(7)英植民地時代のロヒンギャ
英国がビルマにやってきた頃、ロヒンギャはどうしていたのだろうか。ここで押えておかないといけないのは、1784年にビルマ軍がアラカンに侵攻したときに、多数の仏教徒ラカイン人、ロヒンギャ・ムスリムが難民となって、現在のバングラデシュのチッタゴン地区に逃れたことである。とくに民族の魂であるマハムニブッダが略奪されたことで、仏教徒ラカイン人はビルマに対し怨恨の情を抱くことになった。まさに21世紀の20年代になってもAA(アラカン軍)とミャンマー国軍は頻繁に戦っているが、そのときの感情を引きずっているのである。
ロヒンギャ・ムスリムはビルマ人に対して、そこまでの敵対心は持っていなかった。彼らは第一次英ビルマ戦争(1824―26)のとき、中立で、大半は戦争には参加しなかった。
しかし五つの師団を率いるビルマのタド・ミンジ・マハ・バンドゥラ将軍が行進してアラカンに入り、新規で兵を募集すると、思いのほか多くのロヒンギャ・ムスリムが参加を望んだのである。これがミンビャのカズィ・アブドゥル・カリム率いるムスリム軍である。しかしアブドゥル・カリムは戦闘中に生きたまま捕虜となり、カルカッタ軍刑務所に収監されてしまった。バンドゥラはのちに司令室を現在のブティダウンに移し、新兵を募集した。
第一次英ビルマ戦争が終わるとともに、1826年、アラカンはビルマより先に英国の植民地になった。一時的にせよ、アラカン国はビルマから分離することができたのである。しかし第三次英ビルマ戦争(1885―86年)が終わったとき、ビルマは英領インドに併合され、それとともにふたたびアラカンはビルマと結合することになった。
英国人はまるで植民地主義国家の責務であるかのように、頻繁にセンサス(人口調査)をおこなった。このセンサスからロヒンギャ不法移民説が生まれたことを考えれば、その影響力ははかりしれないほど大きかった。しかしまず、19世紀前半、アラカンの人口が増大した理由の一つは、アラカン国がビルマに征服されたとき(1784年)に発生したラカイン人仏教徒とアラカンのムスリムの難民が戻ってきたことだった。
そもそもイスラエルの歴史家モシェ・イェガルが言うように、「人口調査の数字はまったく正確ではない」。彼はつづけて言う。「1921年の人口調査ではアラカンのムスリムはインド人としてカウントされた。1931年の調査でも、多くのアラカン人ムスリムが母語はベンガル語であると主張し、インド人としてリストアップされた」と。
またこのときのアラカンに来ていたインド人の大半は、労働シーズンが終わると家に戻る季節労働者だった。アキャブ地区のビルマ・ガゼッティア(1917年)の中でR・B・スマートは言う。「チッタゴンから来る人々は定住者ではない。彼らは季節労働者である。シーズンが終わると彼らは家に帰る。ごくわずかなはぐれ者だけが残る」と。
ロヒンギャ語とチッタゴン語はベンガル語の方言であり、よく似ている。つまりロヒンギャ・ムスリムとチッタゴン人を区別するのは非常にむつかしいのに、英国人はどうやって区別したのだろうか。アラカン以外のインド人ムスリムとアラカンのロヒンギャ・ムスリムの状況がまったく異なることを彼らは知っていただろうか。
1872年と1882年の英国のセンサス(人口調査)によれば、チッタゴンからの季節労働者を加味しても、ムスリムの人口はほとんど増えていないという。のちに英植民地時代に「不法労働者が大量にやってきた」「ベンガルからの移民が急増した」といった「神話」が形成されていくが、耕地面積が増大したとはいえ、労働者がそこまでたくさんやってきたようには見えない。マレー半島のゴム・プランテーションやビルマの鉱物、木材のような大規模な人材を必要とする産業は存在しなかった。
英国のセンサスでは、民族は言語によって分類された。つまりロヒンギャはチッタゴニアンかインド人というカテゴリーに入れられた。チッタゴン語とロヒンギャ語はわずかな方言程度の差しかなく、一つの言語と言ってもいいだろう。しかし歴史書をひもとけば、早ければ紀元前3世紀、遅くとも紀元4世紀までには、インド人居住区は拡大し、アラカンまで含まれていた。しかも17世紀中ごろまでのチッタゴンはアラカン国の一部であることもあった。チッタゴン地区とアラカンに民族の連続性があるのは当然の話だった。英国人は歴史的経緯を知らず、アラカンのチッタゴン人に見える人々を、チッタゴンから来た労働者か移民とみなしたのだろうか。
もう一度センサスに話を戻そう。1912年のアキャブ地区(現・シットウェ)の調査で、ベンガル語を話すムスリム(ロヒンギャ)は30%余りで、それ以外のムスリムも同じくらいいた。具体的にはロヒンギャが18万1千人で、それ以外のムスリムが17万9千人だった。
1953年、54年の調査では、アラカンの全人口の57%が仏教徒(ビルマ系ラカイン人)で、42%がムスリムである。1973年の調査では、ラカイン州の全人口170万人のうち、仏教徒69%、ムスリム29%となっている。
1983年の調査ではラカイン人68%、バングラデシュ人24%となっている。これは看過することができない、悪ふざけのすぎる調査結果である。なぜ突然バングラデシュ人が登場するのか。じつは1971年にパキスタンから独立したバングラデシュから大量に難民が発生し、ラカインに逃げ込んだと、1973年頃からビルマは主張するようになっていた。国家ぐるみの歴史捏造と言われても仕方ないではないか。
あとで述べるように、アウンサン・スーチー氏すら、ロヒンギャを外国人、すなわちバングラデシュ人とみなしていた。これでは、国民のすべてが騙されたといっても過言ではないだろう。アウンサン・スーチー氏にはもう一度歴史を調べ直してもらって、前言を撤回してほしいところだが、クーデターによってできた現政府のもと捕らわれの身となってしまっては、もはや不可能になってしまった。