神話なし、事実のみの<ロヒンギャの歴史>
ウー・チョー・ミン
アラカンの住人について私たちはおおまかにとらえることができた。初期の人口統計調査の客観的研究によってアラカンの歴史の誤解を解くことができた。ラカインの年代記は漠然とラカイン時代とインド人の人々の初期の諸王朝とを結びつけた。実際のところ、人口統計調査の文脈のなかで、古代とラカイン時代(10世紀から18世紀)の間にはミッシングリンクが存在するのだ。
最新の科学的な研究者であるパメラ・グトマン氏によればアラカンで優勢なチベット・ビルマ語族のラカイン族は、10世紀以降アラカンに入ってきた人々である。サク族から長い間抵抗を受けたあと、彼らは10世紀後半にアラカン平原を統御するようになった。最初の都はピンサであり、最初の王はケタテインだった。ピンサは1018年に建設された。
ロヒンギャに対して批判的な書き手たちはこうした歴史の流れを受け入れている。彼ら(ラカイン人の書き手)は自分たちをビルマ人と呼んでいる。ウー・キン・マウン・ソーはアラカン人をつぎのように定義する。「欧米に知られているように、彼らはアラカン、あるいはラカイン・プリーのネイティブであり、仏教徒であり、民族的にはモンゴロイドである」
ここで疑問が湧いてくる。豊かな文化、文学、考古学的遺物、紀元前に花開いた宗教はいったい誰に属しているのか。この文明は、碑文によればラカイン族よりも前に定住していたムロ、サク、カミ、チンに属しているのか。それはありえない。なぜなら彼らは今も素朴な部族であり、大半は最近までアニミズム信仰の信者だったのだから。彼らの言語は碑文のそれと大きく異なっていた。ここにミッシングリンクがあるのだ。ラカイン人と山岳民族を除くと、この初期の文明の正しい継承者はロヒンギャということになる。
ひとつここで注意しておくべきことは、古代アラカンにはヒンドゥー教徒やバラモンがいたことである。彼らはインド人にほかならなかった。モンゴロイドはヒンドゥー教徒になれないのだ。ラカイン人はモンゴロイドである。これについてパメラ博士は書いている。
マーティン・スミスによると、民族集団としてのラカイン人は、ビルマ族の本体が9世紀かおそらく10世紀にビルマ上部の乾燥地域に移住したのと同じ頃に、アラカンに現れるようになった。
もっとも複雑なのは、ロヒンギャがいまムスリムであることだ。なかにはアラブやイラン、インドから来た者もいるだろう。しかし大半は転向したネイティブなのである。ムスリムに転向したときから彼らは仏教文化を捨て去った。
この仏教文化と仏教文明が渡されたビルマ人仏教徒は10世紀以降この地を統治している。それは歴史的、論理的転換点だった。今日のロヒンギャがこの隠れた部分を明るみに出そうとすると、既得権を持つ利益団体の利益とぶつかるのである。この団体はロヒンギャの民族ルーツを無視し、ラカイン人の土地にインドやベンガルから移住してきたムスリムであると決めつけているのだ。これが問題の根源である。
ラカインの人々はこれに関しムスリムやロヒンギャを貶め、一歩も譲らない。これを根拠にロヒンギャはミャンマー内のいっさいの権利を奪われてしまっているのである。ロヒンギャの市民権を奪うことが反ロヒンギャ・キャンペーンの眼目なのである。見逃すことのできないポイントが一つある。それは2010年の国政選挙までのビルマの歴代政権がロヒンギャに市民権を与えていたことである。差別がひどいなかにあっても与えられたのだ。
私は控えめに外国、とくにインドやバングラデシュの歴史家に嘆願したい。彼らの手の中に、歴史上の素材はたっぷりあるのだ。アラカンの歴史のミッシングリンクにもっと好意的に専念してもらえば、歴史上の誤解はとけ、ロヒンギャも救われるだろう。アラカンにおいて古代碑文、考古学、人工物から判断するに、ロヒンギャだけがアラカンの初期のインド・アーリア系の人々と民族的に近く、関係があるのだ。
一方でもしあなたが彼らをムスリムとしてとらえると、ムラウー王朝時代全体を通じて疑問の余地なくアラカン人のあらゆる面においてムスリムが支配的であったことがわかる。誰かが主張しているようにロヒンギャがバングラデシュから来た不法移民であるということはありえない。しかしこの主張によってミャンマーと世界の主張は間違った方向に導かれてしまった。
ムラウー王朝時代のムスリム(現在のロヒンギャ)の役割を理解するためにジオ・ファリーの『世界史コンパクト・アトラス』を見てみよう。そこには15世紀、アラカンはイスラム国家であったと書かれている。ムスリムの政治的、文化的影響が圧倒的だったのである。