサスの数値は正確というわけではなかった。1921年のセンサスでは、アラカン・ムスリムはインド人として記載された。1931年のセンサスでも多くのアラカン・ムスリムが母語はベンガル語であると主張し、インド人として記載された」

 
次章で述べるように難民を受け入れている地元ベンガル人とロヒンギャ難民は互いに「異なる民族だ」と主張しているが、ロヒンギャ語もベンガル語の一種であり、大きな分類では同じグループに属している。モシェ・イェガルが指摘するように、アラカン・ムスリム(ロヒンギャ)がベンガル語の一種を話すため、インド人に分類され、のちには外国人とみなされるようになってしまった。

 
1939年の調査では、インド系移民のビルマ各地における「ビルマ生まれの割合」が調べられている。ビルマ生まれが多いほど、定着が進んでいることになる。これによると、他地域と比べて、ラカインではビルマ生まれが多く、定着が進んでいるのがわかる。しかし見方を変えるなら、英国人はラカインにもとからインド人が住んでいたことを十分認識していなかったことがわかる。ラカイン以外のビルマ国内のすべての場所はインドから離れているので、刈り入れが終わったら故郷に帰る、なんていうことはできない。一方、チッタゴンから出稼ぎでアラカンに来ているインド人がいるとすると、彼らは徒歩と舟で家に帰ることができるのだ。先祖代々ラカインに住んでいるインド系の人に向かって、内地のインド人と同じ質問をすること自体、知識不足を露呈していると言えるだろう。少なからぬ人が「アラカンのムスリムは先住民」と述べているのだから、まず先住民かどうかの調査をすべきだった。

 それともうひとつ重要なことは、季節労働者のうちのどれだけがアラカン・ムスリム(ロヒンギャ)であるかどうかがわかっていないことだ。1784年以降にコンバウン朝ビルマ軍の侵攻を受けて二十万人の難民が発生したと推測されるが、彼らの子孫が帰郷を果たしたとも考えられる。

 なお1953、54年の調査ではムスリムの割合が41・70%(仏教徒は56・75%)で、1973年の調査では29・2%(仏教徒は68・7%)である。1983年の調査には、バングラデシュ人(ロヒンギャを指しているのだろう)24・3%などと出てくるので、もはや数字を信頼することはできない。2012年の調査では、総人口3338669人のうち、仏教徒2333670人(67・4%)、ムスリム968726人(28・4%)となっている。ムスリム人口は減少の傾向にあったが、近年さらに大量のロヒンギャ難民が出ているので、この数字はもっと小さくなっているだろう。

 こうしたことからもわかるように、ペイトンが調査した1826年以来、ムスリムの人口の割合はずっと変わっていなかったが、最近になって難民の増加を反映し、小さくなっている。ただし難民を加えればかなり増えたことになる。とはいえ、ペイトンの頃、数字上3万人にすぎなかったムスリムの人口が膨れ上がってしまっている(国内に残っているのは百万人弱)のはどういうことなのだろうか。まず自然増加が考えられる。ミャンマー独立前、ムスリムの人口の割合自体は微増にすぎなかった(急激に増えたのは、あくまで独立後のこと)。ラカイン内のラカイン人仏教徒やビルマ人(内地)の人口増加は問題にならないのに、ムスリムの人口増加だけがなぜ問題になるのか。

 世界的に人口は自然に激増してきた。1820年代に10億人余りだった世界の人口は、いまや80億人である。世界最大級の都市であった江戸(東京)でさえ人口百万にすぎなかったが、今では一千万人を軽く超え、1396万人である。ハビブ・シディキによると、バングラデシュの人口は1951年の4200万人が2010年の1億4200万人に、パキスタンの人口は1951年の3400万人が2010年の1億7千万人(いまや2億人を超える)に、59年の間にそれぞれ3・4倍、5・0倍に増えている。

 近年ロヒンギャ難民の出生率が高く、難民キャンプの人口が膨れ上がるという問題が発生している。2022年4月、バングラデシュのアサドゥザマン・カーン・カマル内務大臣は、難民キャンプの出生率が高くなり、毎年新生児35000人が誕生していると報告した。一日95人以上である。人口1000人当たりの出生率は35人にもなる。バングラデシュの17・87人のほぼ倍である。日本の出生率6・6人の5倍以上だ。避妊の知識がないというより、宗教的な理由から避妊を拒む人が多いという。もちろん現在の状況を過去に当てはめることはできないが、ロヒンギャの人口増加率はつねに他より大きかったのかもしれない。

 序説で述べたように、ロヒンギャは長い間信じ難いほど出生率が高いことに関して非難されてきた。2005年、マウンドー当局は「出生率を統御するために、結婚の許可を得た者たちは出生を制限されることになる。十分な食べ物と生活する場所を確保するための措置である」というお触書を出した。出生制限が必要なほど、ロヒンギャは人口が増加しやすい人々だった。

 うがった見方をするなら、ラカイン人仏教徒が恐れているのは、違法に滞在する人々の存在というより、異なる宗教を信仰する人々の人口が爆発的に増えて、ラカインで圧倒的多数になることかもしれない。


センサスが語らないこと

 20世紀初頭、アキャブ(現ラカイン州シットウェ)の港に降り立った新任の英国の官吏の目にどういう情景が映っただろうか。カラダン川の河口は相当に大きく、あたかも内海のようで、ここは天然の良港だった。陸(おか)には米でいっぱいの荷箱が積み上げられている。労働者たちはこの荷箱を沖合の貨物船まで運ぶ艀(はしけ)に忙しそうに移している。

アラカン宮廷にいたベンガル詩人アラオルが「お米と魚が豊かな美しい地」とほめたたえたアラカンが戻ってきたのである。荒廃していた耕作地がよみがえり、もともとさかんだった稲作が主産業の地位を取り戻していた。

 彼は活気のある港の様子を見て、ラングーン(ヤンゴン)とはかなり違うという印象を持った。ラングーンもたしかにインド人が目に付くが、アラカン(ラカイン)は、「ここはベンガルか」と思うほどベンガル系インド人の姿が目立つのだ。

 彼は早とちりをしてしまう。ベンガル人に見える人々はみなベンガルから来た出稼ぎ労働者だと思ってしまったのだ。それも仕方ないことだろう。アラカンが独立国家でなくなってから百数十年たっているだけでなく、ここで植民地政府のもと地方行政を担っているのは主にビルマ人(実際はビルマ系ラカイン人)なのだから。

 1920年にアキャブにやってきた(赴任先はラムリー島のチャウピューだったが)新しい地方長官は少し違っていた。彼の名はモーリス・コリス(1889-1973)。この若き長官も、最初は「やたらにベンガル人が多いな」と思ったかもしれない。しかし実際にダニャワディで発掘された仏像やヒンドゥー教の神像を見て、考えを改めたようである。アラカンに最初に住んでいたのはインド人で、ビルマ人はずっとあとになってやってきたことに気づいたのである。[第7章参照] 

 コリスは1929年に治安判事としてラングーンに赴任する。彼はそこで見聞きしたことを本にまとめて『ビルマの法廷』と題して1938年に出版した。この本は『ビルマ風雲録』として、日本でも1942年2月に翻訳が出た。読んでみると(かなり改編されている)ビルマ人が英国人やインド人に対し反感を抱き始めていることがわかる。この翻訳本は、ビルマに進駐したばかりの日本軍にとって貴重な資料となったにちがいない。

 ポルトガル人宣教師マンリケに焦点をあてたアラカンの歴史風土についての本、『大仏の地』が出版されたのは1943年だった。この本のなかでコリスは、アラカンにもともと住んでいたのはインド人であり、アラカンに仏教やヒンドゥー教をもたらしたのは彼らであると正しく指摘している。ただ第二次世界大戦の真っただ中のことであり、読者から注目されることはなかった。

 本が出版された二年後に戦争は終わり、1948年にはビルマも独立を果たすことができた。アラカンに注意を払う人もいなくなってしまった。コリスの本の出版がもう十年早ければ、アラカンの歴史に関する知識も大幅に増えることになっていたかもしれない。「ベンガル人だらけ」に見えるアキャブの人々のうち、どれだけが古代アラカン人(インド人)の血を引いているか、どれだけが季節労働者か、どれだけがベンガル移民か、どれだけがベンガル人奴隷か、どれだけがカマン人か、調べられていたかもしれない。それを調べないでどれほど細かく人口調査をしたところで、不正確な調査結果しか出ないだろう。


2014年のミャンマーのセンサス 

 国連人口基金や数ヵ国の協力によって、ミャンマーで1983年以来31年ぶりに実施されたセンサス(国勢調査)は、翌年の総選挙の準備を兼ねていて、同国の民主化の象徴となるはずだった。国際的にはそういった高い評価を得ていたかもしれない。しかしロヒンギャにとっては難民キャンプに送り込まれる口実にすぎなかった。

 伝え聞くところによると、ミャンマー当局はセンサスをおこなう際、ロヒンギャにベンガル人であることを認めるよう迫ったという。拒絶すると、彼らは自己証明カードを剥奪され、難民キャンプに送り込まれた。警察や軍隊に暴力をふるわれてけがを負っても、ラカインの病院からは診療をことわられたという。

 毎年モンスーン期(初夏)になると難民が発生したが、2015年はとくに大量のロヒンギャ難民が発生した。タイが人身売買ルートを遮断したため、難民ボートは海上をさまようことになり、結局インドネシアやマレーシアが一時的に受け入れることになった。もし人身売買ルートにのってしまえば、奴隷として働かせられていたと思われるので、結果的には最悪の事態を免れたことになる。

 この時期、当時のオーストラリアのトニー・アボット首相は荒海に繰り出すロヒンギャ難民を「無謀だ」と非難し、難民受け入れについて問われると、「ノー、ノー、ノー(まさか、まさか)」と答えたことが話題になった。神学校に通ったこともある敬虔なカトリック信者であるアボット元首相は、イスラーム・ヘイトの精神の持ち主なのだろうか。政治に毒されて心を失ってしまったのだろうか。

 これに対し、フランシスコ教皇は異教徒の難民に対して思いやりの心を示している。
「われらの兄弟、ロヒンギャのことについて考えてみましょう。彼らはひとつの国からほかの国へ、そしてまたほかの国へと追いやられています。港か浜辺に着いて、少しだけ水や食べ物を与えられ、そしてまた海へ追いやられるのです。これは解決されない葛藤です。これは戦争です。これは暴力です。これは殺人です」



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